第1話 起きたら、働かなくていいらしい
目が覚めて最初に思ったのは「寝すぎた」だった。
目覚ましはどこだと手探りで探しかけ、時間を確かめようとして、今日って平日だっけと考えたところで止まる。
いや待て。体が軽い。
朝ってこんな感じだったか。もっとこう、起きた瞬間から首も肩も腰もそろって不機嫌で、「本日も労働です」と重さを押しつけてくるものじゃなかったか。少なくとも昨日までの俺にとって、朝はそういうものだった。
「……なにこれ。妙にすっきりするな」
口に出してから、自分の声に引っかかった。
若い。
そこでようやく本格的におかしいと思った。
目を開ける。
知らない天井だった。壁も知らないし部屋も知らない。ワンルームだと思う。ベッドの脇に小さなテーブルがあって、その向こうにテレビ台。壁際に収納棚があり、奥にはキッチンが見える。必要なものはそろっているのに、どこを見ても「自分の部屋」という感じがしない。
俺はゆっくり上体を起こした。
普通に起きられた。腹に変な力を入れなくていいし、腰もきしまない。膝も痛くない。朝から体がまともに動くだけで、こんなに気分が違うのかと思う。
「ちょっと待てよ」
まずは自分を見た方がいい。そう思って自分の手を見る。
指は細くて肌は若い。乾燥もしていない。昨日まで見慣れていた手とはだいぶ違う。
「誰の手だよ、これ」
そこまで言ってから、ベッド脇のスマホに気づく。
見覚えのない黒い端末だった。とりあえず手に取って画面を点けると、通知が並んでいた。
【生活支援ポータル:今月分の支援金が入金されました】
【男性生活サポート:配送枠をご利用いただけます】
【外出安全ガイド更新:単独外出時の注意事項をご確認ください】
【支援対象者向け定期確認】
「支援金?」
そこだけ先に目に入る。朝一で見る単語としてはかなり出来がいい。
ただ、その前に自分の顔を確かめたくなった。手も違う。声も違う。体まで軽い。ここまでそろっていて、顔だけそのままなんてことはたぶんない。
俺はスマホを持ち直し、インカメラを開いた。
知らない男が映った。
「うわ、若っ」
それが最初の感想だった。
二十歳くらいに見える。黒髪で、寝起きらしく少し乱れている。顔立ちは普通に整っている。少なくとも仕事帰りのコンビニのガラスに映る、あのくたびれた三十五歳ではない。
「誰だよお前。……いや、俺か?」
当然、返事はない。
でも夢っぽくもなかった。スマホの重さもシーツの感触も、寝起きの口の渇きもやけに現実だ。
画面を閉じて、もう一度深呼吸する。
落ち着け。まずは状況確認だ。
ロック解除を試す。知らないスマホなのに、親指を当てると指紋認証で普通に開いた。
「そこは開くのか」
妙にスムーズで、そこだけもうなじんでるのが不思議だった。
ホーム画面はかなり整理されていた。生活系のアプリ、通販、動画、SNS、配信アプリ。ゲームも少し。ごちゃごちゃしていない。少なくとも、仕事の連絡と通知で埋まりがちだった昨日までの俺のスマホより、ずっと人間らしい。
まずは銀行アプリを開く。
数字を見て止まった。
……ある。
残高がある。しかも思ったよりちゃんとある。履歴を追ってみても給料らしいものはないし、バイト代もない。代わりに毎月きっちり似たような入金が並んでいる。
支援金。生活補助。男性生活安定給付。
「働いてないのに入る金か」
その瞬間、かなり気が楽になった。
こういうところで最初に安心するあたり、中身はちゃんと社会人のままらしい。昨日までの俺にこの画面を見せたら、たぶんわりと真面目に拝む。
次に生活支援ポータルを開く。
ログイン済みだった。便利だなと思うし、そこは素直にありがたい。
トップ画面に名前が出ていた。
橘 湊人
年齢:20
区分:男性生活支援対象者
「橘湊人。二十歳」
口に出してみる。
変な感じはする。でも完全に他人の名前でもない。そこがいちばん落ち着かない。
プロフィールを見る。住所はこの部屋で就業なし。家族情報はない。どうやら一人暮らしらしい。
「二十歳で無職で支援対象、か」
昨日までの俺ならかなり羨ましがっただろうなと思う。
体は若い。金も入る。部屋もある。条件だけ見ればかなり当たりで、少なくとも朝から会社へ行くよりはずっといい。
ただ、支援ポータルの文章を読んでいると少しだけ気になるところも出てくる。
【男性の皆さまが安全かつ安定した日常生活を送れるよう、各種支援を提供しています】
【外出時は安全確保のため、同行サービスの活用をご検討ください】
【単独行動時は混雑時間帯を避け、推奨ルートをご利用ください】
かなり手厚い。
支援金もあるし配送枠もある。生活用品の補助も見守り機能も相談窓口もある。生活に困らないよう、最初からいろいろそろっている。
「外出の案内まであるのか……」
思っていたより細かい。ポータルの中には推奨時間帯や回避ルート、同行サービスの申請、緊急連絡先まで並んでいた。
ここまで書いてあるなら、ちゃんと理由もあるはずだ。そう思って検索アプリを開く。
『男性生活支援 なぜ』
『男 同行サービス』
『男女比』
いくつか記事を開いて読んで閉じる。途中で広告が出る。こういう時にも広告って出るんだな、とどうでもいいことを思った。
少しして、俺はスマホを見たまま固まっていた。
「一対十?」
思わず声が出た。
男女比が、およそ一対十。男一人に対して女十人。
最初は見間違いかと思った。でもどこを見ても同じだ。細かい事情は長かったので半分くらい飛ばしたが、要するに男がかなり少ない。それで社会の作りもだいぶ変わっているらしい。
「そりゃ手厚いわけだ」
納得はした。
男がそこまで少ないならこうなるのも分かるし、支援が厚いのも外出の案内が細かいのも、その流れなら筋は通る。
スマホを置いて、もう一度部屋を見回す。
冷蔵庫、電子レンジ、電気ケトル、洗剤、タオル、簡単な調理器具。生活するだけなら困らない。かなりちゃんとしている。
冷蔵庫を開ける。
パックご飯、卵、飲み物、簡単な惣菜。
「生きるのに困らないセットだな」
ちょっと笑った。
困らないようには本当によくできている。けれど好きなものはまだ何もない。本もないしゲーム機も見当たらない。飾りも少ない。住んでいる部屋というより、住めるように用意された部屋だった。
たぶん今の俺の暮らしも同じなんだろう。ちゃんと生きていける形にはなっている。ただ、まだ俺の生活にはなっていない。
もう一度銀行アプリを開く。
今月も入っている。来月もたぶん入る。当面、働かなくても死なない。
「すごいな。ほんとに働かなくていいのか」
本音だった。
会社に行かなくていい。上司から連絡も来ない。朝から今日やることを思い出さなくていい。体も軽いし若い。何なら顔もだいぶ得している。
かなりいい。そこはもう素直にそう思う。
部屋は静かだった。人の声がしないし誰の気配もない。鳴るのはスマホの通知だけだ。
でも、それも今はそんなに悪くなかった。
働かなくても生活は回る。しかも体は若い。
ここまで条件がそろっているなら、とりあえず今日はこの状況をもう少し眺めていてもいい気がする。そんな朝があるだけで、昨日までの俺には十分新しい。
スマホがまた鳴った。
支援、配送、確認、案内。生活は回る。回るようにちゃんとできている。
俺はベッドの端に座ったまま、その通知をしばらく眺めていた。
若い体。知らない部屋。働かなくていい生活。男が少ない世界。
条件はかなりいい。
だったら、この先をどう使うか考えるのはもう少しあとでもいいだろう。少なくとも今日は、朝が軽いだけでちょっと面白い。そんな始まり方も悪くない気がした。
たくさんの評価、ブックマーク本当にありがとうございます。
皆様のおかげでモチベーションがとてもあがります!!!




