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第九話『観測者の瞳と入れ替わりの抱擁』

 街の空気は、まだ微かに、けれど逃れようのない粘り気を持って揺れていた。

 それは物理的な風というより、時間の残滓が石畳の隙間から吹き上がり、目に見えない螺旋を描いているかのようだった。

 古い図書室の黴びた木の香りと、重厚な機械油の匂い。

 それらが混ざり合った『街の吐息』は、アリスの肺に真鍮の微粒子を流し込み、思考を鈍く麻痺させていく。


 アリスは砂時計を両手で包み込むように握りしめ、天を突く巨大な時計塔を見上げた。

 時計塔の針は、正午を目前にして痙攣するように止まっている。


 天頂の太陽は黒く縁取られ、光を放つというよりは周囲の色彩を吸い込んでいるようだった。

 アリスの手の中では、ガラスの内側に閉じ込められた砂が、意思を持つ生き物のように黄金の燐光を帯びていた。


 一粒が落ちるたびに、アリスの胸には針で刺されたような微かな痛みが走る。

 それは忘却の彼方に追いやられたはずの、名もなき記憶の破片が心臓の壁を叩く音だった。


「……影が……動いてる」


 足元から伸びる黒い染みが、意思を持ってうねり、アリスの黒いローファーを愛撫するように包み込んだ。

 触れた瞬間、指先に走ったのは凍てつくような冷たさだった。


 しかし、その冷たさの芯には、かつて雨の日に繋いだ温かい手のひらのような、奇妙に懐かしい温もりが脈打っている。

 氷を握りながら火傷をするような、矛盾した感覚。

 アリスは逃げ出したい衝動と、その闇に沈み込みたい渇望の狭間で立ち尽くした。


 背後でティックの影が、ひらひらと、死を告げる蝶の羽ばたきのように揺れた。

 彼の金色の瞳は、この沈黙した世界で唯一、生命の解像度を持ってアリスの項を射抜いている。


「歪みは、君の内部から漏れ出しているんだよ。」


 ティックの声は耳を介さず、脳の裏側に直接響いた。


「君が選ばなかった時間、君が捨てたはずの可能性。それらがこの街の歯車に噛み合って、回転を止めている。君という存在が確定しない限り、世界は次の秒針を刻むことができない。どうだい、この圧倒的な停滞は。美しいとは思わないか?」


 アリスは答えなかった。

 いや、答えられなかった。

 影の中に、水面から浮かび上がる泡のように、いくつもの『断片』が形を成し始めていたからだ。


 三歳の頃の、積み木を崩して泣いている自分。

 七歳の頃の、図書室の隅で息を潜めていた自分。

 そして――今この場所に、ブレザーを纏わずに、別の誰かと笑い合っていたはずの、存在しないはずの自分。


 鏡の迷路に閉じ込められたかのように、無数の『自分』が、影の暗部からアリスを見つめている。

 その瞳はどれもアリスと同じ形をしていたが、宿っている光の強さが決定的に異なっていた。


 視界が水面のように激しく揺らぎ、世界の輪郭が墨汁のように溶け出す。

 その混沌の中心に、一際鮮明な『もう一人のアリス』が立っていた。

 驚くべきことに、その別のアリスの瞳は、ティックと同じ、燃えるような黄金の色に輝いていた。


 その金色の瞳に見つめられた瞬間、アリスは、自分が壮大な物語の一部として『観測』されている事実に、全細胞が総毛立つような恐怖を覚えた。

 別のアリスは、慈しみと冷酷さが同居したような微笑を浮かべ、唇を動かした。


「戻るには、選ぶしかない……」


 言葉は音ではなく、意味の奔流となってアリスの肺を満たした。


「戻る? どこへ? 元の世界? それとも……」


 問いは、口を出す前に見透かされる。


「選ばないという逃避は、世界を錆びつかせる。君が捨てた私は、君が選んだ今よりもずっと、この街の重力に従順だよ。ねえ、代わってあげようか? 君が『私』になって、私が『君』になる。そうすれば、何も選ばなくていい。ただ、流されるだけでいい」


「……そんなの、嫌……!」


 アリスは叫び、砂時計を握る手に力を込めた。

 影の少女の指がアリスの頬に触れる。

 その指先は、雪のように冷たく、しかし同時に、アリスがずっと求めていた『肯定』の熱を帯びていた。


「なら、回してごらん。この死にかけた世界を、君の意志という油を差して」


 アリスは、自分の内側にある『臆病さ』と『好奇心』が、激しく摩擦を起こすのを感じた。

 迷宮で感じたあの重力、時計職人の街で突きつけられた選択の重み。

 それらすべてを砂の一粒一粒に込めるように、ゆっくりと砂時計をひっくり返した。


 ――ドォォォォォン!!


 その瞬間、街の石畳の下から、地殻が変動するような重厚な歯車の回転音が突き上げてきた。

 止まっていた時間が、巨大な獣が目覚めの咆哮を上げるように息を吹き返す。

 アリスの掌から溢れた黄金の光が、衝撃波となって広場を駆け抜け、壁に張り付いた無数の時計の針を一斉に弾き飛ばした。


 カチ、カチ、カチカチカチ!!


 凄まじい音圧。

 街中の時計が一斉に、狂ったような速度で、それでいて一つの壮大な交響曲を奏でるようにリズムを刻み始める。

 停滞していた空気は激しい風となって吹き荒れ、アリスの髪を、ブレザーを、スカートを、そして彼女の『未練』を激しく叩いた。


「戻った……時間が、動いてる……!」


 アリスは膝をつき、激しく打つ自分の胸を抑えた。

 心臓の鼓動は、今や時計塔の秒針と完璧に同期し、彼女をこの世界の一部として繋ぎ止めていた。

 それは、自分自身のアイデンティティを、この不条理な世界に『刻印』した瞬間でもあった。


 ティックの影が、満足げに背後で大きく揺れる。

 彼の金色の瞳は、影の中へと溶け去っていく『金色の瞳の少女』と、一瞬だけ、共犯者のような深い視線を交わしたように見えた。


「選択したね。歪みは一時的に修復された。おめでとう。君はまた一歩、自らの物語を血で汚し、同時に美しく磨き上げた」


 砂の音はまだ、微かに遠い場所からの反響を孕んでいた。

 別の世界の自分が、まだどこかで砂を零し続けているかのような、奇妙な残響。

 胸の奥の痛みは、これが終わりではなく、さらに過酷な『自分を切り捨てる旅』の序章に過ぎないことを告げている。


 アリスは、重い足取りで再び歩き出した。

 街の空気は生き生きと、そして残酷なまでに明瞭に、アリスの前に道を示している。

 影の記憶は、今は静かに足元に収まっているが、それは決して消えたわけではない。

 それらは道標となり、同時に『選ばなかった自分』を裏切り続けるたびに、その重みを増していくだろう。


「ちゃんと選ぶよ……。私が私であるために」


 その独白に、どこからか、くすくすという小さな笑い声が聞こえた。

 それは、影の中に消えたあの『金色の瞳の少女』の声か。

 あるいは、時計の文字盤の裏側で糸を引いている『何者か』の嘲笑か。

 笑い声は、新しく刻み始められた秒針の音に紛れ込み、アリスの耳の奥で、いつまでも、いつまでも反響し続けていた。


 再始動した時計塔の重厚な鐘の音が、街の空気を震わせながら遠ざかっていく。


「……」


 アリス――いや、名前を失った少女は、荒い呼吸を整えようとしたが、肺の奥にこびりついた『金色の瞳の少女』の残像が、冷たい(おり)のように沈んで離れなかった。


 手のひらの中の砂時計は静まり返っている。

 しかし、指先にはあの少女の冷たい感触が、刺青のように刻まれていた。


「……ティック」


 アリスは、背後に立つ影に向かって、低く、湿り気を帯びた声で呼びかけた。

 ティックの影は、石畳の上でひらひらと揺れている。


「なあに?勝利の余韻に浸るには、少し早すぎるんじゃないかな?」


 ティックはあえて名前を呼ばない。

 呼べないのだ。

 その事実が、アリスの胸をちりりと刺す。


「あの女の子……影の中にいた、私……」


 アリスは一気に振り向き、ティックの輪郭を捉えようと目を凝らした。

 光と影が混ざり合い、視認するたびに形を変えるその『導き手』の顔。

 その中心で変わらずに輝く、二つの金色の光。


「あの子の目が、あなたと同じだった。……金色に、光っていたんだよ」


 アリスの言葉が空気を切り裂く。

 ティックの揺らぎが一瞬だけ、止まったように見えた。


「目は心の窓だなんて、君の世界では言うらしいね」


 ティックは、滑らかすぎる声で答えた。


「でも、ここでは少し違う。目は『どの時間層を観測しているか』を示す記号に過ぎないんだ。彼女は君の『選ばなかった可能性』。そして僕は『時間の観測者』。観測される側と、観測する側が、極限状態で混ざり合うのは、この国ではよくある物理現象だよ」


「はぐらかさないで。あの子は言ったの……『代わってあげようか』って。私を飲み込もうとした。あなたが、あの子を送り込んだの?私を試したの?」


「試す? とんでもない。……いいかい、君が選ぶたびに、君の瞳の色も少しずつ変わっていくかもしれない。いつか、僕と同じ色になるまでね。そうなったとき、君は果たして、失った『名前』を思い出す必要があるのかな?」


 ティックの金色の瞳が、アリスの顔を覗き込むように近づいてくる。


「私は…私。この砂が落ちきるまでに、絶対に自分を取り戻すよ」


「ああ、期待しているよ。その意地悪なほどの頑固さこそが、君を君たらしめている唯一の部品だ。さあ、行こう。次の道は少しだけ歩きやすくなっているはずだよ」


 アリスは砂時計を握り直し、歩き出した。

 名前という鍵を失ったまま、アリスは自分の存在を証明するために、さらに深い時間の迷宮へと足を踏み入れる。



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