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第八話『不自然な対話と透明な鉛の海』

 街の空気は、まだ熱病に浮かされたように揺れていた。

 時計職人の街が刻む『重厚な安定』は、アリスが迷宮で培った決意と衝突し、目に見えない火花を散らしている。

 時間が揃うとき、この世界はくすぐられるように微かに震える。

 それは石畳の隙間から這い上がる細かな振動であり、ここではそれが掟であり、祈りであり、そしてよそ者に対するちょっぴり意地悪な呪いでもあった。


 アリスの手の中で、砂時計の砂が落ちる。

 ぽとり、ぽとり。

 一粒がガラスの底に当たり、跳ね返る音。

 その音は街のざわめき――歯車の軋みや、遠い蒸気の噴出音――と複雑に絡まり、まるで砂の粒が街の意思とおしゃべりをしているかのようだった。

 けれど、その対話はどこか、決定的に不自然だ。


 アリスは自分の胸を抑えた。

 心臓の鼓動が、自分の意思よりもずっと先に行きすぎている。

 ドクン、という鼓動の後に、遅れて砂が落ちる音が耳に届く。

 音は早く聞こえたり、あるいは泥の中に沈んだように遅れて聞こえたりした。

 時間は垂直に二つに裂け、片方は鋭いナイフのようにアリスの意識に押し寄せ、もう片方は綿毛のようにふわりと、手の届かない遠くへ漂っていく。


「……今、なんだか、変だった……」


 震える唇から漏れた問いは、空気の層に吸い込まれ、波紋一つ立てずに溶けた。

 世界が少しずつ重くなる。

 透明な鉛の海に沈んでいくように、不可視の圧力がアリスの身体をそっと、けれど逃げ場のない力で押さえつける。

 背後でティックの影が、ひらひらと、不吉な蝶のように揺れた。

 金色の瞳だけが、この音の狂いさえも楽しむかのように、アリスの後頭部を凝視している。


「歪みの兆候は、すぐに現れる。この国では、それが怖くもあり、面白くもあるんだ。君の『今』が、世界の『今』とズレ始めているんだよ。」


 ティックの言葉は冷たく、物理的な質量を持ってアリスの胸に積もる。

 彼女は肩をすくめ、一歩を踏み出した。

 壁に埋め込まれた無数の時計が、彼女の歩調に応答する。

 針の動きは痙攣するように速くなり、次の瞬間にはあくびをするように停滞した。

 まるで壁の時計たちが、アリスの不安定な心拍を鍵穴から覗き見て、クスクスと笑いながらいたずらしているようだった。


 視界の端で、自分の影がふらりと独立した動きを見せた。

 アリスの足元に繋がっているはずのそれは、今や双子の姉妹のように勝手な振る舞いを始めている。

 影の輪郭が陽炎のようにふわふわと揺れ、その中央に、小さな光の塊がぽんと形を成した。


 それは、幼い頃のアリスの顔だった。

 艶やかな黒髪が今より少し短く、丸みを帯びた頬。

 その少女は笑っていた。

 けれど、その笑顔はどこか切なく、大きな瞳の奥には、零れ落ちる直前の涙がクリスタルのように光っている。


「……これ、何……?」


 胸がぎゅっと締め付けられ、体中が強張る。

 それは忘れたはずの痛みだった。

 人見知りで、誰の後ろに隠れても震えていた、あの日の孤独。

 その笑顔が、視界の隅で万華鏡の破片のようにちらちらと踊る。


 次の断片が、意識の裏側に滑り込んできた。


 ――温かい、手の感触。

 その大きな手が、アリスの小さな手をふわりと引く感覚が、指先に蘇る。


『こっちだよ』


 声の主が誰なのか、名前を失ったアリスには思い出せない。

 父親だったか、それとも。

 その声は、春の陽だまりのように懐かしく、同時に今の孤独を際立たせるほどに悲しい。

 アリスが足を止めると、世界も呼吸を止めた。

 影が這い上がり、再び彼女の右肩に乗る。

 その重さは、物理的な重力を超えて、アリスの心臓をちくちくと、細い針で刺すような痛みを伴っていた。


「……私、誰かに、どこかへ連れて行かれたの?」


 問いは喉の奥でつっかえ、声にならない。

 影は答えず、ただ金色の瞳(ティックのそれと同じ、あるいは似た色)で、アリスの心の深淵をじっと見つめ返すだけだった。


 ティックが、低く、絹が擦れるような柔らかい声で囁いた。


「見えるのはね、君の記憶じゃない。選ばなかった自分の『もしもの時間』の残響だ。もしあの日、その手を離さなかったら。もしあの日、別の扉を叩いていたら……。触れれば、世界は少し揺れる。君が自分を疑うたびにね」


 次の断片。

 ――閉じる扉の音。

 カチリ、カチリ。

 それは迷宮の出口の音よりもずっと古く、決定的な別れの音。


 次の断片。

 ――小さな、けれど棘のある笑い声。

 誰かを傷つけた後悔か、それとも誰かに裏切られた後の嘲笑か。


 影の記憶は、アリスの歩みに合わせて増殖し続ける。

 それは現実の自分ではない。

 けれど、それらすべてが『アリスであったかもしれない姿』なのだ。

 視界の端に、ひときわ鮮明な『別の世界』がちらりと見えた。


 そこには、今の自分とは似て非なる自分が立っていた。

 制服は同じブレザーだが、着こなしはどこか隙がなく、残酷なほどに整っている。

 そのアリスは、目が大きく、表情は氷のように冷たい。

 唇の端をわずかに持ち上げて笑っているが、その瞳の奥には、今の自分を憐れむような、あるいは激しく拒絶するような、別の強固な意思が潜んでいた。


「……私……なの?」


 胸に、鋭利なガラスの破片が突き刺さったような痛みが走る。

 その痛みこそが、彼女がここへ来るまでに捨ててきた、あるいは奪われてきた『選択』の質量なのだと、アリスは本能で理解した。


 影の記憶は、現在を侵食し、未来の地図を書き換えていく。

 影がアリスを追い越し、先に道を歩めば、その足跡から新しい未来が芽吹く。


「……選べば、変わるの? あの冷たい私も、あの泣いている私も、消えてくれるの?」


 アリスの震える問いに、ティックの影が大きく揺れた。


「君が選ぶ。選ぶことで、影も記憶も、未来も、くるくる変わるんだよ。万華鏡を回すようにね。ただし、一度回してしまったら、前の模様には二度と戻れない」


 アリスは砂時計を、壊れ物を扱うようにぎゅっと握りしめた。

 砂が落ちる音は、今や街のざわめきを支配する心臓の鼓動へと変わっていた。


 ──扉が閉じる音。

 ──「こっちだよ」と呼ぶ声。


 断片が胸を刺し、砂時計から漏れる微かな光が、石畳に新しい道筋を映し出す。


 影が先に進む。

 アリスはその後を追う。

 それは自分自身を追いかけるような、奇妙で過酷な旅路。

 街全体が彼女の決意に共鳴し、建物の装飾が生き物のようにずれ、街灯の光がダンスを踊る。

 遠くの鐘の音が、祝福と弔鐘を同時に打ち鳴らし、時間の層を幾重にも積み上げていく。


 道の先、光の溜まり場に、二人のアリスが手を繋いで立っているのが見えた。

 幼い自分と、選ばなかった自分。

 未来はまだ、霧の向こう側で決まっていない。

 けれど、砂時計を握る指先の感覚だけは、この不条理な世界で唯一の、確かな『真実』だった。


 街は静かに、けれど貪欲に、アリスが次の何かを選ぶのを待っている。



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