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第七話『不定時法の街と藍色の時計職人』

 迷宮という、論理が糸のように解ける場所を抜けた先には、それとは真逆の、過剰なほどの『物質性』が待っていた。

 街の空気が再び厚くなる。

 それは、肺を真鍮の微粒子で満たされるような、重苦しくも確かな実感を伴う厚みだった。


 石畳の感触が足裏に戻り、時間の層が安定する。

 ここでは、一歩踏み出せば、一歩分の距離が確実に稼げる。

 迷宮のように『進んでいるのに戻っている』という不条理はない。

 しかし、その『確かさ』が、逆にアリスの心に重くのしかかった。


 ティックの影が、長い尾を引くように背後で揺れている。

 金色の瞳だけが、この街の複雑な陰影の中でも埋没することなく、アリスの項を執拗に見つめていた。


「ここは、時計職人の街だ」


 ティックの言葉は、単なる地名の紹介ではなかった。

 それは宣言であり、警告でもあった。

 照らされた道が、先へ、先へと伸びていく。

 アリスは周囲を見渡した。

 建物の壁には大小さまざまな歯車が、まるで生きている苔や蔦のようにびっしりと埋め込まれている。

 それらが噛み合い、回転し、微かな摩擦熱を街全体に供給していた。


 窓枠は、中に閉じ込められた『時間』が漏れ出しているかのように薄く光っている。

 扉には、星座の配置を模したような無数の鍵穴が並び、どれか一つを回せば、屋根裏の秘密へ通じるのか、あるいは見たくもない過去の深淵へ突き落とされるのか、想像もつかない。


「ここでは……時間は、自分で作るものなんだ」


 ティックの声が落ちる。

 作る。

 壊すのでもなく、消費するのでもなく、作る。

 アリスはその言葉を咀嚼しようとしたが、歯車の回転音にかき消されて、意味が喉元で空転した。


 街の中心にある広場には、街全体の心臓部とも言える巨大な時計塔がそびえ立っていた。

 塔の針はゆっくりと、粘り気のある時間をかき分けるように回っている。

 だが、それは一定の速度ではない。

 ある時は獲物を狙う蛇のように静止し、またある時は怯える心臓のように激しく震えながら進む。


 塔の下、広場の片隅に、一つの作業台が置かれていた。

 そこに座る男の姿は、この西洋的なお伽話の残響が漂う世界において、鮮烈なまでの異質さを放っていた。


 男は、深い藍色の和服を纏っていた。

 白髪混じりの黒髪は長く、それを古い真鍮の針のようなかんざしで無造作に束ねている。

 顎には整えられた髭があり、一見すると50代の熟練した職人の重厚さを感じさせる。

 しかし、ふとした拍子に見せる手の甲の滑らかさや、背筋の伸び方は、20代の青年のようにも見えた。

 彼の周囲だけ、時間の流れが何層にも重なり合っているかのようだった。


 男の手元には、顕微鏡でしか見えないほど微細な歯車や、蜘蛛の糸よりも細い金属のバネが並んでいる。

 彼はそれらを、精密なピンセットで一つずつ、祈りを捧げるような手つきで組み合わせていた。

 金属同士が触れ合うたび、カチ、カチと、凍った池に石を投げたような鋭い音が鳴り響く。


「あなたが……時計職人……?」


 アリスは、自分の声が、街の騒音の中に吸い込まれて消えてしまわないよう、精一杯に喉を震わせた。

 男は作業を止めず、視線だけをアリスに向けた。

 その深い青の瞳は、まるで海に沈んだ時計の文字盤のように、静かで、冷徹な光を湛えていた。


「ふふ……お嬢さん。君の砂時計の中で、砂が踊っているね。それはただの岩石の砕片じゃない。踊る夢の粒だ。落ちて床に積もるたび、それは君の確かな『時間』になる」


 時計職人は、作業台の上に置かれた奇妙な機構を指先で弾いた。

 それはアリスが知る時計とは、似ても似つかぬものだった。

 円形の文字盤はなく、代わりに二つの鐘と、その間を不規則に揺れる重りがある。


「見てごらん、お嬢さん。これは不定時法の時計だ。太陽が昇り、沈むまでの『間』を、無理やり六つに割って時を刻む。つまり、夏と冬では、一時間の長さが違うのさ」


 職人の声は、低く、古い弦楽器を鳴らしたような響きを伴っていた。


「……一時間の長さが、違う?」


「そうとも。楽しい時間は羽が生えて飛び去り、苦しい時間は泥沼のように足にまとわりつく。本来、時間は伸び縮みするものなんだ。それを均一な数字で縛り付けようとするから、みんな心のネジが切れてしまう。君の持っている砂時計も……今は、とても重そうだね」


 職人の視線が、アリスの胸元で鈍く光る砂時計に注がれる。

 アリスは反射的にそれを掌で包み込んだ。

 言われてみれば、砂が落ちるたびに、ガラス越しに伝わる振動が重く、粘り気を増しているように感じられた。


「この砂は、君が捨ててきた『もしも』の蓄積だ。選ばなかった過去、言えなかった言葉。それらが砂となって、君の今の歩みを邪魔している」


「私の……捨てたもの……」


 アリスが呟くと、彼女の肩に乗った影が、びくりと震えた。

 影の指が、アリスのブレザーの襟を強く掴む。

 まるで、その秘密を暴かれるのを恐れているかのように。


 職人は、作業台の引き出しから、小さな、本当に小さな銀色の歯車を取り出した。

 それはまだ完成していないのか、縁の一部がギザギザと欠けており、どこか不安定な形をしていた。


「迷宮で、君は何かを失くしてきたね。……いや、奪われたのかな。非常に大切な、君という本を閉じるための『結びの言葉』を」


「名前……のこと?」


 アリスの言葉に、職人は深く、慈しむような、それでいて酷く不条理な笑みを浮かべた。


「名前は記号じゃない。それは、世界と君を繋ぎ止めるための『(くさび)』だ。今の君は、楔が抜けた不安定な歯車のようなものさ。いつ、この街の大きな回転に飲み込まれて、消えてしまうか分からない」


 彼は銀色の歯車をアリスの目の前にかざした。


「この欠けた歯車が、今の君の名前の姿だ。足りない部品は、これからの選択で見つけるしかない。……ああ、そんなに怯えることはないよ。ほら、ティック君も、君がどう壊れるか、あるいはどう組み上がるのかを、あんなに楽しそうに見守っているじゃないか」


 職人の視線の先、広場の影に立つティックが、音もなく金色の瞳を細めた。

 彼は肯定も否定もしない。

 ただ、その影が街灯の光を吸い込み、周囲の石畳よりも深い闇を形作っていた。


 その時、アリスの肩の影が、突如として激しい拒絶反応を見せた。

 影はアリスの体を離れ、実体に近い濃さを持って職人の作業台へと手を伸ばした。

 職人が持つ『欠けた歯車』――アリスのアイデンティティの断片――を、奪い去ろうとするかのように。


「だめ……!」


 アリスが叫んだ瞬間、街中の時計が一斉に、耳を刺すような高音で鳴り響いた。

 カチカチカチカチカチ――!

 秒針の音が加速し、音の壁となって広場を埋め尽くす。

 職人の街の『安定』が崩れ始める。

 アリスが自分の過去(かげ)と向き合おうとする意志が、街の時間を狂わせているのだ。


 建物の壁に埋め込まれた歯車が火花を散らし、逆回転を始める。

 窓枠から漏れる光は赤く変色し、まるで街全体が熱病に浮かされているようだった。


「おっと、早すぎるな。針が揃うのはまだ先だと思っていたが……」


 職人は動じることなく、藍色の袖を翻して、手元の和時計の重りを力強く掴んだ。


「お嬢さん! 砂時計を掲げなさい! 君の選んだ『今』を、この狂った時間に叩きつけるんだ!」


 アリスは恐怖に震えながらも、両手で砂時計を高く掲げた。

 砂時計の中の砂が、激しく渦を巻く。

 迷宮で感じたあの重力、選択することの痛み、そして『進む』と決めた時の熱。

 それらすべてを砂の一粒一粒に込めるように、アリスは目を見開いた。


「止まれ……止まって!」


 その叫びと同時に、砂時計から目も眩むような黄金の光が溢れ出した。

 光は波となって広場を駆け抜け、狂ったように回っていた無数の時計の針を、無理やり一つのリズムへと引き戻していく。


 一瞬の静寂。


 火花は消え、街は再び、真鍮の匂いが漂う重厚な静寂へと戻った。

 影は力を失ったように、再びアリスの足元へとしおしおと収まった。


 職人は、手に持っていた銀色の歯車をそっとアリスの手のひらに乗せた。

 それは冷たく、けれど心臓の鼓動のような微かな振動を伝えてきた。


「見事だ。君の砂が、一瞬だけ街の時を支配した。……だが忘れないでおくれ。針を揃えれば歪みが現れる。今のは、その予行演習に過ぎない」


 職人は再び、何事もなかったかのように精密な作業に戻る。


「さあ、行きなさい。その歯車が次に導く場所へ。影は君を食らおうとするだろうが、同時に君を守る鎧にもなる」


 アリスは、手のひらの中の小さな部品を握りしめ、深く息を吐いた。

 名前の欠片。

 まだ『アリス』という響きを取り戻したわけではないけれど、自分の中に確かに何かが戻ってきた実感がした。


「行こう。時間は待ってはくれない。もっとも、ここでは時間は待つどころか、追いかけてくることもあるけれどね」


 ティックの不条理な促しに、アリスは頷いた。

 空を見上げると、巨大な時計塔の針が、また一刻、重々しく時を刻んだ。


 アリスの物語は、自ら作り始めた時間の中を、迷いながらも確かに進んでいく。



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