第六話『自己模倣の迷宮と子供部屋の絨毯』
街の空気が、再び薄くなる。
それは高山に登った時の清涼な希薄さではなく、まるで世界そのものの彩度が落ち、物質としての密度が損なわれていくような、不吉な予感に満ちた変化だった。
アリスが踏み出す石畳の感触は、一歩ごとに頼りなくなり、足裏から逃げるように宙へほどけていく。
自分の体重が、この世界にとって正当なものであるのかさえ怪しくなる。
歩くたび、世界の層が薄い皮を剥ぐように削られ、その隙間から『別の景色』がにゅるりと滲み出していた。
それはある時は古びた書庫の風景であり、またある時は名前も知らぬ誰かの葬列の残像であった。
滲みは地面に落ちるとすぐに黒く固まり、歪な道となってアリスを誘う。
だが、その道は固定されることなく、次の一歩を刻むたびに万華鏡のように形を変えた。
背後では、ティックの影が、生き物のようにくねくねと蠢いている。
実体のないはずの影。
本体であるはずのティックの姿は光の中にぼやけ、輪郭を失っているというのに、その影から覗く金色の瞳だけは、恐ろしいほどの解像度でアリスのうなじを射抜いていた。
その視線は正確で、冷酷なまでに『観測』を続けている。
「ここが、迷宮の入口だ」
ティックの言葉は重く、静かに落ちる。
不思議なことに、その声には響きがなかった。
発せられた瞬間に石畳の隙間へと染み込み、意味だけが薄い霧となって足元から這い上がってくる。
霧は道の輪郭をなぞり、そこに『壁』があるかのような錯覚をアリスに与え、同時に世界の不確かさを際立たせた。
アリスは立ち止まり、前方を見据える。
そこには、巨大な門がそびえ立っていた。
真鍮の歯車が複雑に組み合わさって構成された、巨大な時計の内部機構そのもののような門。
噛み合っているはずの歯は、コンマ数ミリずつ決定的にずれ、互いを削り取りながら悲鳴のような金属音を立てて逆回転している。
門が吐き出す熱気は、焦げた油と、永遠に繰り返される摩擦の匂いがした。
「道……これが迷宮……」
声が震える。
アリスの右肩には、彼女の本体から分かたれた**『彼女自身の影』**が、まるで怯える幼子のようにしがみついている。
影は黒く沈み込み、実体を持たないはずのその指が、アリスのブレザーをわずかに引き絞っているように感じられた。
その影は、アリスが見つめる方向とは別の、暗い通路の奥を指差している。
それは、彼女が選ぼうとしている未来とは別の、『選ばれなかった時間』への誘いだった。
門をくぐると、音の洪水が彼女を襲った。
そこは、物理的な『広さ』という概念が死滅した空間だった。
壁という壁、天井という天井に、夥しい数の時計がびっしりと増殖していた。
柱時計、懐中時計、目覚まし時計、砂時計――。
ある時計の針は狂ったように右回転を続け、隣の時計は死を待つ老人の鼓動のようにゆっくりと左へ回る。
数字が熱で溶け落ちた文字盤もあれば、針が一本も無く、ただ空虚な円盤がチクタクと音だけを刻んでいるものもある。
「……正しい時間は、どれなの?」
アリスは耳を塞ぎたい衝動を抑えて尋ねた。
ティックは、溶けかかった文字盤の一つを金色の瞳で見つめながら、影を揺らした。
「正しい時、か。それはこの国で最も価値のない言葉だよ。ここでは、君が『これだ』と信じて目を留めた瞬間に、その時間が君にとっての真実になる。それ以外は、すべてゴミ溜めに捨てられた可能性に過ぎない」
アリスは一歩を踏み出す。
その瞬間、床のタイルの模様が、一秒前の彼女の記憶にある『子供部屋の絨毯』の柄に一瞬だけ変わった。
「あ……」
驚いて視線を落とすと、模様はすぐに冷たい石の床に戻る。
迷宮は、彼女の意識の奥底から記憶を汲み上げ、それを道として再構築しているのだ。
右側から、ひときわ大きく重厚な振り子時計の音が響いてきた。
その音は『選ばなかった中学生生活』を象徴するように、放課後のチャイムの音を不気味に歪ませたような響きを含んでいる。
左側からは、赤ん坊の泣き声のような高い歯車の摩擦音。
どちらへ進んでも、自分の過去や未来の一部を削り取られるような予感があった。
アリスの肩に乗った影が、激しく身悶えを始める。
影の金色の瞳が、ある一点を凝視した。
それは、迷宮の壁に深く埋め込まれた、古びた掲示板のような場所だった。
そこには、古い羊皮紙が幾重にも重なって貼られ、何十年も放置されたような煤けた匂いを放っている。
油と古紙、そして――微かに、自分自身の髪の毛と同じ、清潔な石鹸の匂い。
「あそこになにかある」
アリスは吸い寄せられるように、迷宮の本道から外れた狭い路地へと足を踏み入れた。
その路地の壁に貼られた紙には、震える手で書き殴られたような、黒いインクの跡があった。
――「選ぶな」
その三文字は、単に紙に書かれた記号ではなかった。
アリスがその文字を視界に入れた瞬間、文字の輪郭がぶれ、墨汁が水に溶けるように紙の表面から溢れ出した。
黒い液体となった言葉は、壁を伝い、重力に従って石畳へと滴り落ちる。
そして、蛇のような細い線となってアリスの足元へ這い寄ってきた。
「……っ」
後ずさろうとしたが、足が動かない。
見下ろすと、黒い文字の残骸がアリスの黒いローファーに絡みつき、影の一部になろうとしている。
「選ばないことも選択、と言ったね、アリス」
ティックの声が、耳元で羽虫が飛ぶような低さで響く。
彼は助けようとはしない。
金色の瞳を細め、アリスがこの『静止の誘惑』にどう対処するかを、ただ冷徹に観測している。
「選び続ければ、君は摩耗する。一歩ごとに名前を削り、一歩ごとに未来を消費する。けれど、ここで立ち止まり、『選ばない』という権利を行使すれば、君は永遠にこの瞬間の純粋さの中に留まることができるんだ。どうだい? 悪くない提案だろう」
壁に貼られた古紙が、激しく風に煽られるようにバタバタと音を立てた。
その隙間から、アリスの知らない『アリス』の断片が覗く。
ピアノを弾いているアリス。
誰かと手をつないで笑っているアリス。
そして、冷たい雨の中で一人、傘も差さずに立ち尽くしているアリス。
それらすべての可能性が、『選ぶな』という言葉の重みで一つに押し潰されようとしていた。
「私は……」
アリスの喉が鳴る。
選ぶことは怖い。
もう決意したはずなのに、いざ迷宮の深淵に立つと、足元の暗闇に吸い込まれそうになる。
肩に乗った影が、アリスの耳元で小さく、けれどはっきりとした声で囁いた。
『――苦しいよ、アリス』
それは、アリス自身の声だった。
『選ぶたびに、何かが死んでいく。選ばれなかった私たちが、迷宮のゴミ箱に捨てられていく。ねえ、もう何も選ばないで。そうすれば、誰も傷つかなくて済むの』
影の指が、アリスの鎖骨を優しく、しかし確実な力で締め上げる。
視界がちかちかと点滅し、壁の時計たちの秒針が、一斉にアリスの鼓動と同期し始めた。
カチ、カチ、カチ――。
心臓が、迷宮の歯車の一つとして組み込まれていく感覚。
その時、迷宮のどこかから、場違いなほど規則正しく、現実的な音が響いてきた。
――キン。……キン。……キン。
硬い金属を、正確なリズムで叩く音。
時計の狂った音響の中でも、その音だけは不思議と『意味』を持っているように聞こえた。
「誰……?」
アリスが顔を上げると、時計で埋め尽くされた壁の一部が、内側からの圧力で盛り上がっているのが見えた。
「やあやあ、お嬢さん。そんなところで固まっていると、時間はすぐに錆びついてしまうよ。油を差しても無駄だ、一度錆びた未来は二度と回らないからね」
低く、枯れた、それでいてどこか陽気な声。
壁の時計たちの隙間から、青い瞳がちらりと覗いた。
それは、この不条理な世界で出会った初めての『人間』の気配だった。
時計職人だ。
「誰……なの?」
「この声は、時計職人だよ
「職人か、破壊者か。それは針をどっちに回すかによるな。お嬢さん、あんたの名前は、今この迷宮の奥で熱されている。叩いて、伸ばして、形を作らないと、ただの鉄屑になっちまうぞ」
時計職人の声は、壁の向こう側で遠ざかっていく。
「選ぶんだ。正しい道じゃなくていい。あんたの足跡がつく道を選ぶんだ。影に飲み込まれる前にね」
その言葉が呼び水となったのか、アリスの足元に絡みついていた『選ぶな』の文字が、熱を帯びたように弾け飛んだ。
アリスは、自分の首を絞めていた影の手を、そっと、しかし拒絶の意志を込めて引き剥がした。
「……ごめんね。でも、止まっているのは、もう嫌なの」
影は悲しげに瞳を揺らし、再びアリスの肩へと小さくなって収まった。
アリスは、壁に貼られた懐かしい匂いのする古紙を、一枚だけ強く握りしめる。
『選ぶな』と書かれた文字を、自らの歩みで踏み越えた。
その瞬間、迷宮の風景が激変した。
重なり合っていた時間の層が、激しい音を立てて剥がれ落ちていく。
逆回転していた歯車は火花を散らして止まり、代わりに一条の光が、迷宮の奥底から真っ直ぐにアリスへと伸びた。
「行くんだね」
ティックの声に、微かな――本当に微かな――、落胆とも感銘ともつかない色が混じる。
「ああ、観測のしがいがある。君がその『名前』のない体で、どこまで時間の重力に抗えるのか」
アリスは走り出した。
背後で迷宮が崩壊し、選ばれなかった景色が砂となって消えていく。
肩の影が、未来を指し示すように、にょろりと長く伸びて道を照らす。
閉じかけの扉。
その向こうには、冷たい夜気と、現実の街の匂いが待っていた。
アリスは迷わず、その光の隙間へと身体を滑り込ませた。
気づけば、アリスは再び石畳の上に立っていた。
迷宮の喧騒は嘘のように消え、耳の奥には自分の荒い呼吸音だけが残っている。
「……出られた」
手のひらを見ると、迷宮で掴んだ古紙の破片が、一枚だけ残っていた。
そこにはもう『選ぶな』という文字はない。
ただ、煤けた紙の端に、時計の歯車のような小さな刻印が押されていた。
ティックは、いつの間にかアリスの数歩先を歩いている。
彼の金色の瞳は、すでに次の『選択』を見据えているようだった。
「おめでとう。君はまた少し、自分を殺して、自分を生かした」
その不条理な言葉を背中に受けながら、アリスは自分の胸に手を当てた。
名前はない。
けれど、心臓の鼓動は、さっきよりもずっと力強く、自分だけの時を刻んでいた。




