第五話『停滞の霧と加速する破壊』
時計屋の国の街の空気は、不意に、ひんやりと揺れた。
それは単なる温度の変化ではない。
空間の密度がわずかに変わり、張り詰めていた糸が緩むような、奇妙な安定の予感だった。
足裏に伝わる石畳の感触が、今までのような泥のような沈み込みを見せず、くすぐるように、けれど確かに地面を捉える『確かな反発』をアリスの感覚に刻む。
時間の層が、わずかに重なり合い、安定した――そう思わせる瞬間だった。
アリスがふと立ち止まり、その静寂の予感に耳を澄ませたとき、背後でティックの影が長く伸びた。
実体のない闇が、石畳の凹凸を撫でるようにして広がり、その中心で、二つの金色の瞳だけが、彼女の背中を静かに、しかし逃さぬように捉える。
「ここが、最初の選択の場所だ」
その声は、重みを伴って地面に落ちた。
まるで実体のある重りが水面に投げ込まれたかのように、声は石畳にじわりと広がり、波紋を描きながら、前方の景色を真っ二つに引き裂くように二筋の道を形作った。
アリスが顔を上げると、道は、彼女の運命を試すかのように残酷な対比を持って分かれていた。
左の道は、乳白色の深い霧に包まれている。
音も、光も、そして時間の響きさえもが吸い込まれるようなその道は、まるで深呼吸することを忘れたまま永遠に静止してしまった森のようだった。
そこには一切の動的な気配がなく、ただ『存在することの拒絶』だけが立ち込めている。
対して右の道は、暴力的なまでの光に満ち溢れていた。
だが、その光には温もりはなく、常に激しく、不規則に揺れ動いている。
光そのものが自らの質量に耐えかねて不安定に踊り狂い、空間を熱で歪ませているかのようだった。
どちらも、アリスが知る『現実』のルールからは逸脱していた。
どちらが進むべき道で、どちらが立ち止まるべき場所なのか、彼女の知性は答えを出せない。
胸が、締め付けられる。
試すこと。踏み出すこと。その一歩だけで、自分という存在の形が、二度と元に戻れないほど歪められてしまう――。
そんな、本能的な恐怖がブレザー越しに肌を突き抜けてきた。
【左の道:停滞する無】
アリスは、吸い寄せられるように、あるいは恐怖に背中を押されるようにして、まず左の道へ足を踏み入れた。
冷たく湿った霧が、彼女の頬を撫でた。
それは雨上がりの朝の霧のような爽やかさとは、全くの別物だった。
世界の境界線そのものを無理やり皮膚に押し当てられたような、ひんやりとした、かつ絶対的な『拒絶』の感覚。
霧の一粒一粒が、アリスの体温を、そして彼女の記憶の断片を、少しずつ奪い去ろうとしているかのようだった。
一歩、二歩。
進むにつれ、足元の石畳の感触は加速度的に希薄になっていった。
ついには地面という概念そのものが消失し、彼女の靴底は、実体のない空気に触れているだけのようだった。
あまりの頼りなさに、アリスは思わず足を止めた。
――その瞬間、世界が、完全に静止した。
恐ろしいほどの静寂が、彼女の周囲を包囲した。
風の音も、衣擦れの音も、遠くの街の鐘の音も、すべてが『真空』に呑み込まれたように消え去った。
残ったのは、アリス自身の呼吸音だけだ。
シュウ、シュウ、と、暴力的なまでに大きく響く肺の音。
それさえもが、次第に遠ざかり、心臓の鼓動もまた、水底に沈む石のように深く、かすかになっていく。
存在が、薄れていく。
自分の手のひらを見つめれば、指先の輪郭が霧に溶け、向こう側の景色が透けて見えるような錯覚に陥った。
身体が、自分という意識から剥離し、透明な塵になってこの霧と同化していく。
アリスは、震える声を絞り出した。
「……怖い。誰か、いないの?」
返る声は、自分の喉さえも通らなかった。
霧の中で『時間』そのものが、巨大な氷の塊のように固まり、アリスの四方を圧殺しようと迫ってくる。
立ち止まることは、この国では『消えること』と同義なのだ。
動かない時間に、命は必要とされない。
視界が真っ白に塗りつぶされる中、唯一、彼女の本体からわずかに離れた場所に、あの『分離した影』だけが、くっきりと濃い闇を放って浮かび上がった。
金色の瞳だけが、アリスを憐れむように見つめている。
「……私の、影……?」
影は答えない。
影に近づこうとすればするほど、胸の奥に鋭い棘が刺さるような痛みが走り、身体の輪郭はさらに薄れていく。
アリスは、震える手で自分の胸元を掴んだ。
理解したのだ。
ここで足を止め、安らぎを選べば、世界から完全に切り離される。
そして、残されるのは自分を失った『影』だけ。
本体である自分は、この深い霧の一部となって、永遠に意識を失うのだ。
アリスは、消え入るような意識を奮い立たせ、叫びにも似た意志を込めて、一歩を踏み出した。
ガクン、と膝に衝撃が走る。
足が再び地面を捉え、目の前の霧が、何かに怯えるようにしてサーッと晴れていく。
街の音が戻ってきた。
遠くの歯車が軋む音、どこかで時計の針が飛ぶ音。
立ち止まることの本当の恐怖――自分という存在が『無』に呑み込まれ、影に取って代わられる感覚が、アリスの魂に、呪いのように深く刻まれた瞬間だった。
【右の道:加速する混沌】
アリスは、荒い息をつきながら、今度は逃げるようにして右の光の道へと足を踏み出した。
その瞬間、今度は刺すような、あまりにも過剰な眩しさが彼女の視界を真っ白に焼いた。
石畳が、まるで生き物のようにうねり、波打ち始めた。
周囲の建物は、アリスの一歩に合わせて、飴細工のようにぐにゃりと伸びては溶け、空の色は幾何学的な破片となって四散する。
まるで、彼女が足を踏み出すたびに、世界そのものが一度完全に破壊され、彼女の主観によって強引に再構築されているような、そんな傲慢で恐ろしい感覚。
歩けば歩くほど、身体の重心が激しく揺さぶられる。
右足を出せば空気が熱を帯びて咆哮し、左足を出せば光の粒子が耳元で鳴動し、鼓膜を震わせる。
心臓が早鐘を打ち、呼吸が熱を帯びて追いかけてくる。
「こっちも、怖いよ。世界が壊れちゃう!」
進むことは、世界を変質させてしまうことだった。
それは新しい明日を紡ぐことでもあり、同時に、これまでそこにあった何かを決定的に破壊することでもあった。
その『創造と破壊』の重みが、アリスの細い肩を押さえつける。
耐えきれず立ち止まろうとすれば、今度は光がガラスのように割れ、その裂け目の向こう側から、断片的な景色が覗いた。
最初に開けたあの重い扉。
砂時計の店で見た、埃に舞う光。
元の街の、雨上がりの街角に咲いていた名もなき花。
記憶と現実、過去と未来の境界線が、この光の道では激しく揺れ動き、混濁していく。
「ねぇ、戻れる? 私は、あの扉に戻れるの?」
その問いに、ティックの声が、裂け目の向こう側、あるいは彼女自身の内側の深淵から、冷ややかに落ちてきた。
「戻れるかどうかは、君の選択次第だ。君が今、どちらの足に力を込め、どちらの未来を強く望むか。すべては君が描く『線』に委ねられている」
立ち止まれば、静かな、しかし確かな消滅。
進めば、激しい、しかし不確かな変転。
どちらも救いはないように思えた。
どちらも、14歳の少女が背負うには重すぎる試練。
けれど、アリスは震える指先で、砂時計を強く握りしめた。
掌に食い込むガラスの硬さと、砂が落ちる微かな振動。
その感触だけを頼りに、彼女は恐怖をそのまま受け入れた。
足を前へ進めるたびに、世界は形を変え続ける。
けれど、その変化の風を受けるたびに、アリスの心は、少しずつ、けれど確実に強固な硬度を持ち始めていた。
恐怖と共に生きること。
それは、この時計屋の国で『自らの時間』を刻むことを決めた者の、たった一つの、しかし最大の証だった。
**
光が揺れ、歪む世界。
アリスはその混沌の渦中を、一歩、また一歩と、自分自身の重さを確かめるように踏みしめて歩き続ける。
砂時計の中で、砂がさらさらと落ちる音。
それが、狂った街の時計たちの鼓動と、いつしか奇妙な調和を見せ始めていた。
彼女が選ぶ一歩一歩が、新しい現実の糸を紡ぎ出し、この街の地図を塗り替えていく。
立ち止まることも、進むことも、死ぬほど怖い。
だが、それでも『選ぶこと』を止めない限り、彼女はここに存在し続けることができる。
選ぶことは、今日を生きることそのものなのだ。
アリスは、もう振り返らなかった。
背後の霧も、揺れる光も、もはや彼女の足を止めることはできない。
物語は、確かに――
彼女自身の力強い足音と共に、引き返せない明日へと進み出した。




