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第四話『影の独立と代償としての記号』

 時計屋の国の街は、進むほどにその不親切な本性を剥き出しにしていった。

 空気はもはや単なる気体ではなく、歩くたびに肌にまとわりつき、関節の動きを阻害する『透明な重油』のような粘着性を帯び始めていた。


 厚みが増しているのではない。

 一度その層に足を踏み入れると、繊維の一本一本が過去の景色に絡みつき、引き抜こうとするたびに激しい抵抗を生む――そんな、出口のない迷宮特有の、抜けられなくなる感覚だ。


 ふと視線を落とせば、幾何学的な模様を描いていた石畳は、いつの間にか巨大な文字盤の目盛りそのものに変貌していた。

 そこには時を指し示す『針』が存在しない。

 代わりに、アリスがこれまで刻んできた、泥のついた靴跡だけが、時間の爪痕のように石に刻まれていた。

 だが、その足跡はある地点で不自然に、断頭台で切り落とされたかのように途切れている。

 その先には、ただ鏡のように滑らかで、冷徹な()が広がっていた。


 道の先は遠い。

 それは物理的な距離のせいではなく、一度進んでしまえば二度と引き返せないという『戻れなさ』の深さが、果てしない距離感となってアリスの三半規管を狂わせているからだった。


 壁に埋め込まれた無数の時計たちは、合唱するように、あるいは呪詛を吐き出すように、それぞれの『時』を主張し続けていた。


 狂ったように逆回転し、失われた昨日を強引に巻き取ろうとする真鍮の針。

 死体のように静止し、今という瞬間を拒絶して沈黙を貫く文字盤。

 生き物のように秒針を震わせ、苦しげな吐息を漏らすゼンマイ。


 それらの不協和音は、街全体の『呼吸』となって大気を震わせ、アリスの胸の鼓動もまた、抗う術なくその異様なリズムに同期していく。

 心臓が、外側の機械仕掛けに侵食されていく。


 歩き続けていくと、不意に視界の端から世界が『薄く』なり始めた。

 建物が崩壊するのではない。

 輪郭から色が、そして存在そのものを定義する『意味』が、紙やすりで削り落とされるように消えていくのだ。


 空気が古い壁紙のように剥がれ落ちる一瞬、その裂け目の向こうに、別の街の姿が透けて見えた。


 ――そこは、赤い空に支配された世界だった。

 石畳の配置は今いる場所と同じだ。

 だが、決定的な違和感があった。

 影が、ないのだ。

 光はあるのに、万物がその足元に闇を落とすことを忘れてしまったような、平坦で残酷な世界。


「……今の、何?」


 声が震え、肺の奥が焼けるように熱い。

 アリスは思わず、自分の肩に乗った『影』を確認するように、右肩に手をやった。

 影はまだ、そこにいた。

 だが、その重さは先ほどよりもずっと頼りなく、陽炎のように透き通っている。

 アリスを追うティックの金色の瞳が、いつもより遠く、手の届かない断絶された場所から彼女を観察しているように見えた。


「今の、何だったの? ティック、答えて」


 答えはなかった。

 代わりに、足元の感触が唐突に消え失せた。

 重力がアリスを裏切り、彼女の体は抗えない風の渦に呑み込まれるように、前方へと『流されて』いく。


 空気の裂け目が、巨大な口を開けるように広がった。

 胸の中の砂時計が、世界を内側から押し広げるような爆音を立てて鳴り響く。

 壁は布のようにしなやかに揺れ、歯車と光と、そして無数の『存在し得た扉』の残像が、万華鏡のように重なり合ってアリスの視界を塗り潰した。


「行くの? 私、あそこに行かなきゃいけないの?」


 足はもう止まらなかった。

 止めようと意志を固くするよりも早く、肩に乗っていた「影」が、アリスの肉体を蹴るようにして、裂け目の向こうへと一歩先んじたのだ。


「待って――!」


 叫んだ声は、時間の遅延に呑み込まれ、自分の耳に届く頃には、掠れた他人の悲鳴のように響いた。

 裂け目の向こうから、ティックの声が雨粒のように冷たく降り注ぐ。


「進めば移る。立ち止まれば、ここに残る。……アリス、君はどちらの『自分』を信じるんだい?」


「……戻れるの? 私、ちゃんと元いた場所に……」


 一瞬の沈黙があった。

 それは、時計屋の国が始まって以来の、最も重苦しく、救いのない空白だった。


「選べる」


 ティックの声は、もはや案内人のものではなかった。

 ただの冷徹な事実の提示。

 アリスはその言葉を、最後の命綱のように信じて、裂け目の中へと身を投げた。


 次の瞬間、世界が裏表を反転させた。

 網膜を焼くような閃光の後、空気は一転して冷たく乾き、足元には硬い石畳の感触が戻ってきた。

 そこもまた、時計屋の国の一部ではあった。

 だが、通りは先ほどまでとは決定的に異なっていた。

 空が低く押し迫り、万物の色は水で薄めた絵具のように淡い。

 街の音は極端に少なく、自分の呼吸音だけが、不気味なほど鮮明に鼓膜を叩く。


「……転移、したの?」


 胸に手を当て、速すぎる鼓動を確認する。

 鼓動はある。

 砂時計もある。

 衣服も、傘も、確かにそこにある。


 ――だが。

 肩が、軽い。

 つい先ほどまで、自分の肉体の一部であり、確かな『他者』として存在していたあの重みがない。


「……え?」


 アリスは狂ったように振り返り、自分の足元を凝視した。

 そこには、光が差している。

 自分の身体もそこにある。

 なのに、石畳の上には、彼女の形をした闇がひとつも落ちていなかった。

 影だけが、欠けている。


 喉が詰まった。

 胸の奥に、急に巨大な空洞が開いたような、寒々しい風が吹き抜ける。

 その時だ。

 背後から、静かな、しかし耐え難いほどの『視線』を感じた。


 ゆっくりと振り返るアリス。

 そこには、自分と同じ背丈、自分と同じ形をした『影』が、独立した存在として立っていた。

 影はもう、アリスの足元に戻ろうとはしない。

 数メートル離れた、色の薄い霧の中に、毅然と佇んでいる。

 その顔には、アリスにはない『金色の瞳』が、ティックと同じ色で宿っていた。

 感情を一切持たず、ただ冷徹に、本体であるはずのアリスの価値を測るような目。


「……戻って。お願い、戻ってきて……!」


 声は掠れ、霧に呑まれる。

 影は、わずかに首を傾げた。

 そしてアリスの手を拒絶するように、音もなく一歩下がり、街のさらに深い奥底へと姿を消そうとする。


「待って!」


 アリスが必死に足を強く踏み出した、その瞬間。

 手の中の砂時計の砂が、重力を無視して、一気に、暴力的なまでの速度で底へと落ちきった。


 世界が激しく揺れた。

 視界がぐにゃりと歪み、影は空間の裂け目の向こうへと完全に消え去った。

 その消失と同時に、彼女の胸の奥から『核心』が、生木を引き裂くような痛みと共に抜け落ちていった。


 何かが、思い出せない。

 それは、世界で一番大切だったはずのもの。

 毎日、呼吸をするよりも当たり前に口にしていた、自分のための記号。


 何を失ったのかは、もう分からない。

 ただ、『決定的な何か』を永久に喪失してしまったという、取り返しのつかない空白感だけが、心臓を針で刺すように伝わってくる。


 砂時計の中で、銀色と金色の光が、激しく、しかし虚しく震えていた。

 銀は、選ばなかった自分。

 金は、今の自分。

 それらは溶け合うことなく、それぞれの境界線を保ったまま、ガラスの器の中で鳴動している。


 アリスは直感していた。

 この影の喪失は、彼女自身が『今の自分』を維持するために、無意識に『選ばなかった自分』を切り捨ててしまった代償なのだと。


 ティックの声が、ようやく戻ってきた。

 だが、その声にはいつもの不遜さはなく、どこか怯えを含んだような揺らぎがあった。


「……君は、選んだんだ。そのつもりはなくても、この世界は君の迷いを『選択』として処理した。そして、その一部を支払ったんだ」


 振り返ると、ティックはそこにいた。

 だがその金色の瞳は、初めて見る複雑な後悔に満ちていた。


「間違えたの? 私は、影を追いかけるべきだったの?」


 ティックは、答えない。

 饒舌だった案内人は、初めて沈黙を選んだ。

 その沈黙こそが、アリスにとっての何よりの絶望だった。


 砂時計の音が、街の鼓動を完全に侵食していく。

 アリスは、影のない自分の足元を、ただ茫然と見つめ続けていた。

 戻れない。

 何に戻れないのか、何に戻りたかったのかさえ、もう霧に隠れて見えなくなっていく。

 それでも。

 残酷なまでに、時間は落ち続ける。


 物語は、確かに――

 誰一人として引き返せない、深淵の底へと踏み込んだ。



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