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最終話『透明な傘と自分だけの時間』

 まぶたの裏に焼き付いていた黄金色の残光が、ゆっくりと、穏やかな灰色のグラデーションへと溶けていく。

 頬をなでる空気の温度が変わった。

 機械油の乾いた匂いは消え、代わりに、雨上がりのアスファルトが放つ、特有の湿った土の匂い――この世界の『(せい)』の匂いが、肺の奥深くまで満たしていく。


「……あ……」


 アリスが目を開けると、そこはあの日と同じ、色褪せた街角だった。

 目の前にあったはずの古びた時計店も、真鍮のレリーフが刻まれた扉も、跡形もなく消えている。

 そこにあるのは、雨に濡れて黒ずんだ、何の変哲もないコンクリートの壁だけだ。


 遠くを走る車の走行音。

 濡れた路面を跳ねる自転車のタイヤの音。

 どこかの軒先から滴る水の音。

 止まっていた世界の心臓が、再び脈打ち始めている。


 アリスは、自分の掌をそっと見つめた。

 そこには、あの黄金色の火傷の跡はもうなかった。

 迷宮で刻まれたはずの名前も、熱も、目に見える形としては残っていない。

 けれど、拳を握りしめれば、胸の奥に確かな重みが宿っているのがわかった。

 自分で選んだ一歩一歩の痛みが、血肉となって彼女の中に溶け込んでいる。


「夢…じゃなかったんだ」


 アリスは、自分の手元に違和感を覚えた。

 手に持っているはずの、母が買ってきたネイビーの折りたたみ傘がない。

 その代わりに、彼女の右手には、見覚えのない『一つの物』が握られていた。


 それは、透明なビニール傘だった。


 安価で、どこにでもあるような、ただの雨具。

 けれど、その透明な膜越しに見上げる空は、あの日見た灰色の絶望とは違っていた。

 雲の切れ間から差し込む光が、傘の表面に残った雨滴を宝石のように輝かせ、歪んだ、けれどあまりにも鮮明な現実をアリスに見せている。


 不意に、背後で微かな気配がした。

 アリスが振り返ると、数メートル離れた壁際に、一人の少年が立っていた。

 ブレザーではない、この街のどこにでもいるような、ごく普通の学生服を着た少年。


 彼はアリスを追ってきたわけではなかった。

 ただ、長い旅を終えたばかりのような、ひどく疲れ果てた、けれど清々しい瞳で、自分が帰還した『現実』を確かめるように周囲を見渡している。


 彼の手にも、アリスと同じ透明な傘が握られていた。

 少年の視線がアリスと交差する。

 そこには恋心も、馴れ合いもない。

 ただ、別の時間軸、別の地獄を潜り抜け、自分自身の『針』を奪還してきた者同士にしか分からない、静かな敬意(リスペクト)だけがあった。


 少年は短く一度だけ、頷いた。

 それは、共に戦った戦友への、無言の別れの挨拶だった。

 彼はそのまま、アリスとは逆の方向へ、自分の家があるのかさえ分からない雑踏の中へと、迷いのない足取りで消えていった。


 彼には彼の、アリスが知る由もない壮絶な『物語』があったのだろう。

 それはいつか、別の空の下で語られるのかもしれない。


 アリスはもう、彼を呼び止めることはなかった。

 彼の手を握らなくても、自分の足がしっかりと地面を捉えていることを知っていたから。


「……アリス!」


 不意に、聞き覚えのある声が通りの向こうから響いた。

 息を切らしながら走ってくるのは、母だった。

 迷宮で見た、時計職人の作った完璧な偶像ではない。

 髪は乱れ、目元には隠しきれない不安を滲ませた、生身の、不完全な母親。


「アリス、どこに行っていたの!?探したのよ、ずっと……。連絡もつかないし、もし何かに巻き込まれていたらって……」


 駆け寄ってきた母が、アリスの肩を掴む。

 いつものように、叱責を孕んだ過保護な言葉が降ってくる。


「その傘……どうしたの?ネイビーの傘はどうしたのよ。そんな安っぽいビニール傘、どこで手に入れたの。早く帰りましょう。お母さんの言う通りにしていれば、こんなことには……」


 かつてのアリスなら、ここで肩をすくめ、視線を落とし、『ごめんなさい』と呟いていただろう。

 けれど、今のアリスは違った。

 彼女は母の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。


「お母さん」


 穏やかだが、遮ることを許さない響き。

 母は、驚いたように言葉を飲み込んだ。


「傘、なくしちゃった。……ごめんね。でも、この傘は私が欲しくて手に入れたものなの。だから、今日はこのまま、自分の足で帰りたい」


 母の手が、アリスの肩から少しだけ浮いた。

 そこには戸惑いがあり、拒絶されることへの恐怖があった。

 けれど、アリスは母を突き放したわけではなかった。

 ただ、一人の独立した人間として、自分の境界線を宣言したのだ。


「帰ろう。お母さんのところじゃなくて、私たちの家に。……お話ししたいことが、たくさんあるの」


 アリスは母の横を通り過ぎ、一歩、先を歩き出した。

 母は一瞬、呆然と娘の背中を見つめていたが、やがてその小さな変化を認めるように、弱々しく、けれど確かな足取りでその後を追った。


 雲の間から、本当の青空が顔を覗かせた。


 アリスはもう、下を向いて歩くことはない。

 母の期待という傘も、時計職人の完璧な標本も、もう彼女を縛ることはできない。

 透明な傘を差し、濡れた路面を跳ねる自分の靴音を聞きながら、アリスは一歩ずつ、不確かな、けれど愛おしい『自分だけの時間』を刻んでいく。


 空はどこまでも高く、透明だった。


 アリスの右手には、もう黄金色の火傷はない。

 けれど、彼女が傘を握り直すたび、その掌にはあの迷宮の記憶が――真鍮の冷たさと、砂時計の重みと、そして自分が初めて選んだ瞬間の、あの熱い『鼓動』が、いつまでも消えない力強さで宿り続けている。



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