第三十三話『雨を避ける者と黄金色の卒業』
時計塔の崩壊は、世界の終焉というよりは、巨大な夢の幕引きに似ていた。
アリスが叩きつけた砂時計から溢れ出した黄金色の光は、一滴のインクが水面に広がるように、塔の最上階から迷宮の隅々へと浸透していく。
規則正しく噛み合っていた巨大な歯車たちは、その光に触れた瞬間に意志を持ったかのように自壊し、重力によって強固に支配されていた空間は、重苦しい『静止』の呪縛から解き放たれていった。
「アリス、急いで! 足場がなくなる!」
少年の叫び声が、光に包まれたアリスの意識を引き戻した。
足元の強化ガラスは、もはや床としての機能を失っている。
幾何学的な亀裂が走り、バラバラになった時計の部品のように、一枚、また一枚と階下の奈落へと剥落し始めていた。
アリスと少年は、宙に浮遊する巨大な歯車の残骸を飛び移りながら、崩れゆく塔の出口――現実へと繋がっているはずの『あの扉』があった場所へと必死に走り出した。
背後では、機械の母の像が、最期の断末魔のように真鍮のワイヤーを激しく震わせ、火花を散らしながら崩落していく。
時計職人の姿は既に激しい光の奔流に飲み込まれ、彼の傲慢な理論も、憐れみを含んだ悲鳴さえも、金属が砕け散る轟音の中に跡形もなくかき消されていた。
だが、出口まであと数メートルというところで、アリスの足は突如として凍りついた。
その場所に、待っていた者がいたからだ。
実体のない影であるティックでも、冷徹な時計職人でも、ましてや未来の可能性である詩を紡ぐ者でもない。
そこに立っていたのは、一人の女性。
それは先ほどの巨大な機械の偶像ではない。
アリスがその人生の十四年間、誰よりも近くで見つめ、誰よりもその機嫌を伺い、誰よりもその愛を渇望してきた存在。
ネイビーのコートを端然と纏った『本物の母』の姿だった。
彼女は崩壊し、光に溶けゆく世界の中で、ただ一人、あの雨上がりの街角と同じように静かに立ち尽くしていた。
その手には、アリスが現実世界で手放したはずの、あのくすんだネイビーの折りたたみ傘が握られている。
「うそ……お母さん?」
アリスの喉が、熱く締め付けられた。
母は、いつものように静かで、どこか寂しげな、けれどすべてを見透かしているような眼差しでアリスを見つめていた。
その表情には、時計職人が記憶から合成した『慈愛の仮面』のような完璧さはない。
そこにあるのは、娘を思うがゆえの独善と、正解という名の檻を押し付けることでしか愛を形にできなかった、不器用で、ひどく人間臭い『弱さ』だった。
「アリス、どこへ行くの。……そんなに急いで、どこへ行こうというの」
母の声は、騒乱の中でも驚くほど鮮明にアリスの鼓膜に届いた。
「この傘の下にいなさい。そうすれば、あなたは濡れずに済む。誰からも後ろ指を指されず、お母さんの愛の中で、ずっと正しいままでいられるのよ。……あの光の向こう側が、どんなに過酷か知っているの?そこは、あなたの知らない、残酷で、冷たい雨の降る世界なのよ」
母の背後の闇には、アリスが現実で見ていた、あの灰色の街並みが幻影のように透けて見えていた。
退屈で、息苦しくて、けれど何一つ自分で決めなくていい『安全な』日常。
一歩踏み出せば、再びあの『選ばない日々』が始まる。
この迷宮での冒険も、掌に刻まれた熱も、少年の手の温もりも、すべては思春期の多感な少女が見た、一時の白昼夢として記憶の底に処理されてしまうかもしれない。
「お母さんはね、あなたが傷つくのが怖いの。あなたが間違った道を選んで、誰かに笑われるのが耐えられないの。……だから、お願い。その手を離して、お母さんのところへ戻ってきなさい」
差し出されたネイビーの傘。
それはアリスにとって、最も安全な避難所であり、同時に最も重い鎖でもあった。
少年の手が、アリスの掌の中で小さく震えた。
彼は何も言わない。
アリスがどちらを選ぼうとも、彼はそれを受け入れる準備ができているようだった。
ティックの金色の瞳が遠くで瞬き、この『最後の観測』を静かに見守っている。
アリスは、母が差し出した傘を見つめ、それから、自分の黄金色に輝く右の手のひらを見つめた。
火傷の跡は、もう痛まない。
そこには確かな『意志の熱』が、彼女自身の名前と共に、消えない刻印として宿っている。
「……お母さん。ありがとう。今まで、私を守ってくれて。私を、愛してくれて」
アリスは一歩、母の方へ歩み寄った。
だが、その傘の中に入るためではなかった。
彼女は、母が握っている傘の柄に、そっと自分の手を重ねた。
震える母の指を包み込むように。
「でも、私はもう、雨を避けるのはやめる。……濡れてもいい。風に吹かれて、熱を出して寝込んでもいい。私は、お母さんが教えてくれた『正しい色』じゃなくて、自分の瞳で、あの空が本当に透明なのかを確かめに行かなければならないの」
アリスの言葉が紡がれるたびに、周囲の崩壊の速度が上がっていく。
「お母さんが言った通り、外の世界は残酷かもしれない。でも、この迷宮で出会った熱や、痛みや、この子の手の温もりは……本物だった。それを選び取る権利を、私はもう、誰にも預けたくないの」
アリスが母の手から傘を静かに引き離した瞬間、ネイビーの傘は、パラパラと一輪の花が散るように、美しい黄金の火花となって虚空へと消えていった。
母の姿が、陽炎のように揺らぎ、薄れていく。
彼女は驚いたように目を見開き、やがて、アリスが一度も見せたことがなかったような、寂しくも誇らしげな、一人の人間としての微笑を浮かべた。
『……そう。……あなたはもう、私の知らない時間を、刻み始めたのね』
母の姿が霧散し、その向こう側に、眩いばかりの『現実の扉』が姿を現した。
時計塔は完全に崩壊し、すべての歯車と真鍮の破片は光の粒子へと還っていく。
アリスは、隣に立つ少年の手を、これまでで一番強く、壊さないように、けれど決して離さないように握りしめた。
「一緒に帰ろう。……雨上がりの、本当の世界へ」
二人は、輝く扉の向こう側へと、ためらうことなく飛び込んだ。
背後で、時計塔の最後の一片が光に溶け、心地よい静寂がすべてを包み込んだ。




