第三十二話『不確定な明日と砂時計の砕ける音』
時計塔の最上階。そこに広がる『心臓の部屋』は、想像を絶する静寂と、暴力的なまでの規則性に支配されていた。
昇降機としてのガラス床が停止した瞬間、アリスを襲ったのは、重力さえもが均一に管理されているかのような、異様な圧迫感だった。
部屋の直径は優に百メートルを超え、ドーム状の天井からは、数千本に及ぶ極細の真鍮製ワイヤーが、蜘蛛の巣のように緻密な幾何学模様を描いて垂れ下がっている。
部屋の中央。そこには塔の全機能を司る巨大な真鍮製の球体が、無数の鎖とシャフトによって宙に吊るされていた。
その周囲を、直径十メートルはあろうかという巨大な歯車たちが、まるで銀河の運行を模するように、音もなく、寸分の狂いもなく噛み合いながら回転している。
摩擦音ひとつしないその回転は、生命の鼓動というよりは、死者が刻む永遠の行進のようだった。
だが、アリスの視線を、そして魂を釘付けにしたのは、その中心に鎮座する『それ』だった。
「……お母、さん……?」
巨大な球体の表面に、浮かび上がるようにして造形された一人の女性の像。
それは、アリスの母親の姿を完璧に、残酷なまでの正確さで模した、機械仕掛けの『母』だった。
肌は白磁のように滑らかで、その表情は慈愛に満ちている。
だが、その瞳には光がなく、代わりに微細なレンズが埋め込まれ、絶えずアリスの動きをスキャンし続けていた。
その像の両腕は、迷える娘を優しく抱きしめるかのように、柔らかい曲線を描いて広げられている。
しかし、よく見ればその指先は鋭い真鍮の針へと変貌し、背後に繋がる無数のワイヤーへと直結していた。
ワイヤーの先は、壁の扉や引き出し、そして迷宮の隅々まで張り巡らされ、住人たちの『時間』を操る神経系となっているのだ。
「美しいだろう、アリス。これこそが、君が心の奥底で焦がれ続けてきた、完璧な愛の終着点だ」
冷徹な声が、空間の隅々から降り注ぐ。
時計職人が、宙に浮く巨大な歯車の一つに、まるでお茶会を嗜むかのように優雅な動作で腰掛けていた。
彼は懐中時計を掌で弄びながら、憐れみを含んだ青い瞳でアリスを見下ろしている。
「これは私の最高傑作だ。君の記憶の断片、君の脳に刻まれた『理想の守護者』のイメージを抽出し、この世界の演算能力によって純粋化した『聖母』だよ。彼女は決して君を叱らない。君を裏切らない。君が選ぶことをやめ、彼女の懐に飛び込みさえすれば、この世界の不確かな時間はすべて彼女が代わりに引き受けてくれる。……どうだね、この完成された秩序は。君一人の意志などという不純な熱より、ずっと尊いとは思いませんか?」
職人が指差す先、機械の母の胸元、ちょうど心臓があるべき場所には、不気味なほど正確な円形のくぼみがあった。
それは、アリスがこれまで肌身離さず持ってきた『砂時計』を収めるための、最後のピースの欠落だった。
「さあ、お帰りなさい、アリス。君がその砂時計をその胸に捧げれば、この世界はついに『完璧な静止』へと到達する。君はお母さんの腕の中で、永遠に守られ、永遠に愛される、永遠の『いい子』になれるのです。……もう、重い傘を持つ必要もない。雨に怯える必要もない。君は、ただの美しい部品として、完成されるのですよ」
機械の母の唇が、音もなく動いたように見えた。
アリスの脳内に、湿った、甘い、麻薬のような声が直接響き渡る。
『アリス、おいで。お母さんの言う通りにしていれば、何も怖くないのよ。あなたは、何もしなくていい。ただ、ここにいて……。お母さんのためだけに、生きて……』
「お、かあ……さん……」
アリスの視界が、白く霞んでいく。
掌の黄金色の火傷が、脈打つのを止め、急速に熱を失っていく。
足元のガラス床が、母の腕の中へと続くバージンロードのように輝いて見えた。
(……そうだ。そうすれば、私はもう、何も決めなくていい。誰を傷つけることもない。誰に失望されることもない。私はただ、動かない宝石になればいいんだ。そうすれば、お母さんはずっと、私を愛してくれる……)
アリスの足が、磁石に吸い寄せられるように一歩、また一歩と母の像へと向かっていく。
「だめだ、アリス! そいつの言うことを聞いちゃだめだ!」
少年の必死な叫び声が聞こえるが、今の彼女には、水の底から聞こえる微かなノイズにしか感じられない。
機械の母の腕が、ゆっくりと、音もなくアリスを包み込もうと窄まっていき、指先の針が彼女の背中に触れようとした、その刹那。
アリスの指先が、自分のブレザーの裾に触れた。
そこには、あの雨上がりの日、慣れない手つきで畳んだ『ネイビーの傘』の感触が残っていた。
お母さんが選んだ、汚れが目立たない、正しい傘。
その記憶の奥底から、もう一つの映像が火花のように弾けた。
窓越しに見つめた、透明なビニール傘。
雨粒が表面を滑り、歪んだ世界を、そのままの歪さで映し出していたあの光景。
汚れてもいい。誰かに否定されてもいい。
私は、あの透き通った世界を通して、自分の足でどこへ行けるのかを、確かめたかった。
『いい子』でいるために、自分という時間を、お母さんの宝石箱の中に閉じ込めておくことは――もう、できない。
「……ううん。それは、私のお母さんじゃない」
アリスは、静かに、けれど断固として足を止めた。
母の腕が彼女を閉じ込める寸前、アリスは一気にその場から飛び退いた。
その瞬間、掌の火傷が、これまでのどんな時よりも激しい、火傷するほどの熱を持って、真っ赤に、そして黄金に拍動し始めた。
「お母さんは、私を愛してくれていた。……でも、それはお母さんの頭の中にある『人形のアリス』であって、私自身じゃなかった。今の私は、そんなものにはなれない。あなたが作った『完璧な静止』なんて……私は、一秒も欲しくない!」
時計職人の顔から、初めて余裕が消えた。
彼の青い瞳が、不快な虫を潰すかのように歪み、声に殺気が混じる。
「……愚かですね。君一人が、不器用な意志を振り回したところで、この世界の数千億の歯車の回転を止められるとでも?秩序に背くことは、自らを消滅させることだと、まだ理解できないのか!」
「私一人じゃない」
アリスは、隣で顔を青くしながらも、それでも自分の手を離さずに握り続けている少年の手を見つめた。
そして、闇の中から冷然と自分を観測し続けているティックの瞳を。
さらに、いつか辿り着くかもしれない、銀色の髪をなびかせた『未来の自分』の残像を。
「私は、不完全なまま、明日へ行く。……たとえその一秒が、間違いだらけで、後悔にまみれたものだとしても。私という針は、私が動かすんだ!」
アリスは、胸に抱いていた砂時計を、天高く掲げた。
その砂時計のガラス球の中には、かつての自分、選べなかった自分、そしてこれから選んでいくすべての可能性が凝縮されていた。
「壊れて、私の時間!」
アリスは、渾身の力を込めて砂時計をガラスの床へと叩きつけた。
パリン――!!
硬質で、けれどこの時計塔のどんな鐘の音よりも清冽な音が、心臓の部屋に響き渡る。
砕け散ったガラスから溢れ出したのは、砂ではなかった。
それは、まばゆいばかりの、洪水のような『黄金色の光』だった。
それは、アリスがこれまで『いい子』でいるために殺し、捨ててきた、けれど確かに彼女の中に眠っていた、無数の『意志の種火』。
光は奔流となって部屋を駆け巡り、幾何学的なワイヤーを焼き切り、機械の母の白磁の肌に無数の亀裂を走らせる。
「なっ……何をする! 止めろ! 私の、私の完璧な円環が……! 時間の秩序が、崩壊していく……!」
時計職人の悲鳴が響く。
だが、アリスはもう、彼のことなど見ていなかった。
光の渦の中心で、彼女は少年の手を力強く引き寄せ、崩れゆく時計塔の心臓部に向かって、魂の底から叫んだ。
「動いて! 私たちの、本当の時間!」
ゴォォォォォォォォォォン!!
今日一番の、そしてこの国の歴史で最後となる鐘の音が鳴り響いた。
逆回転を始めた巨大な歯車が、互いを砕き合いながら激しい火花を散らし、時計塔そのものが、アリスの解き放った光の中へと溶け始めていく。
偽りの安寧が終わり、残酷で、けれどあまりにも自由な『明日』が、扉を開けようとしていた。




