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第三十一話『時間の母と孤独で自由な果て』

 真鍮の巨大な門が、胃の腑を直接引き絞るような重低音を立てて閉ざされた。

 その瞬間、外の『凍てつく広場』を支配していた警告の鐘の音も、氷が砕ける悲鳴も、すべてが分厚いベルベットのカーテンで遮断されたかのように消え去った。


 アリスは、少年の服の裾を握りしめたまま、その場に縫い止められていた。

 視界に飛び込んできたのは、時計塔という名前から想像していた『建物』の概念を根底から覆す、異様な光景だった。


 そこは、塔の内部というよりは、巨大な鋼鉄の生物の、そのあまりに複雑すぎる『臓物』の中に放り込まれたようだった。

 見上げるほど高い天井――いや、果てがあるのかさえ疑わしい虚空に向かって、四方の壁を埋め尽くしているのは、無数の『扉』と『引き出し』の壁だ。

 それらは壁面に敷設された縦横無尽な真鍮のレールの上を、生き物のように音もなくスライドし、万華鏡の模様を書き換えるように、一秒ごとにその配置を組み替え続けている。


 床は、底が抜けるような恐怖を誘う、厚い強化ガラスでできていた。

 その遥か階下、暗い奈落の底では、街ひとつを丸ごと動かせるほど巨大な、藍色の鋼鉄の歯車がゆっくりと噛み合っている。

『ゴ……、ゴ……』と、振動がガラス越しに足の裏へ伝わってくる。

 その回転はあまりに重く、視覚を通して三半規管を狂わせ、立っているだけで世界が傾いでいくような錯覚をアリスに与えた。


「ここが、時計塔の中だなんて…」


 アリスの声は、高く、広い空間に吸い込まれ、奇妙な残響となって戻ってきた。

 鼻を突くのは、現実世界の雨の匂いではなく、古い図書館の奥底に溜まった埃と、何百年も注ぎ足され続けた粘り気のある機械油が混ざり合った、硬質で、生命を拒絶するような匂いだ。


「アリス、見て。あそこの扉……あれ、君のじゃない?」


 隣で怯えていたはずの少年が、震える指で一つの扉を指差した。

 何千、何万とある扉の群れの中から、その一つがまるでアリスを誘うようにレールを滑り、彼女の目の前でぴたりと止まった。


 それは、中学に上がる前の彼女が、毎日何度も開け閉めしていた、自分の部屋の扉だった。

 ベージュ色の木目、剥がれかけたファンシーなステッカーの跡。

 そして、ドアノブのすぐ下にある、かつてお母さんに『みっともない』と激しく叱られて、慌ててクレヨンで塗り潰して隠した、小さな引っかき傷。

 その傷跡までもが、呪わしいほどの解像度で再現されている。


 アリスの指先が、無意識にその扉へと伸びた。

 その時、扉の向こう側から、かつて彼女の耳を塞がせてきた、湿った、粘りつくような声が漏れ聞こえてきた。


『アリス、まだ宿題が終わらないの? あなたのためを思って言っているのよ。余計なことは考えなくていいの。お母さんの言う通りにしていれば、あなたは世界で一番幸せな女の子になれるんだから』


「お母さん……」


 アリスの胸の奥で、冷たい澱のような感情が沸き上がる。

 それは懐かしさではなく、あの頃の自分が感じていた『自分という存在が透明になっていく』ことへの絶望だった。


 扉に触れようとした指が、止まる。

 その瞬間、背後の暗闇から、場違いなほど軽やかで、芝居がかった拍手の音が響き渡った。


 パチ、パチ, パチ……!


「おやおや、素晴らしい! 実に、実に感動的な再会だ! あるいは、あまりにスリリングな『不出来な過去』の再放送かな?」


 アリスは心臓を跳ねさせ、弾かれたように振り返った。


 そこには、藍色の霧を背負うようにして、一人の男が立っていた。

 白髪混じりの長髪を後ろで緩く束ね、藍色の和服を端然と着こなしたその姿。

 顎髭を指先で愛おしそうになぞりながら、彼は子供をあやすような、あるいは壊れた精巧な玩具を眺めるような、薄気味悪い、貼り付いたような笑みを浮かべていた。


「ようこそ、わしの愛すべき迷い子。そして、招かれざる小さな、小さな不純物くん。君たちがこの『永遠の劇場』に、一体どんな無駄なスパイスを加えてくれるのか、わしは今から楽しみで仕方がないんだ。ああ、あまりにワクワクして、心臓のネジを巻きすぎてしまいそうだよ!」


 彼――時計職人は、踊るような足取りでアリスの周りを回り始めた。

 彼の足音はしない。

 ただ、彼が動くたびに、懐に隠された無数の懐中時計が、チク、タク、チク、タクと、不規則なリズムで心音のように鳴り響いていた。


「時計職人……さん」


「おっと、敬称は不要だよ。わしはただの管理者。世界の美しさを守る、孤独な審判に過ぎないからね。さあ、アリス。君の部屋に入らないのかい? そこには君が捨てたはずの、お行儀の良い時間がたっぷり詰まっているよ。お茶の準備はできていないけれど、時間は……そう、時間は腐るほど、それこそ永遠に余っているんだから!」


 彼は両手を広げ、天を仰いで笑った。

 その瞳は、晴天の空のような青色をしていながら、その奥には生命の温もりなど微塵も感じられない、冷徹な理性が結晶化していた。


 時計職人は、まるで舞台役者のように大仰な仕草を続けながら、アリスの周囲をゆっくりと回遊していた。

 彼の藍色の和服の裾が、強化ガラスの床を擦り、乾いた音を立てる。

 その一歩一歩が、アリスの精神的な自由を少しずつ削り取っていくような、奇妙な圧迫感を伴っていた。


「なぜなの…?」


「なぜ? なぜと問うのかい、お嬢さん。それは、熟れたリンゴが地面に落ちて腐るのを悲しむようなものだよ! 人間は、時間は、放っておけば必ず醜く変貌する。美しかった少女は老い、燃えるような恋心は倦怠に溶け、気高い決意は日常の砂に埋もれる。……ああ、なんという悲劇だ! 救いようのない、無意味な代謝じゃないか!」


 彼は不意に足を止め、アリスの目の前で腰を屈めた。

 至近距離で見つめるその青い瞳には、アリスの怯えた顔が、歪んだ鏡のように映り込んでいる。


「だったら、その『最高の一瞬』に針を止めて、金色のピンで固定してあげればいい。そうすれば、思い出は永遠に色褪せない。君のお母さんが愛した『完璧な娘』のままで、君は救われる。変わらないということは、裏切らないということだ。……ねえ、君だって本当は望んでいたんだろう? 誰かに決められたレールを歩き、自分で選ぶ苦痛から解放されることを!」


 彼は狂ったように笑い、懐から藍色の房がついた銀の懐中時計を取り出した。

 親指で蓋を弾くと、カチカチカチカチと、心臓の鼓動を狂わせるような超高速のリズムで、秒針が逆回転を始める。


「救い……?」

 アリスは、自分の掌に宿る熱を見つめた。

 それは今、時計職人の言葉を拒絶するように、鈍く、けれど力強く拍動している。


「そんなの、ただの剥製よ。……お母さんが私を見ていたのは、私じゃなくて、お母さんが作りたかった『理想』だけ。あなたは、それと同じことを世界中にしようとしている。……それは、救済じゃない。ただの、あなたのわがままだわ」


 アリスの声は小さく、震えていた。

 けれど、その言葉が広い回廊に響いた瞬間、空気が凍りついた。


 時計職人の笑いが、ぴたりと止まった。

 まるで見えない糸が切れたかのように、彼の芝居がかった陽気さが霧散する。

 彼はゆっくりと上体を起こした。

 顔に張り付いていた滑稽な笑みは剥がれ落ち、そこには、感情の起伏が一切削ぎ落とされた、峻厳な『管理者』の顔があった。


「……わがまま、ですか」


 その声は、もはや鐘の音のようでも、役者の台詞のようでもなかった。

 錆びた鋼鉄の板を、精密なメスで切り裂くような、冷酷で無機質な響き。

 それはアリスがこれまで出会ったどんな怪物よりも、生物としての根源的な恐怖を抱かせる『地声』だった。


「君のような、他人の用意した言葉を借りて話すことしか知らなかった小娘が。時間の価値を、私に説くというのですか」


 時計職人は、懐中時計の蓋をゆっくりと閉じた。

 その静かな『パチン』という音が、広大な塔の内部で雷鳴のように響き渡る。


「アリス。現実を見なさい。君が今、必死に守ろうとしているその『意志』や『熱』……それは、この精密な宇宙において、最も不安定な不純物だ。意志は迷いを生み、迷いは時間の歯車に砂を噛ませる。君が選ぶ明日など、結局は過去の失敗の焼き直しに過ぎない」


 彼は一歩、アリスへ踏み出した。

 彼が纏う藍色の霧が、重圧となって彼女を押し潰そうとする。


「君のその『熱』……名前を刻んだその黄金色の火傷は、君自身の命を燃料に燃え続ける焚き火だ。放っておけば、君は自分自身を焼き尽くし、ただの灰になる。だが、私ならば、その熱を有効に活用できる」


 時計職人の青い瞳が、冷徹な計算を走らせる。


「君はこの塔の最上階で、世界を永遠に静止させるための『中心の心棒』……すなわち、不滅の動力源になってもらいます。君の自我を、迷いを、汚れを、すべてこの塔の歯車が濾過し、純粋なエネルギーへと変換する。君という部品が、宇宙の調和のために捧げられる。……これ以上の、美しい完結があると思いますか?」


「勝手なことを、言わないで!」


「いいえ、これは必然です。君が『選ばない』ことで生きてきた十四年間の、当然の終着駅ですよ、アリス」


 時計職人が懐中時計の竜頭りゅうずを一段、カチリと引いた。

 その瞬間、周囲の壁を埋め尽くしていた無数の扉と引き出しが、牙を剥くように一斉に鳴動を始めた。


「さあ、お遊びは終わりです。最上階へ来なさい。君が『都合のいい子供』として存在できる、猶予の時間は――既に、尽きた」


 職人の姿が、濃密な藍色の霧の中に溶けるように消えていった。

 直後、アリスたちの足元のガラス床が、胃が浮き上がるような激しい振動と共に、巨大な昇降機となって上昇を開始した。


「待って! 私は、まだ――!」


 アリスの叫びを嘲笑うように、階下では無数の巨大歯車が噛み合う、圧倒的な重低音が轟き始めた。

 視界の端で、ティックの金色の瞳が、愉悦に満ちた光を湛えながら闇の中へと沈んでいく。


「選ぶ時間が、もうすぐなくなるよ、アリス。針が天頂を指した時、君は何を望む? 完璧な静止か、それとも、汚れにまみれた明日か」


 上昇するガラスの床は、加速するにつれて不気味なほどの静謐を湛え始めた。

 足元を過ぎ去る巨大な歯車たちの轟音は、もはや一つの低い振動となってアリスの骨の髄まで響いている。

 壁面を覆う無数の扉や引き出しは、上昇の速度に合わせて流線型の光の帯となり、まるでアリスを過去の奔流へと引きずり込もうとする触手の群れのようだった。


「アリス、息をして! 目を閉じちゃだめだ!」


 少年の叫び声で、アリスは辛うじて意識の表層に踏み止まった。

 視界が歪む。

 ガラスの床が、いつの間にか過去の情景を映し出すスクリーンのように変貌していた。


 そこに映っていたのは、夕暮れ時のリビング。

 幼いアリスが、お気に入りの色鉛筆を握りしめ、白い紙に自由な線を引こうとしている。

 だが、その背後には常に、母の影が覆いかぶさっていた。


『アリス、そんな色は使わないの。空は青、木は緑。それが「正しい」色よ。ほら、お母さんの言う通りに塗りなさい。そうすれば、誰からも愛される良い子になれるのよ』


 床の中の幼いアリスは、一瞬だけ悲しげに瞳を揺らしたが、すぐにその『正しい』色鉛筆を手に取った。

 反抗するエネルギーよりも、認められたいという飢えの方が勝っていた。

 そして、その瞬間に、アリスの時間は一度死んだのだ。


 次々と、床に『選択の放棄』が映し出される。

 友達に誘われた遊びを、母が不機嫌になるからと断った放課後。

 本当は欲しかった透明なビニール傘ではなく、母が選んだネイビーの傘を『これでいい』と受け入れた雨の日。

 一秒、また一秒。

 アリスが自分の意志を殺し、他人の時間を生きてきた記録が、鋭い刃となって彼女の精神を削り取っていく。


「やだ…やめて……。もう、見せないで……」


 アリスは膝をつき、耳を塞いだ。

 自分がいかに空っぽで、いかに他人の望む形に合わせて自分を削り取ってきたか。

 時計職人の言葉が、正論となって彼女の脳内に響き渡る。


(私は、部品だったんだ。最初から、誰かに動かされるためだけの……)


 その絶望の淵に、冷たい氷のような、それでいて透き通った声が差し込んだ。


「嘆く必要はないわ、アリス。その痛みこそが、あなたがまだ『完成していない』証なのだから」


 アリスが顔を上げると、上昇する回廊の虚空に、銀色の光が舞っていた。

 そこに立っていたのは、太ももまで伸びる眩い銀髪をなびかせ、気品ある白のドレスに身を包んだ女性。

『迷宮の詩を紡ぐ者』――未来のアリスの可能性。


 彼女の深い青の瞳には、今の勇気を失いかけたアリスへの、痛切なまでの慈愛が宿っていた。


「未来の私……」


「時計職人の言葉を信じてはだめ。彼は、時間を『標本』として愛しているけど、私たちは時間を『息吹』として生きるもの。あなたが今、その少年の手を握っている。それは、誰の命令でもない、あなた自身が選んだ一秒ではないの?」


 彼女の銀色の長い指先が、アリスの黄金色の火傷にそっと触れる。

 その瞬間、床に映っていた暗い記憶の映像が、砕け散る鏡のように霧散した。


「アリス、時計塔の頂上まであとわずか。あそこには、職人が作り上げた『偽りの永遠』を完成させるための、最後の一片が待っている。……それは、あなた自身でも、あの時計職人でもない。あなたが最も愛し、最も憎み、そして最も恐れている……『時間の母』の形をした装置よ」


「時間の……母?」


 詩を紡ぐ者は、悲しげに微笑み、その姿を銀の粒子へと変えていく。


「気をつけて。職人はあなたの『熱』を奪うために、あなたの最も脆い部分を突いてくる。自分を信じることは、孤独になることではないの。……私を見て。私は、あなたがいつか辿り着くかもしれない、孤独で、けれど自由な果て。あなたの針を、他人に委ねてはだめ」


 銀の光が消え、再び回廊には機械の唸り声が戻ってきた。

 だが、アリスの瞳からは、先ほどまでの濁った迷いが消えていた。

 彼女は震える手で少年の手を強く引き、立ち上がった。


 ガァァァァァァァン!!


 塔の最上階から、これまでにないほど巨大な鐘の音が響き渡る。

 上昇していたガラスの床が、激しい衝撃と共に停止した。

 目の前には、巨大な振り子が死神の鎌のように左右に揺れる、時計塔の最深部――『心臓の部屋』への入り口が口を開けていた。


「進もう。……私の、本当の名前を見つけるために」


 アリスは青白い光が漏れる扉の先へと、一歩を踏み出した。



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