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第三話『遅延する余韻と距離の逃げ水』

 時計屋の国の街は、時間の重なりでできていた。


 店の外へ一歩踏み出した瞬間、アリスを襲ったのは、物理的な風ではなく『情報の密度』だった。

 空気は現実世界のそれよりも遥かに濃く、肺の奥に吸い込むたびに、冷たい真鍮のヤスリで喉を撫でられるような、微かなざらつきを感じる。

 ただ立っているだけで、大気という名の液体に全身を浸しているかのように、身体がじわじわと沈み込んでいく感覚があった。


 足を踏み出すたび、石畳はその性質を気紛れに変える。

 ある一歩では、焼きたてのパンのように柔らかく沈み込み、靴底が地面を掴めずに泳ぐ。

 

 だが次の瞬間、別の一歩を刻むと、地面は数千年の歳月を経て凍りついた永久凍土のように冷たく硬化し、骨を伝って鋭い衝撃が膝まで突き抜ける。

 

 この不条理な街で唯一、正確な正体を保っているのは、アリス自身の身体に返ってくる『重さ』だけだった。

 

 ワインレッドのブレザーの肩に伝わる微かな沈み込み。

 歩くたびに太ももを打つタータンチェックのスカートの裾。

 白いソックスの網目を通り抜けてくる、この世界の底冷え。

 すべてが、ここでは単なる感覚ではなく、時間そのものが持つ重力の息づかいとして、彼女をこの場所に繋ぎ止めていた。


 風が吹けば、音は常に数秒遅れて届いた。

 遠くで響く時計塔の鐘。


 その『ゴーン』という余韻の隙間には、まだ起きていない出来事の影――予感という名の粒子が、霧のように白く漂っている。

 街の景色は、決して揺れてはいない。

 それなのに、どうしても距離感が合わない。

 まっすぐ続いているはずの道。


 角を曲がると、景色は確かに連続しているのに、目的の建物は逃げ水のように遠ざかる。

 建物の壁に刻まれた精巧な装飾――蔦のように絡まり合う金属の歯車――は、アリスが視線を外すたびに静かに位置をずらし、窓から落ちる影は、彼女の歩みを指折り数えるようにして、一拍置いてから後を追った。


 古紙と機械油、そして湿った石が混ざり合った匂い。

 それが湿った空気に沈殿し、胸の奥に重たい(おり)を残していく。


「君の砂時計は、どう? 馴染んできたかな」


 背後から、ティックの声が届いた。

 近い。

 すぐ耳元で囁かれたように聞こえる。

 だが、振り返ってもそこには誰もいない。

 光の粒と影の輪郭が不規則に混ざり合い、掴めそうで掴めない輪郭を持った『黒い揺らぎ』が、アリスの周囲を衛星のように回っているだけだ。

 ただ、その流動する闇の中心で凍りついたように輝く『金色の瞳』だけが、迷いなくアリスを捉えていた。


 アリスは、砂時計を握りしめる掌に力を込めた。

 ガラス越しに伝わるその重みこそが、今や彼女にとっての唯一の現実だった。

 現実を引き留める(いかり)のように、砂時計は彼女の指に食い込む。


「……重い」


 それは感想ではなく、冷徹な事実だった。

 砂は落ちるたび、目に見えない重さを増していく。

 一粒一粒が、アリスがこの世界で吸い込んだ空気の分だけ、あるいは彼女が過去に捨ててきた時間の分だけ、その質量を増しているのだ。

 時間が積もっていく重さ。

 そしてそれは、彼女自身がこれまでにしてきた、あるいは『しなかった』選択の重みでもあった。


 ティックは答えを急がない。

 彼は影の姿を変え、壁の装飾の上を黒い油のように滑りながら、楽しげに続けた。


「それが、君の時間だ。重ければ重いほど、君はここに存在しているということになる。軽い時間は、あっという間に霧になって消えてしまうからね」


 アリスは、砂時計を目の前に掲げて覗き込んだ。

 砂時計の中で、砂は一定の速度で落ちてはいなかった。

 砂粒がくびれた管を通り抜けようとする直前、ほんの一瞬だけ、磁石に引き寄せられるように静止する。

 それは機械の故障による躊躇ではない。

 もっと冷徹な『選別』だった。


 砂の中に、淡い光が混じっていることに気づく。

 銀色の鈍い流れの中に、時折、金色の粒が混ざる。

 それらは互いに触れ合い、溶けきれないまま同じ場所で渦を巻いている。


「……何、これ。色が、分かれてる」


「君が選んだものと、選ばなかったものだ」


 ティックの声を聞いた瞬間、胸の奥が氷を押し当てられたように冷えた。


「混ざるの? 私が選ばなかったことも、一緒に落ちていくの?」


「分かれきれなかった、と言うべきかな」


 ティックは否定も肯定もしない。

 アリスは砂時計を持ち直す。

 砂が落ちるたび、足元の石畳の距離が、カチリと音を立てて数ミリだけずれる。

 街のどこかで、時計が鳴った。

 


 ボーン、ボーン。

 


 音は一斉に放たれているはずなのに、アリスの耳に届く順番はバラバラだった。

 右耳には昨日の音が、左耳には明日の音が、不協和音となって響く。


「……この砂時計って、本当は何なの? ティック、あなた知ってるんでしょう」


 ティックは少しだけ視線を逸らし、建物の影の奥へと視線を投げた。


「君がここへ来る前に、君の魂が持っていたものだ。……と言っても、今の君の頭では思い出せないだろうけれど」


「覚えてない。……どうして」


「忘れたままでいい。思い出しても、砂は軽くなりはしないさ」


 胸が締め付けられる。

 忘れたままでいい――その言葉が、記憶の隙間に深く落ち、砂の粒のように小さく、鋭く光った。


 アリスは再び歩き出した。

 空気はさらに密度を増し、まるで重油の中を泳いでいるかのように、一歩を進めるのにも全身の力が必要になる。

 

 ふと見ると、建物の壁に埋め込まれた巨大な掛時計の針が、地面に伸びるアリスの影と同じ角度でぴたりと止まっていた。

 アリスが立ち止まる。

 すると、足元の影もまた、地面に縫い付けられたように静止した。


「立ち止まることは、ここでは『待機』ではない。明確な『選択』だ」


 ティックの声は低く、砂時計の中で砂がガラスを打つ微かな音と重なった。

 石畳は今や、巨大な文字盤そのものに変貌していた。

 時間そのものが巨大なプレスの重圧となってアリスを押し潰そうとする。

 息が浅くなる。

 冷たい汗が背中を伝った。


「……怖い。何もかもが、私を試してるみたいで」


 その瞬間、砂時計の砂がピタリと止まった。

 世界が静止する。

 通り抜ける風も、遠くの鐘の音も、歪んだ距離感さえもが、真空の中に閉じ込められたように動かなくなった。


 その静止した白黒映画のような世界の中で、ただ一つだけ、アリスの『影』が動き出した。

 影は地面から剥がれるようにして、一歩、前に出た。

 アリスと同じ形。

 アリスと同じ背丈。

 だが、ゆっくりと振り返ったその存在には、アリスにはない『金色の瞳』が、ティックと同じ色で爛々と輝いていた。


 砂時計の砂が再び落ち始めると、世界に色が戻った。

 影は音もなくアリスに近づき、彼女の肩にふわりと乗った。

 軽い。

 羽毛のように。

 だが、そこには逃げ出せない『強制的な重さ』があった。


「…何? あなた、誰なの?」


「君の影だよ、アリス」


 ティックの説明は短かった。

 影は言葉を持たない。

 ただ、アリスの瞳をじっと見つめている。

 それは彼女が見られたくない場所――心の奥底に隠した、臆病で、それでいて傲慢な『本当の自分』を監視しているかのようだった。


 砂時計の中で、一粒の砂が突如として激しく発光した。

 光の粒はガラスを突き抜けるようにして弾け、空中で虹色の塵となって舞い、やがて一つの形を結んだ。


 そこに浮かび上がったのは、幼い日のアリスだった。

 中学に入りたての頃だろうか。

 制服の袖がまだ少し大きく、手足が細い。

 少女は笑っていた。

 だが、その瞳は今にも泣き出しそうに揺れ、誰かの顔を伺っている。

 擦り切れた靴の先、泥のついたスカート。

 あの日、誰にも言えずに飲み込んだ、小さな『ごめんなさい』が、砂の粒となって目の前で踊っている。


 胸が、焼けるように痛む。

 理由は分からない。

 だが、自分があの時『選ばなかったこと』だけは、皮膚感覚として理解できた。


「私だ…あの日、あの場所で、私が置いてきた私だ」


 影がわずかに揺れ、アリスの首筋に冷たい息を吹きかけた。


「君の選択は、常に記憶と繋がっているんだよ、アリス」


 ティックの声が近い。

 アリスは、肩に乗った自分の影を見つめた。

 影もまた、金色の瞳でアリスを見つめ返す。

 アリスは、震える足で再び歩き出した。

 影はもう遅れず、彼女の肉体の一部として、その孤独に寄り添うように付いてくる。


 砂時計の音が、街の歯車が噛み合う不協和音と溶け合う。

 アリスの時間は、この時計屋の国の深淵へと、一秒ずつ確実に沈み込んでいく。

 物語は、確かに深みに入った。

 

 霧の向こう、迷宮の奥底で、誰かが巨大なゼンマイを巻く音が、一拍遅れて響き渡った。



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