第二十九話『氷漬けの幸福と永遠という名の剥製』
時計塔から放たれる鐘の音は、もはや単なる音響ではなかった。
それは物理的な衝撃波となって大気を震わせ、アリスの鼓膜を容赦なく叩いた。
一打ごとに、世界の輪郭が石膏のように剥落し、背後の街並みは紫色の霧の中へと溶けて消えていく。
退路は、一秒ごとに断たれていた。
「あそこに行かなきゃいけないの。……そうだよね、ティック」
アリスは、少年の服の裾を握りしめたまま、宙に浮く金色の瞳を見上げた。
影の案内人は、実体のない身体を気怠げに揺らし、相変わらず肯定も否定もしない。
ただ、その瞳の奥に宿る冷徹な光が、アリスという『針』が刻む軌跡を執拗に追い続けている。
「君が針として進むなら、世界はその先を描かざるを得ない。ただ、アリス。覚悟しておきなよ。次の広場は、これまでの『加工場』とは少し質が違う。あそこにあるのは、誰かが捨てたかった時間ではなく、守りたかったはずの、死んだ記憶だ」
ティックの言葉を裏付けるように、足元の石畳はいつの間にか、白く濁った氷のような質感に変貌していた。
辿り着いたのは、街の心臓部へ向かう手前に広がる大広場だった。
かつては噴水があったのだろうか、中央には天に向かって指を指すような、巨大なクリスタルの塊が鎮座している。
だが、アリスの目を釘付けにしたのは、その周囲を埋め尽くしている異様な光景だった。
何百、何千という『ぜんまい仕掛けの人形』たちが、そこにいた。
それらは、先ほどまでの灰色の人々とは決定的に違っていた。
ある人形は幼い子の手を引き、ある人形は恋人の肩を抱き寄せ、ある人形は一冊の本を読みふけっている。
あるいは、食卓を囲んで笑い合い、あるいは、別れを惜しんで抱き合う。
すべてが、人生における『一番幸せな一瞬』のポーズで固定され、表面を薄く硬い氷の膜が覆っていた。
「みんな、止まってる……」
アリスは息を呑んだ。
肺に吸い込む空気が、刃物のように冷たい。
隣に立つ少年の指先が、アリスの掌の中で小さく震えた。
「……ここはね、時計職人が『完璧な保存』と称して、時間を抜き取った場所なんだ。一度こうなってしまったら、もう二度と、次の秒針が刻まれることはない。ここにあるのは、永遠という名の剥製だよ。ねえ、アリス。君にはこれが、幸せに見える?」
少年の問いに、アリスは答えられなかった。
お母さんが望んでいた『いい子』のアリスも、もしかしたらこの広場にある人形の一体だったのかもしれない。
波風の立たない、汚れのない、静止した美しさ。
アリスがその中の一体、自分と同じくらいの年齢の、花の冠を編もうとしている少女の人形に触れようとした、その時だった。
広場の奥から、世界の底を削り取るような巨大な金属音が響いた。
ギィ、ギィ、ギィィィィ――。
広場の唯一の出口を塞ぐように、それは姿を現した。
高さは三メートルを優に超えるだろう。
全身が煤けた金色の歯車と、分厚い真鍮のプレートで構成された、巨大な騎士の像。
その頭部には顔がなく、代わりに巨大な懐中時計が埋め込まれている。
文字盤の針は狂ったように高速で逆回転しており、動くたびに、錆びた弦を無理やり弾くような不快な音が周囲の氷を震わせた。
「ぜんまい仕掛けの、守護者……」
少年の顔から血の気が引く。
守護者はアリスの姿を捉えると、内部で眠っていた蒸気機関を咆哮させた。
シュウウッ、と熱い蒸気が関節から噴き出し、内部で高速回転する歯車の唸り声が、アリスの足元の氷を伝って全身を揺さぶる。
『……異物ヲ、排除セヨ。……純粋ナル、静止ヲ、汚スナ……』
「待って! 私たちは、ただ通りたいだけなの!」
アリスは叫んだ。
しかし、守護者に言葉は通じない。
守護者が巨大な右腕を振り上げた。
それは救済ではなく、拒絶の鉄槌だった。
振り下ろされた鋼鉄の拳が、アリスの数センチ横の地面を粉砕した。
氷が火花のように砕け散り、その鋭い破片がアリスの白い頬をかすめて赤い線を引く。
(怖い。逃げたい。お母さん、助けて)
いつもの癖が、アリスの心を支配しようとする。
誰かが助けてくれるのを待ちたい。
誰かの背中に隠れて、嵐が過ぎ去るのを祈っていたい。
自分の意志で動くことの苦しみから、今すぐ解放されたい。
けれど、アリスは自分の隣で、恐怖に身を竦ませながらも必死に自分の手を握り返してくる、少年の冷たい掌の感触を思い出した。
もし今、自分がここで目を伏せれば、この少年もまた、あの氷漬けの人形たちの一体になってしまう。
彼の明日が、時計職人のコレクションの一部として、永遠に閉ざされてしまう。
「……アリス、走って! 僕が、何とかするから!」
少年が震える足で一歩前に出ようとした。
その華奢な背中が、あの日、母の期待に応えられずにうなだれていた自分自身の後ろ姿と、痛いくらいに重なった。
「だめっ!」
アリスは叫ぶと同時に、少年を突き飛ばすようにして前へ躍り出た。
彼女の右の掌――『黄金色の火傷』が、脈打つような激しい熱を帯び始める。
それは、中学に上がる前の自分が欲しかった、透明なビニール傘の色。
他人の視線を遮るためではなく、雨空の美しさを透かして見るための、透明で、けれど確かな境界線。
「私の時間は、誰にも止めさせない……! 彼の明日も、勝手に奪わせたりしない!」
アリスは泣き出しそうな顔のまま、それでも正面から迫りくる守護者の、巨大な鋼鉄の胸へと、震える掌を突き出した。
掌が冷たい金属に触れた瞬間――。
アリスの脳裏に、強烈な記憶の断片が逆流してきた。
それは彼女の記憶ではない。
守護者という機械の核に、部品として閉じ込められていた、名もなき誰かの『守りたかった瞬間』。
幼い子供の笑い声、夕暮れ時の台所の匂い、誰かの名前を呼ぶ掠れた声。
それらは守護者が排除しようとしていたはずの、ノイズであり、そして愛おしい生の証だった。
掌から伝わる黄金色の熱が、守護者の真鍮の装甲を内側から焼き、溶かしていく。
機械の唸り声が、次第に悲鳴のような軋みへと変わっていく。
アリスは目を逸らさなかった。
掌に伝わる金属の熱さと、冷たい氷の感覚。
その矛盾した感覚こそが、今、自分が『生きている』という何よりの証明だと感じていた。
やがて、守護者の胸の中央に亀裂が走り、眩い光が溢れ出した。




