第二十八話『沈黙の箱と捨てられなかった言葉の泡』
銀色の液体がアリスの体温を吸い、淡い桃色へと染まっていく。
その静かな変色を目にした瞬間、彼女の心に満ちたのは達成感などではなく、取り返しのつかないことをしてしまったという、底知れぬ恐怖だった。
(ああ、私……壊してしまった)
この街の、完璧で、静かで、誰もが迷わずに済むはずだった秩序。
母が、そしてあの男が『正しさ』だと信じて疑わなかった無機質な世界に、彼女は自分だけの不確かな熱を注ぎ込み、汚してしまったのだ。
引いた掌が、ひりひりと熱い。
その熱は罪悪感となって、アリスの喉を締め付けた。
彼女は自分の手を、まるで罪を犯した証拠であるかのように、スカートの陰へと隠した。
「熱い……! 熱いじゃないか! 計算外だ、こんな予定は、どこにも書いていない!」
ネジだらけの男は、悲鳴を上げながら、糸巻きの車輪をガタガタと鳴らして後ずさった。
彼の関節からは、恐怖に震えるように真鍮のネジが次々と零れ落ち、石畳に虚しい音を立てて転がっていく。
ネジが一つ外れるたびに、男の体躯は少しずつ萎み、燕尾服の袖が幽霊のように力なく垂れ下がった。
「ごめんなさい……。でも、止めなきゃいけないって、思ったの」
アリスの声は、自分でも情けないほど震えていた。
今すぐにでも目をつむり、この場から逃げ出したい。
謝って、元通りに直させてほしいと縋り付きたい。
けれど、視線の先で漏斗に埋まっている少年の、あの絶望しきった瞳が、彼女の臆病な足を地面に縫い止めていた。
「……アリス、逃ゲテ。早ク」
銀の油の中から、少年が掠れた声を絞り出した。
その声には以前の輝きはなく、錆びついたゼンマイが回るような重苦しい響きがあった。
その声に呼応するように、街の静寂が、突如として恐ろしい地鳴りへと変わった。
ガァァァァァン、ガァァァァァン。
街の端、天を突くようにそびえ立つ巨大な時計塔が、警告の鐘を鳴らし始めたのだ。
それは迷宮の怪物の咆哮よりもずっと残酷で、心臓を直接握り潰されるような、絶対的な『拒絶』の響きだった。
歩道を歩いていた灰色の人々が、一斉に動きを止めた。
彼らは機械仕掛けの操り人形のようにギチギチと首を捻り、無機質な視線を一斉にアリスへと向けた。
彼らの瞳には何の意志も宿っていない。
ただ『異物を排除する』という冷徹なプログラムだけが、薄暗い奥底で明滅していた。
「怖い…!」
アリスは自分の細い肩を抱き、その場に小さくうずくまった。
足元の影の中から、ティックの冷ややかな囁きが聞こえる。
「ほら、お利口な部品たちが怒り出した。君が彼らの『平穏な忘却』を壊したからだ。アリス、君が選んだ『名前』は、こんなにも恐ろしく、重苦しいものを呼び寄せるんだよ。このままじゃ、君もあそこに塗り込められる背景になっちゃうね」
ネジだらけの男は、取り乱した様子で自分の左腕のネジを自ら解体し始めた。
「修正だ! 直ちに修正しなければ! 異物は、この『沈黙の箱』に閉じ込めるのが、一番の幸せなんだ!」
『沈黙の箱』。
その言葉が耳に触れた瞬間、アリスの胸の奥に眠っていた二つの箱が、共鳴するように震えだした。
迷宮で拾った、あの重く、冷たく、錆びついた箱。
あれは彼女を閉じ込めるための檻ではなかったのだと、不意に悟った。
あれは、彼女が母の前で、あるいは誰かの顔色を窺う中で、ずっと『なかったこと』にしてきた、自分の悲鳴。
選べなかった夢の断片。
そして、捨てきれなかった涙の跡。
(私はずっと、自分をこの箱の中に詰め込んで、誰かの時間の一部になろうとしていただけだったんだ……)
アリスは、震える手で、自分の足元に溜まった『桃色の熱』を掬い上げた。
それは涙のように温かく、そしてどこか懐かしい、雨上がりの土のような匂いがした。
「私、知ってる。その箱の中、とても冷たくて、暗いもの。でも、空っぽじゃないの。私たちが捨てたかったものじゃなくて、捨てられなかったものが、まだそこに残っているの」
アリスはその熱を、地面の石畳の割れ目に、そっと、染み込ませるように注いだ。
そこから、かつて迷宮に置いてきたはずの『言葉の断片』が、小さな泡のように溢れ出してきた。
『痛い』
『寂しい』
『そばにいて』
『私を見て』
それは誰を傷つけることもない、ただの、弱くて切ない、誰もが隠し持っているはずの本音のしずくだった。
泡の一つが男の燕尾服に触れると、そこから鮮やかな色彩が、まるでペンキをこぼしたように広がり始めた。
「やめてくれ! そんな、意味のない言葉は、毒だ……! 秩序が、秩序が溶けていく!」
ネジだらけの男は、溢れ出した言葉の泡に翻弄され、風船のように萎んでいった。
ネジがすべて外れ、燕尾服がただの布切れとなって地面に落ちるたび、彼の『絶対的な正しさ』は、滑稽なほどの弱さを露呈していった。
男であったはずの場所には、もう、小さな錆びたネジの山が残っているだけだった。
「君は…本当におかしな子だね」
少年が漏斗から這い出し、アリスの隣に膝を突いた。
彼の足元には、薄い、けれど確かな、彼自身の『人間の影』が戻っていた。
影は周囲の紫色の霧に怯えるように小さく震えていたが、それでも確かに彼の足元に根を下ろしている。
「自分のことも守れないくらい震えているのに。どうして、自分のものでもない箱を、開けようとするの?」
「……わからない。でも、誰かが泣いているのに、時計の音でかき消しちゃうのは……やっぱり、悲しいから」
アリスは立ち上がり、濡れた頬を袖で拭った。
街の奥で、黒い霧を吐き出し続ける時計塔を見上げる。
あそこには、自分をこの不条理な世界へ突き落とした『悪意』の本体がいる。
けれど今のアリスには、自分のこの『臆病さ』さえも、誰かに寄り添うための小さな灯火に変わるような、そんな不思議な予感があった。
アリスは、少年の服の裾を、そっと、けれど離さないように掴んだ。
指先はまだ冷たくて、止まることなく震えている。
けれど、その指先が触れた布地からは、確かな体温が伝わってきた。
「行こう。……私の名前が、これ以上、誰かの涙を忘れないために」
それは、怖がりな彼女にできる、精一杯の『勇気』の形だった。
二人は影を引きずりながら、警告の鐘が鳴り響く街へと、ゆっくりと歩き出した。




