第二十七話『水晶の歯車と耳に注ぐ沈黙の油』
家を飛び出したアリスを最初に迎えたのは、肺の奥まで凍りつかせるような、紫色の粘り気のある空気だった。
かつて見慣れていたはずの住宅街の空は、今や磨り潰した葡萄の皮をぶちまけたように濁り、太陽の代わりに巨大な真鍮の歯車が、鈍い光を放ちながらゆっくりと天頂を巡っている。
アリスは、自分の家があったはずの場所を振り返ったが、そこにはもう、歪んだ扉の残像すら残っていなかった。
目の前に広がるのは、まるで巨大な定規で測り直されたかのように、チェス盤のような正確な格子状へと変貌した街並みだった。
一歩の歩幅、建物の角度、影の落ちる方向までもが、ミリ単位の狂いもなく制御されている。
最もアリスを震えさせたのは、道行く人々の姿だった。
彼らは皆、仕立ての良い、けれど色彩を失った灰色の服に身を包み、判で押したような無表情で石畳を歩いている。
そして数歩ごとに、示し合わせたように立ち止まっては、自分の足元に伸びる影を『点検』するのだった。
彼らは影を丁寧な手つきで折り畳み、鞄の中へとしまい込む。
まるで、自分という存在が地面に染み出すことさえも、重大な規律違反であるかのように。
「……誰も、自分を見ていない」
アリスの呟きは、不自然なほど静まり返った街路に吸い込まれていった。
風さえもが、決まった時刻に、決まった方向へしか吹くことを許されていないような、窒息しそうな静寂。
「当たり前じゃないか。自分を見るなんて、この街じゃ『不潔な行為』なんだよ」
足元の、まだ折り畳まれていないアリスの影から、ひょっこりと黄金色の瞳が覗いた。
ティックだ。
彼は影の端を器用に揺らしながら、困ったような、それでいてどこか楽しそうな声で続けた。
「時間は共有物であって、私有物じゃない。秒針の音に合わせて呼吸し、分針の角度に合わせて思考する。それがこの街の『清潔な美徳』さ。アリス、君のように自分の名前や熱をポケットに入れて持ち歩くのは、衆人環視の中で裸で歩き回るよりも、ずっと破廉恥なことなんだ。ほら、見てごらん。あそこの婦人の顔を。君の『個』の匂いに、吐き気を催しているみたいだ」
アリスが目を向けると、影をしまい終えた一人の女性が、アリスの掌にある黄金色の火傷を一瞥し、顔を背けて早足に去っていった。
その目は、まるで道端に転がる汚物を見るような、純粋な嫌悪に満ちていた。
アリスは『ごめんなさい』と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
謝罪の言葉さえ、この冷たい空気の中では場違いな不協和音のように感じられたからだ。
彼女は火傷の痕を隠すように、ぎゅっと掌を握り締めた。
その時、石畳の向こうから、奇妙な音が響いてきた。
カラカラ、カラカラ――。
巨大な『車輪の付いた糸巻き』に乗った、背の高い男が猛スピードでこちらへ向かってくる。
丈の長すぎる燕尾服の裾を、回転する糸巻きの軸に何度も巻き込みそうになりながら、男はアリスの鼻先数センチというところで、耳を劈くような金属音を立てて急ブレーキをかけた。
キィィィィ。
「おやおや、大変だ! 実に、実に、不謹慎なほどに『未完成な部品』が漏れ出している!」
男は勢いよく糸巻きから飛び降りると、アリスの周囲を、測量士のような神経質な足取りでぐるぐると回り始めた。
彼の関節には、一つひとつ小さな真鍮のネジが埋め込まれており、動くたびに『カチ、カチ』と不快な摩擦音を立てる。
男は懐から、レンズの代わりに底の抜けた望遠鏡を取り出すと、それをアリスの掌に押し当てるようにして覗き込んだ。
「名前という『過剰な装飾』を持っているのかい? 困ったね。それはこの街の美学に反する。今すぐその熱を、この排水溝に捨てなきゃいけない。さもないと……ほら、街の『静かな絵画』が台無しになってしまう!」
「捨てる……? あなた、何を言っているの? これは私の、大切な……」
言いかけて、アリスは喉を詰まらせた。
ネジだらけの男はアリスの困惑を無視し、冷たいペンチのような指先で彼女の手首を掴むと、歩道の真ん中に突如として出現した、異常に長いテーブルへと無理やり連れて行った。
そこは、茶会というよりは、誰もが同じ色に染まるための『作業場』のようだった。
テーブルの上には、陶器のカップなど一つもなく、代わりに中身が透けて見える『水晶の歯車』が何百個も並べられ、そこから銀色の、水銀のように重たく澱んだ液体が溢れていた。
テーブルの端に、アリスは見覚えのある後ろ姿を見つけた。
あの交差点で出会った、少年だ。
しかし、今の彼は以前の快活さを失い、巨大なガラス製の漏斗の中に、腰まで埋まるようにして座り込んでいた。
少年は虚ろな目で、テーブルの上の銀色の液体を匙で掬うと、それを自分の耳の穴へと、ゆっくりと、丁寧に注ぎ込んでいる。
「ねえ、君も注いでみる?」
少年の声は、深い霧の底から響いてくるように抑揚がなかった。
「そうするとね、自分の声が、街のノイズと混ざって消えていくんだ。自分の考えも、自分の願いも、全部この銀色の海に溶けて、一つになる。とっても、静かだよ。もう、明日を怖がらなくていいんだ」
少年の耳から溢れた銀色の液体が、彼の頬を伝ってテーブルへと滴り落ちる。
アリスは、その光景に激しい吐き気を覚えた。
この異様な食卓は、現実を侵食した迷宮が用意した、新たな『加工場』なのだと直感した。
人々が個性を捨て、名前を捨て、平坦な時間の摩耗の中に喜んで身を投じるのは、街全体が巨大な『忘却の絵画』を描き続けているから。
(……逃げなきゃ。今すぐ、ここから逃げ出さなきゃ)
心臓の音が耳元でうるさいほど鳴り、膝はガクガクと震えていた。
ネジだらけの男が突きつける『正論』は冷たく、アリスの小さな存在を今にも押し潰してしまいそうだった。
視界の端では、少年がまだ銀色の液体を自分の耳に注ぎ込んでいる。
その虚ろな、何も映していない瞳。
それが、かつて迷宮の底で動けなくなっていた自分自身の姿と重なって、胸が引き裂かれるように痛んだ。
「……やめて」
アリスの口から漏れたのは、自分でも驚くほど小さな、掠れた声だった。
「やめてよ。そんなの、おかしい。声が出ないようにして、色を消して……そうやって、みんなを部品にしてしまうなんて……そんなの、ちっとも美しくないよ」
「アリス、またエラーを起こすのかい?」
ネジだらけの男が、不快な金属音を立てて身を乗り出した。
「美しさとは静寂だ。君のその熱が、街の平和を汚しているんだよ。さあ、大人しくその手を差し出して、銀の油に浸かりなさい」
テーブルがうねり、銀色の波がアリスの足元を浸食していく。
冷たくて、重くて、触れたそばから自分の心が削り取られていくような感覚。
アリスは怖くて堪らず、涙を零しながら、ぎゅっと右の掌を握り締めた。
(……怖い。でも、彼をこのまま放っておくのは、もっと嫌なの。私の熱が、彼の声を温められるなら……!)
「私は……消えたりしない。この色も、熱も、私だけのものだから」
アリスは泣き出しそうな顔のまま、震える掌を、目の前の銀色の海へと力一杯叩きつけた。
それは反撃というより、溺れそうになった少女が、必死に掴んだ祈りのような仕草だった。
瞬間、黄金色の火花が散り、無機質な銀の液体が、アリスの意志に呼応するように激しく波打った。
ジュッ、と水が蒸発するような音がして、冷たい銀はアリスの体温を吸い込み、淡い、今にも消えそうな桃色へと染まっていく。
アリスの掌から伝わる熱が、不気味な食卓を、少しずつ、けれど確かに塗り替えていった。
その熱に触れた水晶の歯車が、ひび割れ、歌うような音を立てて砕け散る。
男は驚愕にネジをいくつも落としながら叫んだ。
「ああ、静寂が! 我らの完璧な沈黙が、君の不潔な体温に汚されていく!」
だがアリスはもう、その言葉に怯えてはいなかった。
彼女の涙は熱を持ち、桃色の海へと滴り落ちて、さらに鮮やかな波紋を広げていく。
少年の耳から漏れていた銀色の滴が止まり、彼の瞳に、ほんの少しだけ、空の紫ではない別の色が差し込んだ。




