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第二十六話『逆さまの傘と影を折り畳む人々』

 眩い白光が収まったとき、鼓膜を震わせたのは、あの重厚な歯車の軋みでも、案内人ティックの嘲笑でもなかった。


「アリス? 何をしているの。もう時間よ、早く降りてきなさい」


 階下から響く、母の声。

 それはいつも通り、まるで精密な定規で一本の真っ直ぐな線を引いたように完璧に整えられた、穏やかで平坦な響きだった。

 世界で一番安心できるはずのその音が、今は、冷たい銀の針を一本ずつ、丁寧に、けれど容赦なく耳の奥へ差し込まれるような痛みを持って届いた。


 アリスはゆっくりと、泥の中から這い上がるような重さで上体を起こした。

 そこは、見慣れた自分の部屋だった。

 淡いパステルカラーの壁紙には一点の汚れもなく、棚にはお気に入りのぬいぐるみたちが、お互いの距離をミリ単位で正確に測り合うようにして、行儀よく並んでいる。

 窓際にある机の上には、削りカス一つない色鉛筆と、真っ白なままのノート。

 クローゼットの扉には、昨日まで彼女が疑いもなく袖を通していた、シワひとつないレースのワンピースが、まるで魂の抜けた彼女自身の抜け殻のように吊るされていた。


 掌を、そっと握り締めてみる。

 部屋の空気は、迷宮のあの湿り気を帯びた重苦しさに比べれば、驚くほど軽くて、頼りない。

 けれど、右の掌には、あの砕いたはずの砂時計の代わりに、微かな『黄金色の火傷の痕』が残っていた。

 それは、彼女にしか聞こえない小さな鼓動のように、トク、トク、と皮膚の裏側で、静かな熱を刻み続けている。

 あの場所で見た光は、夢ではなかったのだ。


 アリスは、恐る恐る窓の外を覗いた。

 カーテンの隙間から見えた空は、かつての澄んだ青を失い、磨り潰した葡萄の皮をぶちまけたような、不気味な紫色に濁っていた。

 かつてそこにあったはずの瑞々しい並木道も、近所の子供たちの声も消え、代わりに真鍮で作られた巨大な『逆さまの傘』たちが、狂いもなく等間隔に地面へ突き刺さっている。

 その傘の骨の隙間からは、絶え間なく銀色の霧が滴り落ち、世界を音のない忘却へと沈めていた。


 迷宮は終わったのではなかった。

 アリスが、自分自身の名前を受け入れ、目覚めてしまったことに呼応するように、現実という名の薄い皮が剥がれ落ち、その下にある冷徹な骨組みが露わになり始めていたのだ。


 階段を降りる足取りは、いつにも増して重かった。

 一段踏みしめるごとに、家全体が深い溜息をつくような微かな振動が伝わってくる。


 ダイニングへ辿り着くと、そこには真っ白なレースのクロスを整え、完璧な姿勢で椅子に座る母の姿があった。

 テーブルの上には、焼きたてのトーストと、細く湯気の立つ紅茶。

 一見すれば、それは絵に描いたような幸せな朝の光景。

 けれど、そこには耐え難いほどの『静寂』が満ちていた。


 母がティーポットを傾ける。

 磁器の注ぎ口から液体が落ちる『トトト……』という音が、まるで巨大な滝の轟音のようにアリスの耳を叩いた。

 カップにスプーンが触れる『カチリ』という硬質な音が、鼓膜に鋭い傷をつける。

 そして、壁の振り子時計。


『チ、ク、タ、ク』


 その音はもはや時間を刻むためのものではなく、アリスの心臓を、この完璧に管理された部屋のテンポに無理やり合わせようとする、重い槌音のようだった。


「おはよう、アリス。今日は大切な日よ。昨日までよりもずっと、素敵なあなたにならなくてはね」


 母は微笑んでいたが、その瞳の中に映るアリスは、ただの『娘という名の器』に過ぎなかった。


 アリスの脳裏に、不意に古い記憶が蘇る。

 幼い頃、雨の日に母と手を繋いで歩いた記憶。

 母が笑い、アリスが笑い、世界は色彩に満ちていたはずだった。

 けれど今、その記憶を掌の熱で透かしてみると、恐ろしい事実が見えてしまう。

 あの時、母が笑ったのは、アリスが母の望む通りのタイミングで歩調を合わせたからだ。

 あの時、世界が美しかったのは、アリスが自分の色をすべて消して、母の用意したキャンバスの一部に成り切っていたからだ。

 幸せだったはずの記憶は、すべて『適切な管理』という名の糊で貼り付けられた、脆い切り絵に過ぎなかった。


「さあ、アリス。こちらへ来なさい。これを着けてあげるわ」


 母が優雅な動作で宝石箱から取り出したのは、血のように鮮やかな赤色のリボンだった。


「あなたが『お母さんの自慢の娘』でいるための、一番大切な飾りよ。これがあれば、あなたは誰からも愛される、完璧なお人形でいられるわ。迷うことも、間違えることも、もうなくなるの」


 アリスの心の中で、凄まじい葛藤が渦巻いた。

 このリボンを受け入れれば、あの恐ろしい迷宮に戻る必要はない。

 再び、何も考えず、誰かの決めた『正解』だけをなぞって生きていける。

 それはどれほど甘やかで、楽な誘惑だろうか。

 掌の『名前の熱』は重い。

 それは自由の重みであり、孤独の熱さだった。


(この熱さえ消してしまえば、また『いい子』の温かい毛布にくるまっていられるのに……)


 母の手が、ゆっくりと、蜘蛛の足のように近づいてくる。

 その指先の動きは、まるでお人形の背中のネジを巻く機械のように正確で、血の通わない冷たさを湛えていた。

 アリスは、思わず、椅子を引きずる大きな音を立てて、後ろへ飛び退いた。


「待って。お母さん、待って」


 母の微笑みが、磁器の仮面が割れるようにぴたりと止まった。


「待って? なあに、アリス。お母さんの言うことが、聞けないのかしら?」


「私、そのリボンは……その…今日は、着けられない。それを着けると、私、また誰かが決めた檻の中に閉じ込められちゃう気がして…。もっと自分の言葉で、お話ししたい。お母さんにも、私の本当の声を聴いてほしいの」


 アリスの声は細く、震えていた。

 本当は、今すぐにでも膝を突いて謝り、『お母さんの望まれる通りの色になります』と言ってしまえば、どんなに楽だろう。

 けれど、掌の火傷が、じりじりと焼けるような熱を帯びて、彼女をこの場所へ繋ぎ止めていた。


「アリス、何を言っているの? あなたは私の言う通りにしていればいいの。それが、あなたのためなのよ。さあ、じっとして……いい子に戻るのよ」


 母の瞳から、わずかに残っていた感情の色さえも剥がれ落ちた。

 伸ばされた指先は、肉の質感を失い、鋭利な銀色のピンセットのように硬質に変貌していく。

 家全体が、巨大なネジを無理やり巻き上げるような重苦しい地鳴りを立てて軋み出し、壁の風景画からは、どろりとした黒い油が涙のように流れ出した。


「嫌……嫌だよ、お母さん!」


 泣きながら叫んだ瞬間、アリスの右掌が眩い光を放った。

 黄金色の波が部屋中に広がり、母が握りしめていた赤いリボンを包み込む。

 目に見えない力に弾かれ、リボンは空中で引きちぎられて、二つの無惨な布切れへと変わった。


「ああ、アリス……。なんて、なんて悲しい子……」


 母の姿は、ノイズの混じった映像のように激しく揺らぎ、紫色の霧へと溶けていった。

 アリスは、ちぎれたリボンの破片を震える手で握りしめたまま、歪んでしまった家の扉を力任せに押し開けた。


 外には、もはや彼女の知る街は存在していなかった。

 紫色に沈む空、歩道には等間隔に突き刺さった真鍮の『逆さまの傘』。

 そして、道を行く人々。

 彼らは皆、自分自身の足元に伸びる影を、まるで不潔なゴミでも扱うかのように丁寧な手つきで折り畳み、それを灰色の鞄の中へしまい込んでいた。

 誰も隣を見ない。

 誰も空を見上げない。

 ただ、胸元に吊るされた懐中時計の刻むリズムだけを、絶対の神託であるかのように信じて歩み続けている。


 アリスは溢れる涙を袖で拭い、その不気味な列の間を縫うようにして、最初の一歩を踏み出した。

 掌の熱は、まだ消えていない。

 それは、彼女が『自分自身の時間』を歩き始めた、痛々しくも誇り高い証明だった。


「行かなきゃ。私を、捕まえに来る前に」


 彼女の足元で、あの『幼い自分の影』が、そっと寄り添うように揺れていた。

 それは、自分を救った一人の少女が、変貌した現実という名の迷宮へ踏み出す、孤独で、けれど確かな自律への一歩だった。



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