第二十五話『記憶の統合と祝福の指先』
時計屋の崩壊。
砂時計の粉砕。
それら激しい音の奔流の後に訪れたのは、耳が痛くなるほどの完全な『無音』だった。
アリスが辿り着いたその場所は、迷宮の湿った空気も、現実の雨の匂いも届かない、空白の果て。
床も壁も天井もない。
真っ白な紙が無限に降り積もったような、底の知れない静謐が広がっている。
空中に浮かんでいた無数の文字たちは、この空間に足を踏み入れた瞬間に一斉に静止し、灰のような静かな光を放っていた。
その広大な白の境界線の中心に、見覚えのある古びた木製のデスクが置かれていた。
そこには、背を向けて座る一人の女性がいる。
彼女の手元では、一本の羽ペンがさらさらと紙を走り、迷宮の残響を、一編の詩へと書き換える音だけが響いていた。
アリスは、自分の足元の『影』が、その人物に向かって、帰巣本能のように惹きつけられるのを感じた。
職人の工房に現れ、職人と共に自分を見守っていた、あの『詩を紡ぐ者』。
声は、工房で聞いた時と同じように柔らかく、けれどアリスの胸の奥で鳴り響く鼓動と全く同じ波長を持っていた。
アリスは、震える足で一歩、踏み出す。
その問いに対し、女性はペンを置いた。
カタン、という小さな音が、白紙の聖域に鋭く反響する。
女性がゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、はじめて出会った銀髪の女性――ではなく、アリスよりも少しだけ大人びた、けれど見紛うはずもない自分自身の姿だった。
アリスは息を呑み、言葉を失った。
『詩を紡ぐ者』として接していた彼女の姿は、アリスの成長段階に合わせて見えていた『可能性の姿』だったのだ。
この純白の聖域で、余計な装飾を剥ぎ取られた今、目の前にいるのは紛れもない『未来の自分』だった。
彼女の瞳には、迷宮のすべての夜を飲み込んだような深い憂いと、それを越えた先の透徹した光が宿っていた。
彼女のデスクの上には、これまでアリスが経験してきたすべてが記された原稿が積み重なっていた。
彼女が境界の草地で綴っていた手帳の、その続き。
詩を紡ぐ者は立ち上がり、アリスの目の前まで歩み寄った。
その手には、彼女が抱いていた、砂の落ちきった砂時計があった。
二人の距離が縮まるにつれ、アリスの中に、膨大な記憶の濁流が流れ込んでくる。
この迷宮は、母の期待に応えられず壊れそうになったアリスが、自らを守るために編み上げた『避難所』だった。
そして、この『未来の自分』は、迷宮の中でアリスが砕け散らないよう、その破片を一つひとつ詩として繋ぎ止め、彼女が『自分自身の名前』を思い出せる日まで、時間を守り続けていたのだ。
白紙の空間に、黄金色の文字が浮かび上がる。
詩を紡ぐ者の身体が、微かに透き通り始めた。
アリスは、自分の掌を見つめた。
砕いた砂時計の熱は、今は彼女の血の中に溶け込み、確かな体温となっていた。
アリスは、詩を紡ぐ者の瞳をまっすぐに見つめ返した。
もはや、迷宮は怖くない。
ここには、自分自身が自分を愛し、見守ってきた証があるから。
その言葉を聞いた瞬間、詩を紡ぐ者は、初めて少女のような無垢な微笑みを浮かべた。
それは、初めて出会ったときよりも、ずっとずっと深く、優しい表情だった。
彼女の手が、アリスの頬に触れる。
その指先から、迷宮のすべての記憶と、未来への祝福が流れ込んでくる。
白紙の世界が、眩い光に包まれて崩壊を始めた。
光が爆発し、すべてが白に染まる。
耳に残るのは、さらさらという羽ペンの音ではない。
現実の石畳を、自分の意志で踏みしめる、力強い一歩の音だった。




