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第二十四話『未来の自分と羽ペンの走る聖域』

 時計屋の内部は、もはや空間の体を成していなかった。

 床も壁も、無数の歯車が噛み合い、軋み、唸りを上げる巨大な内臓のような様相を呈している。

 職人の注ぐ『砂のお茶』から立ち昇る湯気は、アリスの記憶の匂いを不気味に混ぜ合わせて漂わせていた。


「さあ、選ぶんだよ、アリス」


 職人の声は、冷徹な針のようにアリスを刺す。


「名前という重荷を捨てて『母の愛した空っぽの人形』として、地獄のように穏やかな日常へ帰るか。それとも、その名前を私のこの街に捧げ、永遠に摩耗しない歯車の一つとして生き続けるか。……どちらを選んでも、君はもう以前の君ではないがね」


 アリスは足元の影を見つめた。

 影は職人の言葉に同調するように激しく震え、アリスの足首を締め付ける。

 肩から離れたティックは、職人の指先で羽を休め、無機質な黄金色の瞳をアリスに向けていた。


「残念だよ、アリス。君なら、もっと美味しくなれると思ったんだけどな。自由の味はどうだい? 苦くて、喉が焼けるだろう?」


 アリスの心臓は、逃げ場のない恐怖に早鐘を打っていた。

 職人の言う通りだった。

 名前を知るということは、自分の足で立つ責任を知るということだ。

 誰のせいにすることもできない。

 間違えれば、その傷はすべて自分の魂に刻まれる。


(……お母さんの言う通りにしていれば、こんな痛みは知らずに済んだのに)


 一瞬、脳裏を掠めた甘い後悔。

 しかし、その時、彼女の胸の奥で一つの『光』が爆ぜた。


 それは、先ほど交差点で出会った『あの少年』の言葉だった。


『君の時間は、君だけのものだから』


 あの時、少年が差し出してくれた手の熱。

 赤信号を共に渡ったあの瞬間。

 あれは、職人が用意した『迷宮の試練』などではなかった。

 少年の瞳の中に宿っていたのは、アリスを支配しようとする悪意ではなく、彼女が自ら歩むことを願う、もっとずっと大きな、祈りのような眼差しだった。


(……あの少年は、私を知っていた。私が私になるのを、ずっと、この街の片隅で待っていてくれたんだろうか)


 アリスは顔を上げた。

 その瞳には、職人の支配を越えた、さらに遠い場所を見据えるような静かな火が灯っていた。


「私は、どちらも選ばない」


 震える声。

 けれど、一歩も引かない意志。


「名前は、誰かに捧げるために取り戻したんじゃない。誰かの期待に応えられなくなった私を、私だけは絶対に見捨てないために……。それに、私はもう一人じゃないもの」


「ほう?」


 職人の眉が動いた。

 時計の秒針たちが一斉に、その音を大きくする。


「私を信じてくれた人がいた。あの少年は……私に、私の時間をくれた。だから、あなたの用意した『正解』なんて、私には必要ない!」


 アリスは、砂時計を高く掲げた。

 星屑のような砂が、絶え間なく流動している。

 アリスは、この砂時計を壊すことが何を意味するかを、本能的に理解していた。

 それはシステムへの反逆であり、この『章』の強制的な終了だ。


「私は……この名前と一緒に、私の『新しい現実』を書き換える!」


 アリスはありったけの力を込め、砂時計を床に叩きつけた。


 パリン、という、世界の理が砕けるような、清冽な音が響いた。

 砕け散ったガラスの破片から、閉じ込められていた『濃縮された時間』が溢れ出し、光の濁流となって店内を飲み込んでいく。


「何をする!」


 職人が初めて声を荒らげた。


 だが、光はアリスを包み込むのではなく、『時計屋の壁』を内側から剥ぎ取っていった。

 剥がれ落ちた壁の向こう側に見えたのは、漆黒の虚無でも、恐ろしい地獄でもなかった。

 そこには、延々と続く、無数の『文字』が空中に浮かぶ、銀河のような回廊があった。


「……これは……何……?」


 光の渦の中で、アリスの前に再び『あの少年』が姿を現した。

 彼はもはや制服姿ではなく、透き通るような光の衣を纏っていた。


「驚かせてごめんね、アリス。僕は、君がここへ辿り着くための、ひとときの声だったんだ」


 少年が優しく手を差し出すと、足元の影がアリスの身体へと吸い込まれ、一つに溶け合っていく。


「あの人は……『詩を紡ぐ者』は、ずっと君を待っているよ。この迷宮も、ティックも、あの職人も。すべては君が君自身に会いに行くための、長い物語の一節に過ぎなかったんだ」


 ティックは職人の指から離れ、少年の肩へと飛び移り、今度は親愛を込めて喉を鳴らした。


「あはは……!さすがだよ、アリス。君はシステムを壊して、本当の『書き手』に会いに行く権利を手に入れたんだ!」


 職人の店が完全に崩落し、アリスは文字の回廊へと吸い込まれていく。

 そこに刻まれているのは、アリスがこれまで歩んできた道のりの詩。

 そして、その詩を今まさに紡いでいるのは――。


「……待って。私は、誰に会おうとしているの?」


 少年の姿が光の中に消え際、彼は一言だけ、アリスに教えた。


「君がこれから会うのは、未来の君だ。……君が流したすべての涙を、(いのち)に変えて守り続けてきた、もう一人のアリスだよ」


 アリスは、自分の名前──アリス──を構成する文字が、自分を優しく抱擁するのを感じた。

 砕けた砂時計から漏れた光は、今やアリスを導く確かな灯火となっていた。

 空間を流れる文字たちは、一文字ずつがアリスの呼吸と同期し、彼女のこれまでの苦しみや迷いを、美しい韻律へと書き換えていく。


「お母さん……お母さんを、悲しませたくなかった」


 溢れた言葉。

 けれど、それはもう彼女を縛る呪文ではなかった。




 暗転。




 耳に残るのは、規則正しい時計の音ではない。

 羽ペンが紙を走るような、さらさらという、慈しみに満ちた音。

 アリスが目を開けると、そこは出口でも日常でもなかった。

 迷宮のすべての現象を言葉に変えて編み上げる、『詩を紡ぐ者』の聖域。


 そこは、真っ白な紙が降り積もったような静謐(せいひつ)な空間だった。

 中央には古びたデスクがあり、背を向けて座る一人の影が見える。

 アリスの本当の旅は、ここから、過去の自分と未来の自分を結びつける、真実の対話へと移り変わっていく。


 アリスはゆっくりと、その背中に向けて、震える声で呼びかけた。


「……あなたも……(アリス)、なの?」


 背を向けていたその人物が、静かに羽ペンを置いた。



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