表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/34

第二十三話『完熟した果実と赤信号の選択』

 雨上がりの街角は、静かだった。

 だがその静寂は、以前のそれとは決定的に違っていた。

 水たまりに映る空は、網膜を刺すほどに深く濃い。

 青の奥に潜む灰色の雲が、生き物のようにゆらりと揺れている。


 雨で洗われた街灯の光が、濡れた石畳に乱反射しては、視界の端で光の波となって押し寄せる。

 湿ったアスファルトの匂いが執拗に鼻腔をくすぐり、軒先から落ちる滴の音が、耳の奥で鐘の音のように跳ねた。


 アリスは、自分の五感が恐ろしいほどに研ぎ澄まされているのを感じていた。

 記憶の街で砂時計を傾け、世界を「濃く」した代償。

 車のタイヤが水を蹴る音は、地響きのように重い。

 人の足音は、砂時計の砂が落ちるように一歩ずつ、時間の断片としてアリスの心臓に降り積もる。


「……世界が、鳴ってる」


 つぶやきは雨上がりの空気に溶け、湿った風に乗って流れていく。

 砂時計を握りしめる掌に、冷たいガラスの感触が伝わる。

 砂の粒が一つ落ちるたびに、胸の奥で小さな焦燥が爆ぜる。

 幼い自分の影が、足元で不自然に揺れ、囁いた。


「選ぶことは、痛いよ」


 道の向こうに、見慣れた交差点が現れた。

 信号は、赤。


 街は静止していた。

 歩行者はまばらで、街灯に照らされた水たまりだけが、アリスの決意を試すように揺れている。

 止まるべきか、進むべきか。

 これまでの『いい子』のアリスなら、迷わず止まっただろう。

 誰かに決められたルールに従うことは、何よりも安全だったから。


 だが、頭の中で無数の「もし」が狂った歯車のように回り出す。

『もし転んだら』『もし誰かに迷惑をかけたら』――。

 その恐怖の裏側で、手の中の砂時計が、残酷な秒針を刻み続けている。


 ふと見ると、信号の横に、見慣れない小さな看板が立っていた。

 そこには、ただ一言、**『選択』**とだけ書かれている。


 看板の下には二つの矢印。

 左は『そのまま待つ』。

 右は『横断する』。


「横断するのは、いけないこと……」


 アリスが自分に言い聞かせるように呟いたとき、肩の上で影が笑った。

 それはティックの声だった。

 彼はいつの間にか、アリスが迷宮から持ち出した『影』と一体化するように、闇の中から黄金色の瞳を光らせていた。


「どうだい、アリス。名前(じゆう)を手に入れた気分は。お母さんの言う通りに待っていれば楽なのに、今は君自身が、この『赤』をどう定義するか決めなきゃあならない。……砂は、もう半分も残っていないよ」


「自分で、決めるしかないよね」


 アリスは右の矢印を見つめ、一歩を踏み出した。

 赤信号のまま、禁じられた領域へと足を出す。

 その瞬間、世界の解像度がさらに跳ね上がった。

 髪が雨に濡れて額に張り付く冷たさ、石畳の冷気が膝まで伝わる感触。


「止まれ!」


 背後から鋭い声が届いた。

 振り返ると、そこには制服姿の少年が立っていた。

 彼は必死な形相で駆け寄り、アリスの腕を掴んだ。


「信号が赤だよ、待って! 危ないじゃないか!」


 アリスは少年の瞳をじっと見つめた。

 その瞳の中に、かつての自分と同じ『ルールに縛られた恐怖』と『困惑』を見つける。

 胸の奥に、鋭い痛みが走る。


「私の時間は、もう動いているの」


 アリスは砂時計を彼に見せた。


「でも、外の時間は止まっている。……迷っている時間はないの。だから、私は進むんだ」


 少年は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

 だが、アリスの持つ砂時計の光――星屑のような砂が流れる様を見て、彼はふっと憑き物が落ちたように微笑んだ。


「……君は、進んでいるんだね。世界の色や音がこんなに濃く、痛いくらいに感じられるのは、そのせいか」


 信号は、依然として赤のままだ。

 だが、アリスの胸の中から 『流される自分』が完全に消えた。

 彼女は少年の手を、逆に握り返した。


「一緒に渡ってくれる?」


「君がそう言うなら」


 二人は赤信号のまま、横断歩道を歩き出した。

 濡れた石を蹴る音、冷たい空気の膜。

 二人が中央を通り過ぎた瞬間、背後でカチリと巨大な歯車が回る音がした。

 信号が、青に変わる。


「君が選んだから、色が変わったんだよ」


 少年は手を離し、雨上がりの闇の中に溶け込むように去っていった。


「じゃあ、僕はここで。君の時間は、もう君だけのものだから」


 少年が去った後、アリスは導かれるように、あの時計屋の扉の前に立っていた。

 扉の隙間から漏れる金色の光は、今や現実の街灯よりも鋭く、彼女を招き入れている。


 アリスが扉を開けると、そこは以前のような雑多な店ではなかった。

 無数の時計が、アリスの心臓と全く同じリズムで、狂ったようにチクタクと音を立てている。

 店の奥では、あの時計職人が、砂を茶器に注ぎながら優雅に待っていた。


「お帰り、アリス。自分で選んだ『赤信号』の味はどうだい?」


 職人はアリスを一瞥もせず、低く笑った。

 アリスは砂時計を握りしめ、凛として告げる。


「私は、影を連れて戻ってきた。もう、あなたの言いなりの私じゃない」


「ああ、素晴らしい。影を連れた君こそ、わしが待ち望んでいた『完熟した果実』だ」


 職人はゆっくりと顔を上げ、底知れない瞳でアリスを射抜いた。


「アリス、君は勘違いしている。名前を取り戻すことがゴールだと思っていたのかい?」


 アリスの背筋に、冷たい汗が流れる。

 職人はアリスの掌にある『光る砂時計』を指差した。


「名前を持つということは、『自分以外の誰にも責任を転嫁できなくなる』ということだ。お母さんのせいにできた頃は楽だったろう?だが今は違う。この先のすべての絶望は、君が君であるせいで起こる。……そしてティック。君も、十分味わっただろう?」


 アリスの影から、ティックがひらりと離れ、職人の指先に止まった。


「ふふ。ごめんね、アリス。僕は言ったはずだよ。未練の残り香は、最高に美味しいって」


 ティックは、アリスを導く案内人などではなかった。

 彼女が葛藤し、成長し、苦悩するほどに、その魂を職人好みの『味』に仕上げるための、調味料に過ぎなかったのだ。


「さあ、アリス。君の名前を、この街の『歯車』として捧げるか。それとも、その重すぎる名前を抱えて、お母さんの待つ地獄のような『日常』へ帰るか」


 職人が店の奥の巨大な振り子を指し示す。


「選ばせてあげよう。君の『名前』の賞味期限が切れる前にね」


 アリスは、絶望の淵で砂時計を強く握りしめた。

 未来はまだ、血を流すような赤色のまま、彼女の前に広がっていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ