第二十三話『完熟した果実と赤信号の選択』
雨上がりの街角は、静かだった。
だがその静寂は、以前のそれとは決定的に違っていた。
水たまりに映る空は、網膜を刺すほどに深く濃い。
青の奥に潜む灰色の雲が、生き物のようにゆらりと揺れている。
雨で洗われた街灯の光が、濡れた石畳に乱反射しては、視界の端で光の波となって押し寄せる。
湿ったアスファルトの匂いが執拗に鼻腔をくすぐり、軒先から落ちる滴の音が、耳の奥で鐘の音のように跳ねた。
アリスは、自分の五感が恐ろしいほどに研ぎ澄まされているのを感じていた。
記憶の街で砂時計を傾け、世界を「濃く」した代償。
車のタイヤが水を蹴る音は、地響きのように重い。
人の足音は、砂時計の砂が落ちるように一歩ずつ、時間の断片としてアリスの心臓に降り積もる。
「……世界が、鳴ってる」
つぶやきは雨上がりの空気に溶け、湿った風に乗って流れていく。
砂時計を握りしめる掌に、冷たいガラスの感触が伝わる。
砂の粒が一つ落ちるたびに、胸の奥で小さな焦燥が爆ぜる。
幼い自分の影が、足元で不自然に揺れ、囁いた。
「選ぶことは、痛いよ」
道の向こうに、見慣れた交差点が現れた。
信号は、赤。
街は静止していた。
歩行者はまばらで、街灯に照らされた水たまりだけが、アリスの決意を試すように揺れている。
止まるべきか、進むべきか。
これまでの『いい子』のアリスなら、迷わず止まっただろう。
誰かに決められたルールに従うことは、何よりも安全だったから。
だが、頭の中で無数の「もし」が狂った歯車のように回り出す。
『もし転んだら』『もし誰かに迷惑をかけたら』――。
その恐怖の裏側で、手の中の砂時計が、残酷な秒針を刻み続けている。
ふと見ると、信号の横に、見慣れない小さな看板が立っていた。
そこには、ただ一言、**『選択』**とだけ書かれている。
看板の下には二つの矢印。
左は『そのまま待つ』。
右は『横断する』。
「横断するのは、いけないこと……」
アリスが自分に言い聞かせるように呟いたとき、肩の上で影が笑った。
それはティックの声だった。
彼はいつの間にか、アリスが迷宮から持ち出した『影』と一体化するように、闇の中から黄金色の瞳を光らせていた。
「どうだい、アリス。名前を手に入れた気分は。お母さんの言う通りに待っていれば楽なのに、今は君自身が、この『赤』をどう定義するか決めなきゃあならない。……砂は、もう半分も残っていないよ」
「自分で、決めるしかないよね」
アリスは右の矢印を見つめ、一歩を踏み出した。
赤信号のまま、禁じられた領域へと足を出す。
その瞬間、世界の解像度がさらに跳ね上がった。
髪が雨に濡れて額に張り付く冷たさ、石畳の冷気が膝まで伝わる感触。
「止まれ!」
背後から鋭い声が届いた。
振り返ると、そこには制服姿の少年が立っていた。
彼は必死な形相で駆け寄り、アリスの腕を掴んだ。
「信号が赤だよ、待って! 危ないじゃないか!」
アリスは少年の瞳をじっと見つめた。
その瞳の中に、かつての自分と同じ『ルールに縛られた恐怖』と『困惑』を見つける。
胸の奥に、鋭い痛みが走る。
「私の時間は、もう動いているの」
アリスは砂時計を彼に見せた。
「でも、外の時間は止まっている。……迷っている時間はないの。だから、私は進むんだ」
少年は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
だが、アリスの持つ砂時計の光――星屑のような砂が流れる様を見て、彼はふっと憑き物が落ちたように微笑んだ。
「……君は、進んでいるんだね。世界の色や音がこんなに濃く、痛いくらいに感じられるのは、そのせいか」
信号は、依然として赤のままだ。
だが、アリスの胸の中から 『流される自分』が完全に消えた。
彼女は少年の手を、逆に握り返した。
「一緒に渡ってくれる?」
「君がそう言うなら」
二人は赤信号のまま、横断歩道を歩き出した。
濡れた石を蹴る音、冷たい空気の膜。
二人が中央を通り過ぎた瞬間、背後でカチリと巨大な歯車が回る音がした。
信号が、青に変わる。
「君が選んだから、色が変わったんだよ」
少年は手を離し、雨上がりの闇の中に溶け込むように去っていった。
「じゃあ、僕はここで。君の時間は、もう君だけのものだから」
少年が去った後、アリスは導かれるように、あの時計屋の扉の前に立っていた。
扉の隙間から漏れる金色の光は、今や現実の街灯よりも鋭く、彼女を招き入れている。
アリスが扉を開けると、そこは以前のような雑多な店ではなかった。
無数の時計が、アリスの心臓と全く同じリズムで、狂ったようにチクタクと音を立てている。
店の奥では、あの時計職人が、砂を茶器に注ぎながら優雅に待っていた。
「お帰り、アリス。自分で選んだ『赤信号』の味はどうだい?」
職人はアリスを一瞥もせず、低く笑った。
アリスは砂時計を握りしめ、凛として告げる。
「私は、影を連れて戻ってきた。もう、あなたの言いなりの私じゃない」
「ああ、素晴らしい。影を連れた君こそ、わしが待ち望んでいた『完熟した果実』だ」
職人はゆっくりと顔を上げ、底知れない瞳でアリスを射抜いた。
「アリス、君は勘違いしている。名前を取り戻すことがゴールだと思っていたのかい?」
アリスの背筋に、冷たい汗が流れる。
職人はアリスの掌にある『光る砂時計』を指差した。
「名前を持つということは、『自分以外の誰にも責任を転嫁できなくなる』ということだ。お母さんのせいにできた頃は楽だったろう?だが今は違う。この先のすべての絶望は、君が君であるせいで起こる。……そしてティック。君も、十分味わっただろう?」
アリスの影から、ティックがひらりと離れ、職人の指先に止まった。
「ふふ。ごめんね、アリス。僕は言ったはずだよ。未練の残り香は、最高に美味しいって」
ティックは、アリスを導く案内人などではなかった。
彼女が葛藤し、成長し、苦悩するほどに、その魂を職人好みの『味』に仕上げるための、調味料に過ぎなかったのだ。
「さあ、アリス。君の名前を、この街の『歯車』として捧げるか。それとも、その重すぎる名前を抱えて、お母さんの待つ地獄のような『日常』へ帰るか」
職人が店の奥の巨大な振り子を指し示す。
「選ばせてあげよう。君の『名前』の賞味期限が切れる前にね」
アリスは、絶望の淵で砂時計を強く握りしめた。
未来はまだ、血を流すような赤色のまま、彼女の前に広がっていた。




