第二十二話『剥き出しの真実と高解像度の現実』
記憶の街の出口は、ひび割れた静寂の中に立ち尽くしていた。
アリスは、砂を使い果たしかけた砂時計を両手で包み、その扉の前で立ち止まる。
扉の向こう側からは、現実の時間が放つ、氷の刃のように冷たく鋭い気配が漏れ聞こえていた。
「……準備はできてるかい、アリス」
肩に乗ったティックが、その名を明確に、甘く、そして重々しく囁いた。
その響きに、アリスの身体が微かに震える。
この世界に踏み入れてから今まで、彼女を縛り付けていたのは『空白』だった。
鏡を見ても自分の顔が思い出せず、誰かに呼ばれても心に響かない。
自分の名前を失うということは、この世界に繋ぎ止めるための杭を失うことと同じだった。
だが、今の彼女は違う。
『いい子という名の檻』を拒絶し、『切り捨ててきた自分の影』を抱きしめた。
痛みを引き受けると決めたとき、その空白は、彼女自身の意志という熱で満たされ始めていた。
「アリス……。それが、私の名前」
彼女が自らその名を認め、唇に乗せた瞬間だった。
脳裏で、何万もの時計の歯車が一斉に噛み合うような、凄まじい轟音が響いた。
それは母の声ではなく、誰かの命令でもない。
彼女の肉体の奥底、魂の芯から溢れ出した、自分を定義するための産声だった。
その音節が発せられた瞬間、手の中の砂時計が、脈動するような熱を帯びた。
名前こそが、この迷宮という幻想から現実へと、自分という存在を書き出すための、唯一の『鍵』だったのだ。
アリスは重い扉に手をかけた。
それは物理的な鉄の重さではなく、彼女がこれまでの人生で放棄してきた、あらゆる選択の責任が凝縮された重みだった。
「行こう、ティック。私は、私の名前を連れて帰る」
扉を押し開けた瞬間、空間が爆裂するように歪んだ。
視界の端で、記憶の街の湿り気が指の間からさらさらと砂のようにこぼれ落ちていく。
視界が真っ白な光に塗り潰された。
目を開けた瞬間、アリスは激しい目まいに襲われた。
肺に流れ込む空気が、あまりにも鋭く、あまりにも『生々しい』。
そこは、確かにあの雨上がりの街角だった。
だが、アリスの口から漏れたのは安堵の声ではなく、戦慄を伴った吐息だった。
「……何、これ。ここは、私の知っている街じゃない」
色が、狂おしいほどに濃かった。
建物のレンガは一つひとつが赤黒い血のような質感を持ち、街灯の黄金色は眼球を焼くほどに鋭い。
空の青は、もはや美しいなどという形容を超えて、宇宙の深淵を覗き込むような恐怖を孕んでいる。
水たまりは鏡のような精度で世界を反射し、石畳の割れ目、苔の緑、錆びた鉄格子の手触り――それらすべてが、アリスの五感に暴力的なまでの『解像度』で襲いかかってきた。
彼女が砂時計で『記憶の街』を濃くしてしまったせいで、彼女が戻ってきた現実世界までもがその影響を受け、平穏なヴェールを剥ぎ取られた『剥き出しの真実』へと変貌していた。
「戻ったんじゃない。君が、現実を『定義』し直したのさ」
ティックが愉しげに、そしてどこか残酷な慈しみを持って跳ねる。
アリスは足元の水たまりを見下ろし、思わず後ずさった。
水面には、泥に汚れ、雨に濡れながらも、かつてないほど鮮明な輪郭を持った自分の顔が映っている。
だが、その背後に――。
彼女の動きに合わせず、独自の意志を持って揺れる、墨を流したような『影』がいた。
それは、彼女が迷宮で受け入れた、あの『選ばなかった自分』の受肉だった。
輪郭はわずかに歪み、周囲の光を吸い込むようにして、アリスの足元に根を張っている。
「影が……消えない。私は、一人で戻ってきたわけじゃないんだ」
『いいのよ。私を忘れないって、あなたが選んだんだから。これからはずっと、一緒よ』
胸の奥から響く、幼い自分の声。
それは甘い囁きであり、一生解けない呪いでもあった。
アリスの瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
その涙が水たまりに落ちた瞬間、波紋となって広がり、水面に映る『自分』と『影』を激しく揺らした。
ティックがアリスの肩でくるりと回り、小さな鐘のような音を立てた。
「君の『新しい友達』からの贈り物だ。これを持っていなよ」
足元の影が、まるで生き物のように蠢き、アリスの掌に一つの小さな砂時計を落とした。
記憶の街で手にしていたものと同じ形。
だが、中の砂粒は、星屑のような淡い光を帯びて絶え間なく流動している。
アリスはその冷たい感触を拾い上げた。
砂が落ちる音が耳の奥で、自身の鼓動と完全に同調する。
一粒落ちるたびに、自分が『ただ流されるだけの少女』から、一分一秒を自らの意志で刻む『アリスという個』へと変貌していくのを感じた。
「私は……本当に、アリスとして、ここに戻ってきた」
その確信を得た瞬間、遠く、街の中心にある時計塔の音が、深く重く、大気を震わせるように響いた。
チクタク、カチカチ。
かつては聞き流していたその音が、今はアリスの心臓を直接叩くように聞こえる。
アリスはゆっくりと振り返った。
そこには、あのすべての始まりである『時計屋』の古い扉がある。
店の隙間からは、あの不気味で魅惑的な金色の光が、今もなお彼女を試すように漏れ出していた。
「お母さんの選んだ私には、もう戻れない」
アリスは光る砂時計を、壊れ物を抱くような、それでいて離さない決意を込めて強く握りしめた。
母の言う通りにするだけで、波風を立てずに過ごせたあの頃は、もう遠い霧の向こうだ。
その代わりに、彼女は一生消えない『影』を背負い、剥き出しの現実を歩く強さを手に入れた。
これが、自らの名前を奪い返した代償。
「行くよ、ティック。あの時計職人に、まだ言っていない言葉があるの」
アリスは一歩を踏み出した。
足元の石畳はもはや幻想ではなく、彼女の体重を支え、逃げ場を許さない確かな感触を持ってそこにあった。
影を連れ、星の砂を抱き、アリスは現実という名の、より深淵なる迷宮へと歩き出した。
彼女の背中を見つめるティックの瞳には、かつてないほどの飢えと、期待が混じった光が宿っていた。
「いいよ、アリス。君の本当の物語は、まだ始まったばかりだ。時計の針は、もう止まることを許してくれないからね」
雨上がりの街角。
濡れた石畳が光を反射し、水たまりには実体よりも濃い影を引く少女が一人。
彼女はもう、迷わない。




