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第二十一話『アリスという名前の帰還と正転する刻限』

 扉の向こうから、雨音が重く落ちてくる。

 アリスが自ら砂時計を動かしたことで、世界は変容していた。

 雨音は以前よりもずっと鈍く、低く、彼女の肋骨の隙間を震わせるほどに身体の芯まで響く。


 アリスは砂時計を両手で包むように握りしめ、冷たい石畳を歩き出した。

 濡れた石は、彼女が与えた意志の光を反射し、しずくが跳ね返るたびに生々しい音が重なる。

 雨の匂い、湿った土、そしてどこか懐かしい錆びた鉄の匂い。

 街全体が、長い眠りから覚めた獣のように、深く重い呼吸を繰り返している。


 街の輪郭は確かに濃くなった。色彩は肌に触れるほど鮮やかだ。

 だが、色が濃くなるほどに、この世界の『欠け』もまた、残酷なほどはっきりと姿を現した。


 建物の隙間、路地の奥、そして本来そこにあるべきはずの『日常』の断片。

 それらが不自然に抜け落ち、底の見えない黒い空洞となって口を開けている。

 その空洞は固定されず、街の呼吸に合わせて脈動し、入り込む場所を探す捕食者のように広がったり縮んだりしていた。


 アリスは足を止め、肩を抜ける冷たい風に身を震わせた。

 空洞の向こうから、石畳を内側から割り砕くような、低い地鳴りが聞こえる。


「何か……いる」


 自然と息が詰まる。そのとき、背後から影が伸びた。


「そうだよ。君がここを濃くしたから、彼らもまた、影を濃くしたのさ」


 振り返ると、そこにいたのはティックではなかった。


 ――幼い日のアリス。


 淡い青のワンピース。肩までの黒髪。『母の用意したお人形』の姿をした自分だ。

 その輪郭は薄く、体の端が街の空気に溶けかけているが、瞳だけは、鏡のように今のアリスを映し出していた。


 幼いアリスが、一歩、近づく。

 少女がそっとアリスの胸元に手を当てた瞬間、世界が反転した。

 アリスの中に、別の視点が流れ込んでくる。

 それは、記憶の中の『アリス』が、今の自分を見つめている視線。

 責めるでもなく、救いを求めるでもない。

 ただ、そこに置き去りにされた者が持つ、絶対的な虚無の視線。


「これは……私の、記憶なの?」


 アリスは喘ぐように問いかけた。

 幼いアリスは静かに首を横に振る。


『違う。君の記憶そのものじゃない。……君の記憶の中に、君自身が残していった『影』だよ』


 胸がきしむように痛む。

 影。その響きに、アリスの声はかすれた。


「影……?」


『君が選ばなかった、私。君が『いい子』でいるために切り捨てた、本当の願い。君が向き合わなかった、あの日の痛み』


 幼いアリスの言葉が、冷たい雨水のように胸に沈んでいく。


『ねえ。覚えてる? あの時、君は本当は何て言いたかったの?』


 問いかけに対し、アリスは言葉を失う。

 視界の端で、黒い空洞が不気味に揺れる。


『君は私を置いて行った。私という『心』を殺して、お母さんの望む人形になった。……でも、私は君を置いていっていない。ずっと、この空洞の中で待っていたんだよ』


 アリスの目から、堪えきれない涙が溢れ落ちた。


「違う……私は、逃げたくて逃げたわけじゃ……」


『じゃあ、どうして戻ってこなかったの?』


 幼いアリスの瞳が、一瞬だけ鋭く光る。

 それは、これまでアリスが自分自身に問いかけることを禁じていた、最も鋭利な刃だった。


「怖かったの」


 やっとの思いで、本音を吐き出す。


「嫌だと言えば、誰かを傷つけると思った。お母さんに嫌われると思った。……それが、怖かった。でも……」


 アリスは砂時計を握る手に力を込める。


「でも、今はここにいる。怖いままでも、ここに来た』


 幼いアリスは、問い詰めるのをやめ、静かに頷いた。


『そうだね。それでも、君は進んでいる』


 空洞の黒が大きく膨らみ、周囲の街灯を吸い込むように揺れ始めた。

 そのとき、闇の中からティックの低い笑い声が響いた。


「いい光景だね。自分を喰らい尽くすか、それとも自分を抱きしめるか。君の名前を取り戻すっていうのは、そういう凄惨な作業なんだよ。……僕にとっては、最高のご馳走だけどね」


 ティックの姿はどこにもない。

 だが、その『声』は空洞そのものから響いているようだった。

 アリスは直感する。

 ティックという存在は、この迷宮の案内役などではない。

 彼は、アリスのような迷い子が捨て去った『時間』や『心』を糧にする、迷宮そのものの意思、あるいは……。


「……怖くないの?」


 幼いアリスが、アリスの手をそっと握った。


「怖いよ。でも……進まないと。止まったままじゃ、私は私に会えないから」


 アリスが幼い自分の手を握り返した瞬間、空洞の黒が激しく揺らいだ。

 砂時計の砂が落ちる音と、吹き荒れる風の音が混ざり合う。

 空洞が街の中心、あの時計台に向かってゆっくりと動き出し、アリスがこれまで避けてきた『失われた時間』の声が、無数の囁きとなって溢れ出した。


「私、ちゃんと選ぶよ。……この痛みも、あなたも、全部私の一部にする」


 砂時計を思い切り傾ける。

 砂が落ちるたび、街の色彩は狂おしいほど深まり、輪郭は鋭く現れる。

 赤い屋根、灰色の石畳、黄金色の街灯――五感に突き刺さるような生々しい現実が、アリスを貫く。

 空洞は徐々に穏やかになり、彼女の選択と呼応するように静まり返った。

 時計台の針が逆回転をやめ、凍りついていた『アリスの時間』が、ついに音を立てて動き出す。


「私は……あなたを受け入れる」


 アリスの声に、街全体が震え、共鳴した。

 降り続いていた雨が柔らかく消え、空気が軽くなる。

 幼いアリスは、ゆっくりと溶けるように姿を消していった。

 だが、その手の温もりだけは、今のアリスの掌に確かに残っていた。


『忘れないで。私は、君に選ばれなかったわけじゃない。……ずっと、君の中で選ばれるのを待っていたんだよ』


 その声は、もはやノイズに掻き消されることはなかった。

 アリスは砂時計を握りしめ、自分が変えた街の景色を見渡した。

 色彩は肌に染み込み、雨の感触は確かな記憶となった。


「……次は、現実の街に戻る番だよ。お嬢さん……いや、アリス」


 ティックの声が、今度は耳元で囁かれた。

 一瞬だけ、彼の黄金色の瞳が、慈しみと飢えが混ざったような複雑な光を湛えてアリスを見つめていた。


「戻ろう」


 アリスは、街の端にある『出口』の扉を見上げた。

 そこにはまだ、薄暗く不透明な現実世界の影が落ちている。

 けれど、手に残る砂時計の重みと、幼い自分を受け入れた胸の熱さが、彼女に確かな勇気を与えていた。


 一歩、踏み出す。

 足元の石畳はもはや幻想ではなく、彼女の歩みを支える確かな感触を持っていた。

 選択の痛みは消えない。

 けれど、その痛みこそが、彼女が『アリス』という名前を完全に取り戻すための、唯一の地図になるのだ。


 風が肩を撫で、アリスは記憶の街を背に、新たな現実へと歩き出した。



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