第二十話『安全な檻と潔白な衣装の拒絶』
小さな扉を抜けた先、そこはこれまでの湿った通路とは打って変わり、不自然なほど清潔で、明るい空間だった。
あまりの白さに、アリスは思わず立ち止まり、目を細めた。
シャンデリアが放つ冷ややかな光が、鏡のように磨き上げられた床に反射し、空間全体がまるで呼吸を止めた彫像のように静まり返っている。
壁一面に埋め込まれた巨大なガラスのショーケース。
その中に整然と並べられた『品々』を見た瞬間、アリスは喉の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
「あ……これ」
震える指先を、思わず胸元に当てる。
そこに並んでいたのは、彼女がかつて身に纏っていた、記憶の中の断片たちだった。
柔らかなレースが幾重にも重なった、上品なワンピース。
一分の曇りもなく磨かれた、黒いエナメルのストラップシューズ。
持ち手に精巧な細工がなされた、可愛らしい刺繍入りの日傘。
それらはどれも美しく、一点の汚れもなかった。
そして、それらはすべて『母が選んでくれたもの』だった。
アリスはふらふらと、一つのケースの前に歩み寄った。
ピアノの発表会、親戚の集まり、あるいは何でもない日曜日の午後。
『これが一番あなたに似合うわよ』
母のその優しい声を聞くたび、アリスはいつも、少しだけ胸が苦しくなるのを隠して微笑んできた。
本当は、もっと走り回りやすい服が良かった。
もっと深い、海のような色が良かった。
でも、悲しそうな顔をするお母さんを見たくなかった。
自分が我慢して『いい子』でいれば、みんなが幸せでいられたから。
「おやおや。君の好みが勢揃いじゃないか。壮観だね」
ティックの声が、頭上のシャンデリアから降ってきた。
彼は光の粒子を散らしながら、ケースの縁にひらりと降り立った。
「これらは全部、君のために用意されたものだ。さあ、どれでも好きなものを選びなよ。どうせ君は、どれを与えられても『これでいいです』って、控えめに笑うんだろう?
そうやって波風を立てずに、誰かの時間の中に身を任せていれば、傷つかなくて済む。……ここは、君が愛した『安全な檻』そのものなんだよ」
アリスは、ショーケースに映る自分の影を見つめた。
流されて、頷いて、自分を消し続けてきた。
母が差し出してくれた『正解』を拾うたびに、自分の本当の気持ちは、どこか深い海の底へ沈んでいったような気がする。
その結果、今の自分には『名前』さえ思い出せない。
他人の色に染まりすぎた末に、アリスという少女の輪郭は、自分でも見えないほど薄くなってしまった。
『アリス、これがお似合いよ。迷わないで。お母さんの言う通りにしていれば、間違いないんだから』
記憶の中の母の声が、ショーケースのガラスに反響して重なる。
その言葉に従い、自分の意志という名の舵を捨て続けた結果、自分はあの日、何よりも大切なものを見過ごしてしまったのではないか。
誰かが悲しんでいたのに、『仕方ない』と自分を納得させて、ただ黙ってそこに立っていたのではないか。
その小さな、けれど消えない後悔が、今の彼女をこの迷宮に留めている。
「……あ、……ううん」
アリスは、小さく首を振った。
その動作は、自分でも驚くほど頼りなかった。
「おや、何だい?」
ティックが首を傾げ、黄金色の瞳を覗き込ませる。
「……違うの。私……私は、これが欲しかったわけじゃない……と思う」
声は、消え入りそうなほど小さかった。
アリスは、一番大きなケースの中に飾られた、真っ白なレースのドレスを見つめた。
母が一番誇らしげに選んでくれた衣装。
「お母さんは……喜んでくれたけど。でも、私は……これを着ていると、自分がどこにもいないみたいで、ずっと苦しかった。……ごめんなさい、でも。私、もう……こういうのは、いらないの」
「へぇ。じゃあ、どれを選ぶんだい? 別のケースにある靴か? それともあっちの傘か?」
ティックの問いかけは、追い詰めるような鋭さを持っていた。
「どれも、選べない」
アリスはギュッと目を閉じ、絞り出すように言った。
「私……ここにあるもの、全部、欲しくないの。……欲しくないって、言ってもいい……?」
その、祈るような、問いかけるような拒絶。
その瞬間、迷宮が大きく身震いした。
美しく磨かれていたショーケースのガラスに、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
母の笑顔の記憶、窮屈なドレス、他人の意志で塗り固められた潔白な世界が、耐えきれなくなったかのように音を立てて砕け散っていく。
ガラスの破片が光を反射して舞い、吹雪のようにアリスを包み込んだ。
破片が消えると、そこには『輪郭のない街』が姿を現した。
雨音が耳に届く。
リズムは確かにあるのに、空を見上げても水滴は見えない。
足元の石畳は乾いている。
色彩はあるが、どこか薄いヴェールに覆われたような、実体のない景色。
アリスはフラフラと歩き、静かな公園へと辿り着いた。
砂場の中に、ひとつだけ、砂時計が揺れていた。
そこには、自分によく似た、でも少しだけ幼い頃の自分――『いい子』でいることに疲れ切った顔をした、もう一人のアリスが立っていた。
幼いアリスは、砂時計を静かに差し出した。
「記憶の街を濃くする鍵よ。でも、選ぶたびに何かを失うこともある……」
アリスは、震える手でその砂時計を受け取った。
砂が落ちるたびに、街の輪郭が微かに濃くなる。
瓦屋根の赤、街灯の黄金色。
今まで誰かに決めてもらっていた『色』ではなく、自分の心が、初めて直接世界に触れるような、不思議な熱が指先から伝わってくる。
「色が…ついていく」
歩を進めるたび、壁が、石畳が、鮮明になっていく。
でも、色彩が深まるにつれ、どこかで何かが壊れるような音が響く。
「今の音、何……?」
『あなたが、自分の意志で世界を動かし始めた音だよ』
幼いアリスが囁く。
『でも、選ぶということは、選ばなかった時の自分を殺すこと。お母さんの言う通りにしていれば守られていた……あの子は、もう消えてしまうわ』
アリスは、胸の奥に広がる痛みに耐えた。
「……痛いのは、怖いけど。でも、私……自分で、歩いてみたいの。誰かの決めた色じゃなくて、自分の色で、この世界を見てみたい」
砂時計を握りしめ、アリスは砂を落とし続ける。
誰かの意図が介入しない、少し不格好で、けれど鮮やかな『自分の道』。
幼いアリスは静かに微笑み、消えていった。
『覚えていて。その先にしか、新しい景色はない。失うことを恐れて止まった時間は、もう君の名前を呼んではくれないから』
アリスは、もう振り返らなかった。
瓦礫の山を越え、彼女は『自分の色』で染まり始めた街の奥へと、一歩ずつ、踏みしめるように進んでいった。
「面白いね」
ティックが砕けたガラスの上で愉しげに笑い、彼女の肩に乗る。
「選ばないという形で、『自分』を選び取るなんて。君、少しだけ目が良くなったんじゃないかな」
アリスは胸の奥の不安と、少しだけの期待を抱きかかえ、次の砂粒を落とした。
街の輪郭は濃くなり、雨音は確かな現実として届く。
彼女は、自分の選択の重みを一歩ごとに噛み締めながら、不確かな未来へと歩き続ける。




