第二話『錆びついた鳥籠の歌』
元の街の店には、もう戻れない――。
その事実は、アリスが脳で理解するよりもずっと早く、細胞のひとつひとつに染み渡るような冷徹さを持ってそこに居座っていた。
アリスは凍りついたように立ち尽くしたまま、ゆっくりと、恐る恐る背後の壁を振り返った。
先ほどまで自分をこの場所へと誘ったはずの、あの木製の扉はどこにもなかった。
視界にあるのは、長い年月を経て毒々しいほどに変色したレンガの壁だけだ。
湿り気を帯びた石の表面には、黒ずんだ苔のようなものが、まるで時計の歯車の形を模してへばりついている。
アリスは震える指先をその壁に伸ばした。
触れた瞬間、指先から伝わってきたのは、無機質な石の冷たさではなかった。
それは、絶え間なく微動を続ける機械の振動に近い、不気味な脈動だった。
壁そのものが、あるいはこの空間そのものが、巨大な肺のように、あるいは精密な時計の心臓部のように、ひそやかに、しかし確実に『呼吸』している。
ここにあるのは、三次元の座標で示される『場所』ではない。
時間という、目に見えず、触れることもできない不確かな素材を無理やり編み上げ、強引に形を与えた『概念』としての店なのだ。
そう直感した瞬間、脳の奥を激しいめまいが貫いた。
アリスは膝から崩れ落ちそうになり、慌てて近くの棚に手をかけた。
その時だ。
足元の石畳が、決定的な違和感をアリスに突きつけた。
彼女が右足を一歩動かす。
すると、その数秒後、彼女がすでに踏み終えたはずの地面が、水面に石を投げ入れた時のように、遅れてゆっくりと沈み込むのだ。
景色が、自分の動きに追いついてこない。
あるいは、自分という存在だけが、この世界の時間の流れから切り離され、あまりにも速く突き進んでしまっている。
アリスは自分の右手の指先を、目の前でゆっくりと動かしてみた。
そこには、半透明の残像が幾重にも重なっていた。
肉体が動いた後の軌跡を、空気が記憶しているかのように、数瞬前の『自分の手』がそこに留まっている。
世界が自分を処理しきれていない。
あるいは、世界の方がアリスの存在をどう解釈すべきか迷っている。
そんな、神様の計算ミスに迷い込んでしまったような、寄る辺ない恐怖が背筋を駆け抜けた。
壁一面を埋め尽くした時計たちに目を向ければ、その光景はさらに狂気を帯びていた。
ある時計の長針は、まるで扇風機の羽根のように凄まじい速度で回転し、キィキィという金属の摩擦音を撒き散らしている。
一方でその隣にある重厚な振り子時計は、一秒を刻むために数百年を要するかのような、永劫の静止を保っていた。
意志があるようで、ない。
ただ、決定的に、そして絶望的に、すべてが『ずれて』いる。
チクタク、カチカチ、コトコト、ギィ、ギィ……。
それらの音は、もはや鼓膜を震わせる『音』としては機能していなかった。
むしろ、アリスの胸の奥にある、生身の鼓動に対し、あえてリズムを崩してぶつかってくる『物理的な衝撃』として内側から響くのだ。
一拍、一拍。
自分の心臓が、外側の狂ったリズムに同調させられそうになるたび、アリスは吐き気にも似た不快感を覚えた。
「変だ。全部、おかしいよ。こんなの……夢に決まってる」
小さく、祈るように呟いたその言葉さえ、空間に吸い込まれることはなかった。
発せられた言葉は、彼女の口元で一度凍りついたようになり、それから反響となって彼女自身の胸の奥を叩いた。
「夢だと断じるのは簡単だけれど、それじゃあ、今君が感じているその『吐き気』の説明がつかないだろう?」
背後から、皮肉めいた、けれどどこか楽しげな声が届いた。
振り返ると、棚の上に積まれた古い時計の部品の山に、あの『影』が腰掛けているように見えた。
ティックだ。
実体があるのかさえ疑わしいその姿は、棚から漏れる不確かな光を吸い込んで、絶えず流動していた。
ある時は粘り気のある黒い油のように、またある時は、煙突から吐き出されたばかりの煤煙のように。
ただ、その顔があるべき場所で爛々と輝く『金色の瞳』だけが、この歪んだ世界の中で唯一、確かな質量を持ってアリスを射抜いていた。
「戻れないのは、この店だけじゃないんだよ、アリス」
ティックは重力を無視して、棚からふわりと滑り落ちた。
彼が着地したはずの床からは、音もせず、代わりに小さな火花が散った。
「ここにいる限り、君の時間は君だけの流れになる。
外の世界の時計が何を指そうと、ここでは関係ない。
君が秒針になり、君が主ゼンマイになる。……ああ、そんなに震えなくていい。君が怖がれば怖がるほど、この部屋の影は濃くなり、時間はもっと醜くねじれてしまうからね」
「……それって、安全なの? 私、どうすれば帰れるの?」
アリスの声は、今にも消え入りそうだった。
ティックは即答しなかった。
金色の瞳を細め、長い影をアリスの足元まで伸ばしながら、棚の最奥にある、ひときわ深い闇を指差した。
「安全かどうか、それは君の『選び方』次第だね。ここでは『右』と言葉にした瞬間に道が左へ曲がることだってある。まずは知ることだ。時の流れが君の肌をどう掠め、削り取っていくのかを。見えれば――いつかは選べるようになるかもしれない。……まあ、選んだ先が崖でないという保証はどこにもないけれどね」
ティックは『正しい道』については一言も触れなかった。
ただ、アリスに『突き放した自由』という名の、あまりに残酷なギフトを提示しているだけだった。
アリスは、棚の奥の、ひときわ静寂が重く降り積もっている場所に目を奪われた。
そこには、一基の砂時計が置かれていた。
さっき扉を開けた瞬間、彼女の掌にあったはずのあの砂時計だ。
いつの間にか彼女の手を離れ、まるで最初からそこにあったかのような顔をして鎮座している。
いいえ――。
よく見れば、それはさきほどよりも、どこか古びて見えた。
ガラスの表面には微細な傷がつき、木製の枠は、まるで数世紀もの間、風雨に晒されてきたかのような、深い枯れた色合いを帯びている。
細長いガラスの中で、金色の砂が落ちている。
音はない。
ただ、光の粒がひとつずつ、確実に、そして冷徹に、下の方へと吸い込まれていく。
アリスが近づくにつれ、彼女の胸の鼓動は、砂の落ちる一定の間隔と激しい不協和音を起こし始めた。
合わせようとすればするほど、肺が空気を拒絶し、喉の奥がじりじりと焼けるように熱くなる。
アリスは、何かに操られるように手を伸ばした。
指先が冷たいガラスに触れた瞬間、全身を突き抜けるような衝撃が走った。
それは冷たさだった。
けれど、ただの冷たさではない。
それは、数えきれないほどの冬を一度に浴びたような、あるいは宇宙の深淵に指を浸したような、絶対的な零度の感触だった。
だが、その凍てつく冷たさの、さらにその奥底に――。
微かな、本当に消え入りそうなほどの『温もり』が残っていた。
誰かの体温。
アリスは、その温もりに触れた瞬間、なぜか泣きたくなった。
それは、幼い頃に自分を抱きしめてくれた誰かの体温のようでもあり、あるいは、ずっと未来に自分が手にするはずだった幸せの残り香のようでもあった。
アリスが砂時計を強く握りしめた、その瞬間。
ピタリ。
砂の落下が、完全に止まった。
一粒も、落ちない。
重力さえもが、彼女の戸惑いに同調したかのように、その役割を放棄してしまったのだ。
「……え?」
次の瞬間、砂時計の中で信じられないことが起きた。
止まっていた砂が、わずかに『逆向き』に揺れたのだ。
それは勢いよく逆流するというより、迷いながら、行き先を探して震えているような、慎重で、かつ不安定な動きだった。
胸の奥で、ざあ、と静かな波の音がした。
――戻れない。
その確信は、場所や過去といった言葉の枠を超えていた。
『今』という、たった一度きりの瞬間が、次の『今』へと、二度と同じ形を保たずに落ち続けている。
その残酷なまでの連続性と、一度きりの重みを知った時、アリスの目から、熱い涙が一粒零れ落ちた。
「ここにいる時間はね、アリス。外の世界のそれとは、もう二度と混ざり合わないんだ」
ティックの影が、アリスの足元まで這い寄ってくる。
金色の瞳が、獲物を狙う獣のように、あるいは迷える子羊を憐れむ聖職者のように、彼女の顔を覗き込んだ。
「君がこの砂時計をどう扱うかで、君の人生という名の迷宮の形は、千変万化に姿を変える。君が捨てた昨日も、君が恐れる明日も、すべてはこの一握りの砂の中に閉じ込められているんだよ」
アリスは、その重たい砂時計を胸に抱きしめ、再び前を向いた。
一歩。
床の石畳が、アリスの覚悟を試すように、鈍い音を立てて大きくしなった。
二歩。
壁が波打ち、棚からこぼれ落ちた歯車たちが、生き物のように彼女の足首にまとわりついてくる。
三歩。
その違和感は、もはや恐怖を超え、一種の『義務感』に近いものへと変質していった。
棚の最奥、最も影が濃く、最も時間が停滞している場所に、ひとつの古い木箱が置かれていた。
それは精巧な象嵌細工が施された鍵穴を持っており、その隙間からは、鈍い金色の光が、肺が呼吸するようにゆっくりと明滅しながら滲み出ている。
アリスはその箱の前に立ち尽くした。
鼻を突くのは、古紙と、酸化した油。
そして、どこか懐かしい、おじいちゃんの家の書斎で嗅いだような『古い記憶』の匂いだった。
この箱を開ければ、何かが決定的に変わる。
開けなければ、自分はいつまでも、この『ずれた時間』の中に留まり続けることになる。
「……知らなきゃ」
アリスは自分の唇が動くのを感じた。
それは、今までの彼女には決してできなかった『宣言』だった。
「触れて、感じて、苦しまなきゃ……私は私の時間を、一秒も進められない」
ティックの影が、その言葉を聞いて、満足げに大きく波打った。
「ようこそ、時計屋の国へ、アリス。ここは君が失った言葉の墓場であり、君がこれから紡ぐはずの『詩』の、まだ真っ白な原稿紙なのだから」
アリスがその古い木箱を抱え上げた瞬間、予想だにしない『重み』が彼女の両腕を襲った。
それは単なる物質的な質量ではない。
まるで、数年分の重たい沈黙を無理やり箱の中に詰め込んだかのような、粘り気のある重厚感。
腕の筋肉が悲鳴を上げ、指先が木肌のざらつきに食い込む。
同時に、アリスの脳裏に、暴力的なまでの鮮明さで『記憶の断片』が突き刺さった。
――それは、小学校の卒業式の日の午後だったかもしれない。
仲の良かった友人が、別の街へ引っ越すと告げた時。
アリスは『行かないで』とも、『寂しい』とも言わなかった。
ただ、母が用意した紺色のワンピースの裾を握りしめ、喉の奥まで出かかった言葉を、無理やり胃の底へ押し戻した。
――あるいは、誕生日の夜。
本当は青いリボンのついた靴が欲しかったのに、『アリスにはこっちの赤い靴の方が似合うわ』と笑う母の言葉に、ただ小さく頷いたあの日。
それらの、形にならなかった言葉たち。
選ばなかった方の選択肢。
捨ててきたはずの『本当の気持ち』が、この木箱の中で腐ることもなく、ずっと彼女に迎えに来てもらうのを待っていたのだ。
木箱から漏れる金色の光が、アリスの瞳を焼く。
「……っ、重い」
アリスは喘ぐように息を吐いた。
足元の石畳が、彼女のその精神的な負荷に同調するように、深く、底なしの沼のように沈み込んでいく。
一歩踏み出すたびに、足首まで石の中に埋まり、それを引き抜くために全身の力を振り絞らなければならない。
「いい重さだね、アリス」
ティックの声が、今度は彼女の耳たぶを直接震わせた。
姿は見えないが、冷たい風のような気配が彼女の頬を撫でる。
「君が今まで『事なかれ主義』という名の盾で防いできた全ての重圧が、今、ようやく本来の持ち主の元へ帰ってきたわけだ。どうだい? 誰かに決めてもらう人生より、ずっと身体に堪えるだろう?」
「……うるさい、わかってる。わかってるよ……!」
アリスは、初めて誰かに向けて――それが影であっても――剥き出しの感情をぶつけた。
その瞬間、工房の奥から吹き抜けてきた突風が、彼女のネイビーの傘をさらおうとする。
アリスは必死に傘と木箱を抱きしめた。
廊下を進むにつれ、壁の額縁から聞こえる『囁き』は、より鮮明なリズムを帯びてきた。
『――振り子は揺れる、肯定と否定の間を。
――針は刻む、後悔と忘却の傷跡を。』
言葉が、物理的な圧力を持ってアリスの肌を叩く。
彼女が歩く足跡には、今や明確な文字が浮かび上がっていた。
『躊躇』、『怯え』、『受容』。
一歩ごとに、アリスの内面が世界に書き込まれていく。
この『時計屋の国』において、沈黙は存在し得ない。
全ての思考、全ての迷いが、音となり、文字となり、重力となって彼女自身に跳ね返ってくる。
「ティック、あの囁きは何? 私を笑っているの?」
「笑っている? 滅相もない。彼らはただ、君という新しい『時間』がやってきたことに喜んでいるだけさ。
物語が始まる前には、いつだってこうして言葉がざわめくものだよ。さあ、前を見て。回廊の終点が見えてきた」
ティックの指し示す先。
歪んだ空間の断絶点に、巨大な『時計の文字盤』を模した円形の広場が姿を現した。
そこには、元の世界のような空はなかった。
代わりに、空を埋め尽くすほどの無数の歯車が、互いに噛み合い、軋みながら、セピア色の霧をかき混ぜている。
広場の中央に立ったアリスは、砂時計を高く掲げた。
すると、今まで不規則に回転していた空の歯車たちが、一斉に動きを止めた。
完全な、真空のような静寂。
「……止まった?」
「いや。君が『現在』を固定したんだ」
ティックが、アリスの影から離れ、金色の瞳を空に向けた。
「君がこの木箱を抱え、砂時計を握りしめている限り、この世界の時間は君の心拍数に従うことになる。
アリス。ここから先は、もう『店の中』なんて甘い場所じゃない」
アリスは、胸の中に抱えた木箱を一度、愛おしむように強く抱きしめた。
中から伝わる、あの温もり。
自分が捨ててきた過去の自分たちが、この箱の中で一緒に息をしている。
そう思うと、不思議と足首を縛っていた石畳の重みが、少しだけ軽くなった気がした。
「私……行くよ。箱も、この砂時計も、全部持って。
……この国で、私が選ばなかった答えを見つけるために」
アリスがそう宣言した瞬間。
空の巨大な歯車が一斉に『逆回転』を始めた。
だが、それは時間を戻すための回転ではない。
アリスという『針』を、物語の深部へと送り出すための、巨大な機械装置の始動音だった。
ゴォォォ……という地鳴りのような音が響き渡り、霧が晴れていく。
その向こう側に広がるのは、無数の時計塔が重なり合い、文字盤の影が街路を走る『時計屋の国の街並み』。
アリスの頬を、新しい雨の匂い――ではなく、機械油と、古いインクの匂いが掠めた。
彼女は、一歩を踏み出した。
今度の足跡には、もう迷いの文字はない。
ただ、『開始』という力強い一文字が、鈍く輝く金色の光と共に、石畳に深く刻まれた。
砂時計の中で、砂がさらさらと流れ落ちる。
それはアリスが、自分自身の意思で刻み始めた、本当の『一秒』の音だった。




