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第十九話『空白の音節とノイズの検閲』

 迷宮の闇は、ひんやりとして、重く、恐ろしいほどに静かだった。

 あまりに静かすぎて、アリスが微かに息を吸い込むたび、その肺の膨らみが胸の奥で小さな摩擦音となり、まるで巨大な伽藍(がらん)の中に響く鐘のように不自然に反響する。

 彼女は自身の肩を抱くようにして、手にした砂時計の硬質な感触を確かめた。

 砂の粒が一つ、また一つと落ちるたび、そのかすかな律動が指先の神経を伝い、彼女の胸の鼓動と機械的な精度で共鳴し始める。


 その音は、もはや外部から聞こえるノイズではない。

 彼女の『命の音』そのものとして体の奥底で響き、自分という存在の輪郭をこの闇の中に繋ぎ止めていた。


 冷たい空気が、湿り気を帯びて肌を撫でる。

 肩から背中にかけて、目に見えない小さな鳥の羽がざわつくような感覚が走り抜ける。

 アリスは自らの震えを押し殺し、一歩、闇の深淵へと足を踏み出した。

 その一歩がどれほど深い闇の中に踏み込むことになるのか、今の彼女には分からない。

 ただ、進むしかないことだけは確かだった。


「どこまで進めば……終わるのかしら」


 小さな声でつぶやいた問いは、迷宮の湿った空気に重く沈み、壁の苔や天井の亀裂に吸い込まれて消えた。


「ふふ。終わりは……まあ、いつも自分で決めるものだよ」


 不意に、耳のすぐ後ろで声がした。ティックだ。

 黄金色の瞳が闇の中で一瞬だけ強く発光し、その残光がアリスの網膜に焼き付く。

 彼の声は、隣にいるようでもあり、あるいは地平線の彼方から届くようでもある、不条理な遠近感を伴っていた。


「……自分で、決める?」



「そうさ。物語の幕を下ろすのは、いつだって主役の特権であり、義務なんだ。もっとも、その幕が君自身の首を絞める絞首刑の縄にならないといいけれどね」


 ティックの光が一瞬揺れ、また壁の隙間へと、水が染み込むように溶けていった。

 ティックの姿が消えたように感じたが、彼女の心の中にその言葉はしっかりと残っていた。


 アリスは迷宮の長い通路を歩き続けた。

 歩くたび、壁のひんやりとした石の感触が腕に伝わり、湿った苔の匂いが鼻をくすぐる。

 空間はゆっくりと、だが確実に変容している。

 壁は左右から押し寄せ、通路は呼吸を妨げるほどに狭まり、空間そのものが彼女を『咀嚼』しようとしているかのようだった。

 どこかで息が詰まりそうになり、アリスはそれを払おうとするように深く息を吸った。


 その圧迫感の中、ふと目に入った壁の一部に、何かが貼り付けられているのに気づいた。

 それは、一枚の古い紙だった。

 所々が不自然に黄ばみ、しわくちゃになったその紙には、文字が無数の線と渦のように書かれていた。

 その文字は読み取れそうで、読み取れない。

 まるで一度見たことがあるような気がするが、何も思い出せない。


 その歪な配列の中に、アリスは**『欠落した文字列』**を見つけた。

 それは、記号の連なりのようでもあった。

 ある角度から見れば、三つ、あるいは四つの曲線が絡み合う文字のようであり、別の角度から見れば、五つの鋭利な直線が並ぶ綴りのようにも見える。

 言語の境界さえもが迷宮の悪意に侵食され、正解を拒絶していた。

 しかし、その残骸を見た瞬間、彼女の心臓が物理的な痛みを伴って大きく跳ねた。

 自分の中に、ぽっかりと空いた『穴』の形に、その文字の欠落がぴたりと重なった気がしたのだ。


「ねぇ、ティック。これ、私にとって、大切なもの?」


 自分でも驚くほど、声に出してしまった。

 吸い寄せられるようにその紙に触れると、冷たさと同時に微かな振動が手のひらに伝わった。

 その瞬間、まるで時間が止まったように、周囲が静まり返った。

 光がゆっくりと揺れ、ティックが影のように染み出し、彼女の耳元で囁いた。


「ふむ……それは重いね。これから先、君の足取りを遅らせるには十分すぎるほどの質量だ。進みたければ、少しばかり『軽く』して歩かなくちゃあね」


「軽くする……? これが何かも分からないのに」


「何であるかを知る必要なんてないさ。ただ、君がそれを『自分の一部』だと直感してしまった。その事実だけで、迷宮にとっては極上の重しになるんだよ」


 ティックの言葉は不安を少しだけ和らげ、次第に光を散らしながら、壁の隙間へと消えていった。


 紙に触れた指先から、突然眩いばかりの金色の光が溢れ出した。

 柔らかな光がアリスを包み込み、その中で記憶が映像のように流れ、過去の自分が空気の中に浮かび上がった。


 雨の匂いが湿った髪と窓の隙間から流れ込み、母の声が微かに響く。

 幼い日の自分が窓辺に立ち、外の世界を見つめていた。

 その目には、何かを決めかねているような迷いが浮かんでいた。

 遠くで雷鳴が響き、窓の外では雨粒がガラスを滑り落ちていく。

 そのとき、背後から温かい手が肩に置かれ、母の優しい声が響いた。


「――、迷わないで……」


 母が『自分』の名を呼んだはずだった。

 けれど、その肝心な音節の部分だけが、古いレコードが音飛びするように激しいノイズに掻き消された。

『――』という空白の響き。

 母の唇は確かに動いているのに、そこから零れ落ちるはずの言葉が、どうしても意識の中に結像しない。

 それは、迷宮という機構が彼女の脳に強いている、残酷な検閲であった。


 胸の奥がぎゅっと締めつけられ、痛む。

 その痛みが記憶の重さであり、迷宮の空気よりも濃密だった。

 過去の自分が、今のアリスに問いかける。


「あなたは何を選ぶの? 今、ここで……?」


 迷う自分に、ティックがぽつりと影のように現れた。

 その声は、まるで彼女の不安を見透かしているかのように響く。


「迷うのは悪いことじゃないよ。ただ……迷っている間は、世界の熱が奪われていく。少し寒く感じるかもしれないね」


 ティックの言葉に、アリスは小さく頷いた。

 それでも心の中の迷いが晴れることはなかった。


「迷ってる……。でも、進みたい」


 声に出して言った。

 自分の気持ちが少しだけ整理されたような気がしたからだ。

 その言葉に、ティックは軽く笑って答えた。


「ふむ。進むために迷うのは、少しばかりピントがズレているかな。迷うのはね……『選ぶために』迷うんだ。選ばないための言い訳に迷いを使っちゃあいけない」


「選ぶために……迷う」


 胸の奥の痛みが少しずつ熱に変わる。

 受け入れること――それが成長の痛みだと理解する。

 アリスは深呼吸し、胸に広がるその痛みを感じる。


「失うことも、受け入れなきゃいけないんだね」


 ティックはひらりと光を散らしながら、軽く笑った。


「そうそう。ちょっと痛いけど、血を流さなきゃあ、新しい時間は刻めない。それで前に進めるんだよ」


 その言葉を胸に、アリスは再び歩き出す。

 迷宮の壁は次第に大きくなり、無数の狂った針が壁の隙間から突き出し、彼女の心臓を指した。


「これ……何の針?」

「君が切り捨ててきた、『選ばなかった時間』の針さ」


 ティックが軽やかに壁をすり抜け、アリスの肩先で光る。


「君が選ばなかった時間だ。あの日、雨の中で窓を閉めなかった自分。母の言葉を拒絶できなかった自分。……それらをここで流さないと、新しい道は開かない。未練は、迷宮においては物理的な壁になるんだよ」


 その言葉に、胸の奥で何かが重くなるのを感じた。

 アリスは砂時計を見つめ、その中でゆっくりと流れる砂の音を聞く。

 その音が、選択の重みを彼女に再び思い出させた。

 手に力を込め、そっと砂を落とす。


 砂が落ちるたびに、壁が揺れ、隙間から選ばなかった時間が黒い泥のように流れ出す。

 その流れは空気を震わせ、胸を痛ませる。

 痛みは選択の代償であり、成長の証でもあった。

 一つの記憶が消え、幼い日の雨の情景が淡く溶ける。

 母の呼ぼうとした、あの聞き取れない響きすら、今はもう聞こえない。


「……お母さんの、声が……」


 ティックがそっと囁く。


「痛いね。でも、これで君は次に進める。ほら、光はまだ消えてない」


 壁の隙間から新しい道が現れ、先には小さな扉が見えてきた。

 その扉の表面には精巧な時計の模様が、迷宮の微光を反射して柔らかく輝いている。


 アリスは息を整え、一歩を踏み出した。

 胸の奥に残る痛みが、自身の選択の証として確かに存在していることを知らせながら。

 ティックの光が揺れ、迷宮の影に溶けていった。


「次の選択は、君次第。僕は少し、この美味しい『未練の残り香』を味わいながら、おしゃべりを休ませてもらうよ」


 耳元で、微かな囁きが消えた。

 アリスは、重みを増した砂時計を握りしめ、次の扉へと手をかけた。



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