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第十八話『名前のない名前と錆びついた挨拶』

 迷宮の外――そこには、あの粘りつくような時間の澱みも、物理法則を無視して脈動する壁も存在しない。

 空は、どこまでも曖昧な薄曇りに覆われていた。

 厚い雲の層は、まるで地上で起きているすべての出来事を隠蔽しようとする巨大な蓋のようであり、そこから零れ落ちる光は、色を失った灰色に染まっている。

 風が吹くたび、乾燥しきった枯葉がアスファルトの上をカサカサと乾いた音を立てて滑っていく。

 その音は、まるで迷宮の中で砂時計が刻んでいた『ザラリ、ザラリ』という音の、出来損ないの模倣のように聞こえた。


 私は、草の間に腰を下ろし、膝の上に一冊の古びた手帳を広げている。

 私の指先は、常にインクの匂いと、古い紙の煤けた感触に馴染んでいる。

 私は迷宮で起きる事象を、意味へと変換し、詩として綴り留める者だ。

 胸には、あの少女が持っているものと対になる、けれど砂がすべて落ちきったまま沈黙している砂時計を抱いている。

 遠くに見える迷宮の輪郭は、霧の中に浮かぶ巨大な墓標のように不気味で、時折、そこから地鳴りとも悲鳴ともつかない微かな『ざわめき』が漏れ聞こえてきた。


 そのたびに、私の記述するペン先が、一瞬だけ止まる。


「……やっぱり、あの子はまだ迷っているわね」


 そっとつぶやいた言葉は、風にさらわれて霧の中へと消えていく。

 迷宮の第一層を突破し、『時間の核』に触れたはずの、あの名もなき少女。

 彼女の意志が、外側の世界に微かな『震え』として伝わってきている。

 だが、その震えはあまりにも危うく、今にも自分自身の重圧に押し潰されそうなほど、繊細な熱を帯びていた。


「おやおや。お茶会も開かれないこんな吹き溜まりで、迷子の詩を紡ぐお嬢さんに会うとは。今日はあいにく、空気が少しばかり錆びついていますなぁ」


 不意に背後からかかった声は、古い真鍮の歯車が噛み合うようなきしみと、大人の男特有の、落ち着いているがどこか浮世離れした響きを含んでいた。

 振り返ると、そこには奇妙な男が立っていた。


 時計職人。


 年齢を感じさせないほどに精悍な顔立ちには、整えられた白髪混じりの長髪が風に揺れている。

 藍色の和服を無造作に纏ったその姿は、この灰色の風景の中で異彩を放っていた。

 顎鬚を蓄えたその口元は、常に何かを企んでいるような、あるいはこの世のすべてを滑稽に感じているような、不思議な笑みを湛えている。


 そして何より目を引くのは、吸い込まれるほどに澄んだ『青い瞳』だ。

 その瞳は、迷宮の奥底にある真理を、最初からすべて知っているかのように輝いている。


「迷子?……いいえ、私は迷宮の詩を紡ぐ者。それ以外の何者でもないわ」


 私は苦笑いを浮かべ、湿った草の上に深く腰を落ち着かせた。


「迷宮の詩を紡ぐ者……か。おやおや、それはまた『名前のない名前』をお持ちだ。自分の名を迷宮の奥底に預けてきた者同士、挨拶の作法には困るというものですな。昨日よりはマシで、明日よりは少しだけ遅れた、そんな挨拶が必要かね、ええ?」


 職人は細長い指先で顎鬚を弄りながら、私の隣に座り込んだ。

 彼の体からは、酸化した機械油と、古い紙、そして何処にもない異世界の茶葉が混ざり合ったような、奇妙な『時間』の匂いがした。


「名前のない名前……そうね。でも、私はあの子を見守るために、この境界に立っている。彼女が時間の核に触れたとき、その鼓動が詩の一節としてここまで響いてきたわ。……職人さん、あなたはあの子に、一体何を背負わせたの?」


 時計職人は、青い瞳を細めて私をじっと見つめると、幾つもある懐中時計の中から一つを取り出し、その蓋を親指で弾いた。

 カチリ、という鋭い音が、周囲の風の音を一時的に止めたように感じられた。


「時間の核……。おや、それはあの小さな、夜の色の髪をした少女の手にあるものかね? ああ、あの砂と針と音が混ざり合った、呪いのような宝物のことか。彼女はね、時計を直すために、時計そのものになろうとしているのさ。カラスと書き物机が似ていないのと同様に、彼女と時間は、今や一対の鏡合わせだと言えるがねぇ」


 彼の言葉は常に回りくどく、比喩の中に比喩を重ねるような難解さを伴っている。

 しかし、その核心には逃れられない真実が潜んでいた。


「砂は落ちる。だが、その落ち方は決して一定ではない。針は進む。だが、それは必ずしも未来へ向かうとは限らない。時間はね、止まると死んでしまうが、動きすぎると自分を追い抜いてしまう。だから、迷子も迷う。……ふむ、実によくある、退屈で残酷な物語の書き出しだと思わんかね?」


 私は、職人の言葉に含まれた煙に巻くような冷徹さに、わずかな反発を覚えた。


「……『よくある話』なんて言わないで。あの子は今、自分の意志で選ぶことを学んでいる。過去の自分を殺してまで、この歪な時間を進もうとしているのよ」


 職人は、藍色の和服の袖を揺らしながら、懐中時計を私の目の前にそっと差し出した。

 風に揺れる鎖の先で、金色の秒針が不規則に跳ねている。


「選ぶ? ああ、選ぶか……。おやおや、お嬢さん。選ぶというのはね、バターを塗ったトーストが必ず床に落ちる前に、どちらの面を下にするかを空中で議論するようなものさ。天秤に乗せられるのは、常に自分の魂という名のジャムだからねぇ」


 彼は、懐中時計の盤面を指差した。


「ほら、見てごらん。針は止まらぬ。決して止まることはない。……けれどね、あまりにも重い選択を突きつけられた瞬間、針が『止まったように見える』刹那があるだろう? 視界が白く焼け、鼓動だけが耳元で鐘のように鳴る、あの瞬間だ。……あれこそが、選択の重さそのものだよ。帽子を新調するのと同じくらい、命を使い果たすのは一瞬だ」


 私は、差し出された文字盤をじっと見つめた。

 確かに、一秒を刻むはずの針が、無限の長さを伴って虚空に留まっているように見える。

 あの少女が時間の核の前で『鏡』を掲げた時、彼女が感じたであろう、あの窒息するような圧迫感。それが、職人の持つ時計の針の先にも宿っていた。


「……あの子は、きっと怖がりながらも、自分の道を進もうとしている。だから私は、少しだけ、詩の力を通じて手を貸すつもりよ。彼女が完全に迷宮に呑み込まれて、一滴の雫に変わってしまう前に」


 時計職人は、不敵な、それでいてどこか慈悲深い笑みを浮かべた。

 その表情は、すべてを狂わせながらも導こうとする、不思議な引力に満ちていた。


「手を貸す……か。それはね、紡ぐ者が綴る詩にも似ている。だが、お嬢さん。忘れてはいけない。詩というものはね、心で解くものであって、手で直接触れるものではないのだよ。……触れてごらん。韻律が歪む。意味が壊れる。触れた瞬間に、それはもう『彼女の選択』ではなく、君の物語になってしまう。時計を直そうとして指を切れば、血が文字盤を汚すだけのことだよ」


 職人の言葉は、私の心の奥底にある最も繊細な弦を弾いた。


「それでも……触れずにはいられないのよ。あの子が迷ったまま、出口のない螺旋に閉じ込められているのを見ているだけなんて、私の心も、この詩も、決して落ち着くことはないんだもの」


 時計職人は、懐中時計を藍色の和服の懐へとしまい込み、身軽な動作で立ち上がった。

 白髪混じりの長髪が風になびき、彼の青い瞳が、迷宮の奥底で瞬く『光』を捉える。


「おやおや。それが詩を紡ぐ者の責務、あるいは呪いというやつかねぇ。迷宮の外に立つ者、詩を守る者……うむ、悪くない配役だ。だが、覚えておきたまえ。紡ぐ詩も、迷宮の構造も、そして歩みを進めるあの少女も……皆が皆、一秒ごとに、不可逆な変化を遂げているということをね。昨日の紅茶を今日飲むことはできないようにさ」


 職人の姿が、霧の中に溶けるように少しずつ薄くなっていく。


「あの子は……きっと変わる。怖くても、選び続けるから」


 私は、去りゆく背中に向かって、自分に言い聞かせ、手帳に新たな一節を書き加えた。


「うむ。そうだろうとも。選ぶことで、初めて死んでいた時間は動き出す。……それが、幸福な再始動か、破滅へのカウントダウンかは、神のみぞ知る……いや、あるいは君の詩が決めることかもしれないな」


 職人はそう言い残し、針を弾く音と共に、灰色の空気の中に溶けて消えていった。


 風が一瞬、狂ったように強く吹き抜け、周囲の草の葉を激しく揺らした。

 その刹那――私の左肩のあたりで、微かに黄金色の光が瞬いた。

 ティックの瞳。

 迷宮の中で少女に寄り添うあの影の意志が、一瞬だけ、外側の世界にいる私の肩に腰を下ろし、冷ややかに笑った気がした。


「ええ、見守っているわね……」


 私は手帳を閉じ、胸の中で砂時計の微かな振動を感じながら、決意を新たにした。

 迷宮の外で、砂と針と詩が複雑に重なり合う、その中心点を見つめる。

 少女の次の選択が、どのような『意味』を伴ってこの世界を震わせるのか。

 どんな迷いが彼女を襲おうとも、私は、彼女がその『名前』へと辿り着くための、静かな祈りとしての詩をここに綴り続ける。


 灰色の空の下、私は再び、白紙のページにペンを走らせ始めた。

 第一層は終わった。

 名前を失くした子。あなたが次に選ぶ『言葉』を、私はここで待っている。



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