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第十七話『優しい嘘の匂いと真実の香り』

 崩れ去った影の残像は、断末魔の叫びをあげることもなかった。

 ただ、迷宮の冷たい石壁の隙間や、ひび割れた床の亀裂へと、黒い絵の具が水に溶けるように染み込み、消えていった。

 あれほどまでアリスを窒息させ、その魂を磨り潰そうとしていた濃密な闇が、今は嘘のように希薄になっている。

 代わりにそこを満たしたのは、透明度の高い、けれど刃物のように鋭利に研ぎ澄まされた『静寂』であった。


 その静寂を刻むのは、胸元の砂時計が奏でる『ザラリ、ザラリ』という乾いた摩擦音だけだ。

 砂が一粒落ちるたび、その微かな微動が胸元のリボンを伝い、アリスの鎖骨を、そして胸の奥を直接叩くようにして振動を送り込む。

 そのリズムは、今や彼女自身の心臓の拍動と、機械的な精度でぴたりと重なり合っていた。

 彼女が迷宮の主発条(メインスプリング)と同化しつつあることを、この砂の音は無慈悲に、けれど優雅に告げていた。


 アリスは『影を映す鏡』を、祈るように強く胸に押し当てた。

 掌から伝わる鏡面の、芯まで冷え切った冷たさが、逆上せ上がったような彼女の意識を辛うじて現実に繋ぎ止める。

 肩を、そして存在そのものを押し潰していたあの異様な重圧は、影の消失と共に引き潮のように去っていった。

 けれど、軽くなったはずの体は、別の感覚に支配されていた。

 胸の奥に、正体不明の、小さな熾火おきびのような『熱』が居座っているのだ。

 それは恐怖に対する防衛本能か、それとも禁忌に触れた者が抱く高揚か。


「……影は……壊れたのね」


 小さく零した声は、形を失った時間の霧に吸い込まれ、不自然な反響を残して消えた。

 耳を澄ませば、迷宮のさらに深淵、視界の届かない遥か下層から、地鳴りのような音が響いてくる。

 それは何万、何億という時計の針が、一斉に規律を取り戻し、狂った歯車を噛み合わせながら進み始める音であった。

 迷宮という名の巨大な機械が、アリスが吹き込んだ新たな生命(じかん)を貪欲に吸収し、巨大な鉄の肺のように、深く、重く呼吸を始めたのだ。


 アリスはゆっくりと鏡を持ち上げ、そこに映る自分の輪郭を、未知の標本を見るような心地で改めて見つめた。

 艶やかな黒髪の一筋が、ワイシャツの襟元に鋭い影を落としている。

 死闘の末に乱れたリボン、額に張り付いた髪、そして、自分のものとは思えないほど激しく燃える瞳。

 鏡の中の少女は、まぎれもなく自分自身であるはずなのに、どこか見知らぬ『異物』のように思えてならなかった。


(私は……誰……?)


 奪われた『名前』の空洞が、再びズキズキと疼き出す。

 臆病で、周囲の顔色を伺い、波風を立てないことだけを願って生きてきた『あの日までの自分』は、先ほど影と共にこの石畳の上で死んだのかもしれない。

 けれど、代わりに生まれた『今の私』を定義する言葉を、彼女はまだ一つも持っていない。

 新しく作り替えられた肉体という(うつわ)の中には、名前の代わりに、ただ『進む』という純粋な命令だけが満ちていた。


 ワイシャツの袖を、指先が白くなるほど強く握りしめる。

 布地越しに伝わる微かな体温だけが、唯一、彼女がまだ人間であることを保証する頼りない真実だった。

 怖い。

 足が竦む。

 けれど、ここで立ち止まり、この冷徹な迷宮の静寂に同化してしまうことは、死ぬことよりも恐ろしかった。


 その時、背後の闇が黄金色に、音もなく爆ぜた。

 ティック――。

 実体を持たぬその存在は、ある時は黄金の光の粒となって天井を舞い、ある時は意志を持った狡猾な影として壁を這う。

 形を定めぬまま、彼はアリスのすぐ後ろに、その絶対的な『気配』として立っていた。


「……怖がってもいい。けれど、立ち止まるのは違う」


 耳元で囁かれたその声は、相変わらず性別も年齢も感情も判別できないほどに無機質だった。

 けれど、迷宮の物理法則を内側から捻じ曲げるようなその響きの中に、ほんの一滴だけ、アリスの背中を押し、歩みを促すような『熱』が混じっているのを、彼女の敏感になった肌は感じ取っていた。


「私……。私、自分で選ぶ。怖くても、この砂時計が最後の一粒を落とすまでは、進むって決めたから」


 アリスは鏡を握りしめ、職人の『沈黙の箱』と少女の『選ばなかった道の箱』を、自らの血肉の一部であるかのように抱え直した。

 ティックの光がわずかに揺らぎ、彼女の肩越しに、さらに暗い通路の先を見据える。

 その眼差しは、獲物を見守る蛇のような冷酷さと、初めて自分の足で歩き始めた子供を眺める親のような慈愛が、最悪な形で混ざり合ったものだった。

 その歪な視線に射抜かれると、不思議とアリスの心の震えは凪ぎ、代わりに硬質な決意が結晶化していく。



 迷宮の回廊をさらに奥へと進むにつれ、世界はアリスの決意を嘲笑い、試すように、再びその姿を奇怪に変貌させ始めた。

 床の石材はもはや硬質な石ではなく、まるで巨大な生き物の筋肉のようにゆらりと波打ち、足を踏み出すたびに弾力を伴って彼女を押し返してくる。

 壁に埋め込まれた真鍮の時計たちは、アリスが歩く速度に呼応して針を狂わせ、逆回転させ、時には文字盤そのものを溶解させて流し去る。


 一歩。

 二歩。


 足を踏み出すたび、物理的な距離感と時間の感覚が、バターのように溶け合って乖離していく。

 数メートル先の角が永遠に辿り着けない蜃気楼のように遠のいたかと思えば、次の瞬間には、目前に壁が突きつけられる。

 影の濃淡の中に、底の見えない落とし穴や、踏めば時間が凍結する段差が巧妙に隠され、アリスの精神的な集中力を削り取ろうと罠を張っていた。


 呼吸を整えるたび、砂時計の砂の音が耳元で囁くように響く。

 それはもはや外側から聞こえる雑音ではなく、彼女の神経系、あるいは魂の脈動そのものとなり、全身の細胞に『進め、刻め』と命じているかのようだった。


「怖いよ……。でも、止まっちゃだめ。止まったら、私は影に戻ってしまう」


 アリスは何度も自分に言い聞かせ、鏡の中の自分と視線を重ね続けた。

 鏡の中の少女は、絶望の淵で泣きじゃくっていた先ほどとは別人のように、口元に微かな、けれど氷のように冷たく確かな笑みを浮かべているように見えた。

 それは『影』が見せる甘美な誘惑ではなく、あらゆる苦難と喪失を受け入れた者だけが宿す、静謐(せいひつ)な『覚悟の光』だった。


 やがて、狂った幾何学の回廊の突き当たりに、一つの小さな扉が姿を現した。

 精巧な彫刻が施された砂時計のレリーフが、迷宮に漂う燐光を反射して、銀色の月光のように柔らかく輝いている。

 手を触れると、指先にひんやりとした金属の冷たさと共に、古い図書館の奥底に漂うような、湿った古紙と真鍮の香りが伝わってきた。

 それは、この先に待つ試練が、より深い『記録』や『記憶』の層――すなわち、言葉が重みを持つ階層であることを予感させた。


「……ここが、次の扉」


 アリスは大きく深呼吸をして肺を満たし、砂時計を握り直した。

 砂の微かな感触、鏡の重み、そして抱え込んだ二つの箱から伝わる、かすかな異音。

 それらすべてを自らの鼓動のリズムへと無理やり束ねる。

 ティックの光が背後で大きく膨らみ、低い、地を這うような声が空間を震わせた。


「選ぶのは君だ。……扉を開けるのも、その先で永遠の沈黙に沈むのも」


 突き放すような冷酷な言葉。

 けれど、今のアリスにとっては、それは何者にも縛られない『自由』の宣告として響いた。


「うん、行くよ。私の時間を、私で使い切るために」


 アリスがゆっくりと、けれど確かな力を込めて扉を押し開けると、隙間から微かな風が吹き込み、彼女の長い黒髪を愛撫するように揺らした。

 その風は、どこか懐かしい『優しい嘘』の匂いと、焼け付くような『真実』の香りが、逃げ場のないほど混ざり合っている。


 扉の向こう側には、再び未知の闇が広がっていた。

 けれど、それはこれまでの階層のような、拒絶し、押し潰すための闇ではない。

 それは、アリスがこれから紡ぐべき言葉を、描くべき新しい地図を待っている、静寂に満ちた『空白』の闇だった。


 一歩を踏み出す。

 床の段差が慎重さを促し、浮かび上がる階層の影が彼女の覚悟を計る。

 迷宮の深淵から響く不協和音の時計たちは、もはや彼女を怯えさせるための怪物ではなく、彼女の歩みを正確に刻むための、巨大なメトロノームへと変わっていた。


「次の試練も、きっと私の選択で進んでみせる。どんなに私が、私でなくなっていっても」


 小さな、けれど凛とした声が回廊を抜け、次の階層へとこだまする。

 影は去り、迷宮は呼吸するようにその形を変容させ続ける。

 けれど、アリスの踏み出す一歩は、もはや何者にも、神にさえも奪えないほどの『重み』を帯びていた。


 背後で、ティックの黄金色の瞳が迷宮の拍動と完璧に、あまりにも美しく共鳴し、残像を残して消える。

 アリスはもう、かつてのような『一人』ではない。

 彼女が抱える『孤独』という名の光と、ティックという名の『影』。

 その矛盾する二つの伴走者が、次の残酷で、けれど抗いがたく美しい扉の先へと、彼女を導いていた。



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