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第十六話『呪いとしての今と正転する砂』

 数千の歯車が噛み合う絶望的な轟音の先にあった重厚な扉。

 それを押し開けたアリスが目にしたのは、視覚そのものを拒絶するような、想像を絶する『闇』であった。


 それは単なる光の欠如ではない。

 あらゆる色彩、あらゆる音、そしてあらゆる『可能性』が、巨大な圧力によって圧縮され、ドロリとした物質としてそこに停滞している闇だ。

 扉の向こう側に足を踏み入れた瞬間、アリスの視界は、(すす)を塗り潰したような漆黒に支配された。


 空気はひんやりと重く、アリスが震える手で前方を模索するたび、指先に目に見えない繊維がまとわりつくように肌を撫でる。

 息を吸い込む。

 冷気が喉の粘膜を焼き、肺の肺胞一つ一つにまで、じわりと、けれど逃げ場のない確かさで染み込んでいく。

 それは彼女の内側に『迷宮の毒』を注入していくような、静かな侵食であった。


 その絶対的な静寂の中で、唯一、アリスの胸元に吊るされた砂時計だけが、時を刻む音を立てていた。


 ――ザラリ、ザラリ。


 砂がひと粒ずつ、重力に逆らうような不自然な速度で落ちていく。

 その乾いたリズムは、虚無の空間に微かな、けれど鋭い亀裂を入れる。

 その振動は、不思議と彼女の肉体を損なうことはなかった。

 むしろ、時間そのものがアリスの皮膚の下を愛撫するように這い回り、こわばった肩や背中の筋肉を、内側からそっと押し広げていく。


 彼女の肉体という『器』を、迷宮という名の巨大な機構へ適合させるための、残酷な調律。

 アリスは、砂時計を壊さんばかりに握りしめた。

 掌に伝わる砂の摩擦は、今や彼女の血流よりも確かな現実味を持って、彼女をこの世界に繋ぎ止めている。


「っ…重い。でも、これは私を壊す重さじゃない」


 独り言さえ、闇の質量に押し潰されて遠くへは届かない。

 時間は彼女を拒絶するのではなく、逃げ場のない親密さで抱きしめていた。

 体の奥底で打つ鼓動が、迷宮の地底で回る巨大な主発条(メインスプリング)の拍動と同調していく。

 アリスの輪郭は、過去でも未来でもない、『今』という凍結された一点に、釘打たれるように固定されていった。


「ここが……時間の核」


 小さく零した声は、闇の中で幾重にも、幾十重にも反響した。

 その余韻は物理的な波となって壁を揺らし、目に見えない同心円状の波紋となって広がっていく。

 その先、闇の中心にそれは鎮座していた。


 高さ数メートルはあるかと思われる、半透明の巨大な砂時計。

 それがこの世界の心臓――『時間の核』であった。

 しかし、その砂の落ち方は、見る者の平衡感覚を狂わせるほどに不自然であった。

 砂の粒は、まるで意思を持っているかのように空中で一瞬停止し、あるいは螺旋を描いて舞い上がる。

 ひと粒が底に落ちるたびに、周囲の空間――床、壁、そしてアリス自身の影の輪郭までが、高熱にさらされた飴のように、ぐにゃりとねじれ、歪む。


 砂は止まりかけているようでいて、落ちるその刹那、世界の境界線を力任せに押し広げる。

 空気を、次元を、物理的に引き裂くような鈍い轟音が、アリスの脳髄を直接揺さぶった。


 その『世界の歪み』は、容赦なくアリスの肉体を通過していく。

 背中から肩にかけて、ずっしりと鉛を流し込まれたような重圧がまとわりつく。

 皮膚の下で、無数の、目に見えないほど微小な歯車たちが、彼女の骨を削りながら回り始める。

 目を細めれば、光の粒子が螺旋を描いて乱舞し、足元の石畳はもはや硬い石ではなく、荒れ狂う嵐の海面のように波打ち、彼女の平衡感覚を奪い去る。


 アリスは膝を突きそうになりながら、必死に踏みとどまった。

 ここで倒れれば、彼女もまた、文字通り『形のない時間』の中に溶け去ってしまうだろう。


 その『核』が落とす、山のような影の中から、それは音もなく現れた。


 足元から天井までを、夜よりも深い黒で塗り潰し、形を定めぬまま周囲の空気を力任せに押し退ける巨大な影。

 その不定形の闇の奥に、爛々と輝く黄金色の双眸が浮かび上がる。

 ティック――。


 その瞳がアリスを射抜いた瞬間、彼女の全身の血管を流れる血が逆流し、内臓がねじれるような、激しい嘔吐感を伴う衝撃が走った。

 冷たくもあり、火傷しそうなほど熱くもあるその眼差し。

 それはアリスの記憶の最奥、彼女が自分自身でさえ忘れ去った『名前の残滓』までも、容赦なく暴き立てようとしていた。


「影……!」


 声は、空間のいたるところに生じた『時間の裂け目』に引っかかり、震えながら消えた。

 巨大な影は、物理的な口を持たない。

 だが、空間そのものを震わせ、共鳴させる声を、アリスの鼓膜に直接滑り込ませた。


「……修復するか。この、止まりかけた心臓を。死を拒み、生を停滞させる、この醜悪な機構を」


 アリスは、職人から譲り受けたあの重い砂時計を、壊さんばかりに握り直した。

 奪われた自分の名前を思い出す代わりに、この世界の法を、自らの指先に刻み込むように。


「修復するよ、この国を。壊れないように…私が……私が私でいられる場所を、これ以上失わないために」


 影は、嘲笑うかのように、ゆっくりとその巨大な輪郭を傾げた。

 その動きに合わせて、周囲の壁にかかった何百という時計の針が、一斉に、凄まじい速度で逆回転を始める。


「壊れないように? それは、ただの執着だ。今を守ることは、変化という名の救済を拒むこと。腐りゆく永遠の中で、自分を剥製(はくせい)にすることと同じだぞ」


「今を守ることが、そんなに悪いことなの?」


 アリスは、喉を締め付けられるような圧迫感の中で、必死に問い返した。

 足元を流れる銀色の霧と、砂時計の微振動が、彼女の意識を遠のかせようとする。

 影の声はさらに深く、地底の底から響くように、空間をねじりながら届く。


「悪ではない。だが、それは残酷な選択だ。今を守るとは、昨日までの自分を殺さず、明日になることを拒絶すること。君が腕に抱える、あの『選ばなかった道の箱』に鍵をかけ、可能性という名の希望を永遠に埋葬するということだ」


 その言葉が、アリスの背中に鋭い棘のような圧迫感を走らせた。

 変化を拒むこと。

 それは、見えない厚い硝子の壁に閉じ込められ、自らの呼吸で酸欠になっていくような閉塞感。

 皮膚の端から『停滞』という名の壊死が始まり、じわりと不安が全身へ浸透していく。


「……それでも。流されて、誰かに決められた自分に変わるくらいなら……。私は、私が選び取った『今』を、死守してみせる。たとえそれが、どんなに不格好な変化だとしても!」


 震える声。

 だが、その芯には、第十四話で少女に突きつけた『自分を探す』という、氷のような決意が宿っていた。

 影は微笑んだように見えた。

 あるいは、それが獲物が自ら網に絡まるのを楽しむ、捕食者の満足感だったのかもしれない。


「なら、示せ。君の『今』に、この世界の崩壊を止めるほどの重みがあるか。……私を、君自身の絶望を、倒してみせろ」


 その言葉は、爆風となってアリスの体を壁まで弾き飛ばした。

 彼女は喘ぎながら、鞄から『影を映す鏡』を取り出した。

 表面には、迷宮の闇に呑まれ、輪郭が溶けかかった自分自身が映っている。

 顔も、体も、すべてが曖昧な黒い染みに変わり果てている。

 だが、その染みの中心。

 深淵の底に、一点の、針先ほどの鋭い光を宿した瞳が見えた。

 それは、名前を奪われ、記憶を削られてもなお、決して屈することのない、アリスという魂の『核』そのものだった。


「私は……私の選択を、現実にする。この迷宮に、私の意志を刻みつけるんだ」


 鏡を、渾身の力を込めて振りかざす。

 その刹那、鏡面から純白の、目を焼くような閃光が爆発した。

 光は巨大な影の胸元に触れ、その絶対的な闇を微かに揺るがせた。


「その程度か」


 影は笑い、無数の影の触手を伸ばして、アリスを、そして彼女の持つ小さな時間を、物理的に握り潰そうとする。


「や、やめて!」


 叫びと同時に、砂時計が激しい熱を帯びた。

 アリスの意識は、色彩と音の奔流――『時間の渦』へと強制的に引きずり込まれた。

 かつての楽しかった記憶、失った瞬間の痛み、まだ見ぬ未来への恐怖。

 それらすべてが濁流となって押し寄せ、彼女の自我を細かく砕いていく。


(このままじゃ……負けちゃう。私という存在が、薄まって消えてしまう……)


 鈍く、重い。

 選択の重みが、一粒一粒の砂となって、アリスの全身に降り積もる。

 それは痛みではなく、『存在の責任』という名の重圧だ。


(助けて……。私は、誰……?)


 その時だ。

 迷宮の石壁から、あるいは彼女自身の肋骨の隙間から、澄んだ、凛とした声が響いた。


『――鏡を。自分に向けなさい』


 その声は、迷宮の詩を紡ぐ者のようでもあり、あるいは遠い異郷で彼女を案じていた誰かの残響のようでもあった。

 アリスは、視界を覆う闇を振り払い、鏡を自らの顔へと向けた。


 鏡面に映る自分は、静かに、けれど慈愛に満ちた表情で微笑んでいた。

 そして、そのアリスの背後には、小さな光の粒子が――これまでの十五の階層で、彼女が悩み、苦しみ、それでも一歩を踏み出すと決めた『選択の瞬間』たちが、無数の歯車となって翼のように広がっている。


「……そうか。私は、一人じゃなかった。選んできた時間のすべてが、私を形作っているんだ」


 暖かさが、氷のようだった彼女の肉体を包み込む。

 指先に感覚が戻り、胸の奥から、言葉にならない咆哮のような決意が溢れ出した。


「私は、私の選択を信じる。この世界がどれほど歪んでも、私が私であることを、私が許すんだ」


 言葉が白熱する光となって闇を切り裂き、影の核心を貫いた。

 影は激しく身悶えし、断末魔のような歯車の摩擦音を立てて、崩壊し始めた。

 崩れ落ちる黒い煤の中に、アリスは一瞬、自分自身の『臆病さ』と『未練』が、涙を流して消えていくのを見た気がした。


「影が……消えていく」


 崩れゆく影は、最期に、どこか安堵したような響きを伴って答えた。


「……選んだな。停滞ではなく、呪いとしての『今』を。だが、忘れるな。その選択こそが、君を真の迷宮へ導く鍵であることを」


 影が霧散すると同時に、部屋の中心で停滞していた『時間の核』が、これまでにないほど重厚な、大地を揺らすような音を立てて、再び正転を開始した。


 砂はもう、不自然な浮遊も見せない。

 一粒一粒が、確かな『重力』と『意味』を持って、着実に未来へと落ちていく。

 空間の歪みは急速に収束し、ねじれていた壁や床は、冷徹なまでの秩序を取り戻した。


 だが、アリスの肉体に残った感覚は、以前とは全く異なっていた。

 体の奥の重さは軽くなったが、それと引き換えに、神経が一本ずつ剥き出しになったような、鋭利な『不安』が全身を駆け巡る。


「……終わったの?」


 部屋の隅、闇が最も濃い場所に、いつの間にかティックが立っていた。

 その黄金の瞳は、これまでの冷徹な観測者のそれではなく、まるで手塩にかけた作品が期待以上の出来栄えを見せた時のように、妖しく、悦悦と輝いている。


「終わりじゃない。これは、招待状だ。君は今、迷宮の『臓器』としての資格を手に入れたに過ぎないのさ」


 ティックの言葉と共に、部屋の奥の壁が地鳴りを立てて割れ、新たな道が現れた。

 その先には、小さな、漆黒の扉。

 表面には、血のように赤い砂で描かれた砂時計の模様。


「新しい扉……。何が待っているのかしら」


「何が待っているかではないさ。君が何を『持ち込む』かだ」


 ティックは、アリスの背後に忍び寄るように影を揺らした。

 その黄金色の瞳が、迷宮の鼓動と完璧に共鳴している。


 アリスは扉に手をかけた。

 指先に伝わる金属の震え。

 それは、彼女自身の鼓動そのものだった。

 時間の核から放たれる、冷たくも神々しい光が彼女の背中を押し、彼女は躊躇うことなく、その新しい闇へと歩み出した。


 背後で、ティックの瞳が残像を残して消える。

 彼は知っているのだ。

 アリスがこの『時間の核』を動かしたことが、どれほど残酷で、どれほど美しい悲劇の始まりであるかを。


 選択と影、時間と意志――すべてが混ざり合い、アリスという名の『迷宮』が、今、産声を上げた。



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