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第十五話『純粋な変貌と迷宮を動かす意志』

 扉を押し開けた瞬間、アリスの鼓動は一度、完全に停止したかのような錯覚に陥った。

 そこは『空間』というよりも、巨大な鉄の獣の『胎内』であった。

 街の冷気とは質の異なる、粘り気のある闇。

 空気はひんやりと冷え切っているが、そこには数世紀分の埃と、酸化した金属の錆び、そして古びた図書館の奥底で朽ち果てた古紙の香りが、逃げ場のない澱みとなって充満していた。


 呼吸を一つするたびに、喉の奥から気管支、そして肺の隅々まで、鋭利なガラスの破片のような冷気が入り込み、内側から彼女を凍りつかせていく。

 アリスは、胸に抱えた二つの箱の重みを確かめた。

 時計職人の『沈黙の箱』は死者のように冷たく、時計屋の少女から託された『選ばなかった道の箱』は、中で無数の微かな粒子が擦れ合っているような、不快な振動を絶え間なく発している。


「……ここが、迷宮」


 呟いた言葉は、唇からこぼれ落ちた瞬間に闇に吸い込まれ、霧散した。

 耳を澄ますと、迷宮は静寂とは無縁だった。


 チクタク、チクタク……。

 カチリ、カチリ、カチリ……。

 ザラリ……。


 それは数万個の時計が一斉に刻む針の音であり、彼女の胸元で落ちる砂時計の摩擦音であり、そして壁の向こう側で迷宮そのものが、自身の構造を組み替えるために身をよじり、石と石を擦り合わせる断末魔のような音であった。

 単なる音ではない。

 この音の波そのものが、迷宮という名の機構(システム)の呼吸であり、アリスの精神を蝕む波形であった。


 アリスは手の中で砂時計を、壊さんばかりに握りしめた。


「怖い……でも、進まなきゃ。ここで足を止めれば、私の時間もこの迷宮の一部になってしまう」


 砂のざらつきが指先を刺激し、胸の鼓動と共鳴する。

 その微かな刺激だけが、彼女がまだ『生きている』ことを証明する唯一の(いかり)だった。


 迷宮の内装は、工房や街の景観をはるかに凌駕する狂気に満ちていた。

 壁は血の通わない石造りだが、その表面には赤錆びた真鍮の細管が、まるで剥き出しの血管のように走り、時折ドクン、ドクンと、重厚で不気味な脈動を伝えてくる。

 その脈動に合わせて、壁にかかる無数の時計の針が、痙攣するように跳ね上がった。


 時計たちの文字盤は熱で溶けたように歪み、数字は配置を無視して踊っている。

 ある時計は一秒を永遠のように引き延ばし、隣の時計は数十年を一瞬で駆け抜ける。

 互いにずれ続ける時間は、アリスが持っていた『秩序』という名の定規を、容赦なくへし折っていった。


 視界が歪む。

 影が幾重にも重なり合い、通路は二重、三重に見える。

 奥行きの感覚が喪失し、手を伸ばせば触れそうな壁が、次の瞬間には遥か彼方の崖のように遠のく。


「どっちに進めばいいの……?」


 その問いが虚空に消える前に、彼女の背後の闇が、物理的な質量を持って膨れ上がった。

 ティック――。

 黄金の瞳を持つその影は、人としての輪郭を持たない。

 ただ、アリスの背後で不定形の闇として揺らめき、彼女の視界を侵食している。

 だが、その存在感は、今や迷宮そのものの圧力よりも強固だった。


「さあ選ぶんだ。あるいは、捨ててきた自分に手綱を引かせるか」


 耳元で響く声は、性別さえ判別できないほどに無機質で、けれどアリスの魂の最奥を冷たく抉る刃のような鋭さを持っていた。

 ティックの黄金色の瞳は、闇の中でギラリと光り、アリスが何を選び、何に絶望するかを、一滴も漏らさず飲み干そうとしている。

 それは案内人の眼差しではない。

 獲物が罠にかかるのを待つような、あるいは傑作の完成を待つ芸術家のような、冷徹な期待に満ちていた。


 アリスは震える手で、職人から授かった『生きている地図』を広げた。

 そこにはまだ、道など描かれていない。

 真っ白な羊皮紙は、アリスの決断という名のインクを待っているのだ。


「……左に行くわ。怖くても、自分で選んだ道なら、地図は描かれるはずよ」


 覚悟を込めて告げると、地図の上に毛細血管のような細い朱色の線が、じわりと滲み出すように浮かび上がった。

 アリスはその一歩を踏み出す。


 左の通路は、物理的な法則を拒絶するように螺旋を描き、下方へと沈み込んでいた。

 歩を進めるたびに、空気は鉛のように重くなり、足元から這い上がってくる冷たさが、彼女が失った『名前』の傷口を抉る。

 通路の幅は徐々に狭まり、天井はアリスの呼吸を奪うほどに迫り、時折、胎内を這い進むような屈辱的な姿勢を強いた。


 アリスは『影を映す鏡』を取り出し、闇の中で覗き込んだ。

 その暗い鏡面には、先ほどの時計屋で出会った、あの『選ばなかった自分』の冷たい微笑が映っている。

 鏡の中の影は、迷宮の汚れ一つなく、ただアリスを蔑むように見つめていた。


「あなた……私の捨てた私。でも、私はこの空っぽの器に、新しい時間を詰め込んで進むの」


 鏡を胸に押し当てる。

 その冷たさが痛みに変わるが、アリスは屈しなかった。

 やがて、壁のあちこちに、病的な腫瘍のように埋め込まれた水晶が、鈍い光を放ち始めた。

 何気なく、その一つに指が触れる。


 その瞬間、世界が反転した。

 脳内に濁流となって流れ込んできたのは、忘れていたはずの、あるいは忘れたかった『記憶の残骸』だった。


 元の世界で、周囲に同調して本当の気持ちを飲み込んだ日の夕暮れ。

 目立つことを恐れて手を挙げなかった教室の静寂。

 自らの意志を砂場に埋めた、数え切れないほどの『逃避』の瞬間。


 それらが水晶から溢れ出し、通路の壁に巨大な影絵となって投影される。

 影の中の自分たちが、一斉にアリスを指差して嘲笑う。


『お前はいつだって、選ぶことから逃げてきた』


「違う…! あの時の私は、そうするしかなかったの!」


 アリスは叫ぶが、声は影を通り抜ける。

 手が震え、砂時計が指から滑り落ちそうになる。

 過去の後悔という重力が、彼女を石畳に縫い止める。

 迷宮は、彼女の心の傷口を丁寧に広げ、そこから『自分を信じる力』を吸い出し、彼女をただの歯車に変えようとしているのだ。


「過去は、脱ぎ捨てた古い皮膚だ」


 ティックの影が、耳元で冷笑を孕んだ声で囁いた。


「皮膚を抱きしめて泣いていても、新しい体にはなれない。今、何を『殺し』、何を『生かす』か。それだけが、この迷宮を黙らせる唯一の言葉になる」


 黄金色の瞳が、闇の奥で残酷に美しく光る。

 その視線は、アリスが後悔に窒息するのを冷ややかに眺めつつ、そこから立ち上がる『何か』を、狂おしいほどに求めている。


 アリスは指先に血が滲むほど砂時計を握りしめ、胸の奥で煮えくり返るような意志を固めた。


「そうだね。私は、あの時の弱かった私を連れて、ここを進むの。その後悔こそが、私が今、この足で歩いている証拠だから」


 迷宮はアリスの決意に呼応し、さらにその凶悪な構造を変貌させた。

 通路は突如として断絶し、アリスの目の前には、巨大な空洞が広がった。

 天井は遥か彼方でガラスのように透き通り、そこには星の代わりに、無数の巨大な時計の文字盤が、不気味に夜空を埋め尽くしている。

 足元には、一歩踏み外せば『存在そのもの』が消滅する時間の奈落。


 広場の中央には、何百、何千という小さな真鍮の歯車が、瓦礫のように積み上げられていた。

 それらが微かに震え、互いに干渉し合うたび、周囲の空間がぐにゃりと歪み、数秒前までそこにあった道が消滅しては、新しい分岐を生み出していく。


「一歩でも間違えば、私は二度と自分に戻れない……」


 アリスは『真鍮の歯車』と『生きている地図』を並べた。

 地図の朱色の線が、生き物の脈動のように激しく明滅し、警告を発している。

 ティックの気配が、彼女の肩越しに首を伸ばすようにして覗き込む。


「焦るな。鼓動の音を聞け。迷宮のノイズの中に、君だけの『拍動』を探すんだ」


 アリスは目を閉じ、周囲の時計の轟音を意識から切り離した。

 チクタクという騒音の奥に、自分の砂時計が奏でる『ザラリ、ザラリ』という微かな摩擦音を探す。

 指先を歯車の山に差し込み、感覚を研ぎ澄ませる。

 幾百もの歯車に触れ、その微かな『重み』の違い、振動『周期』を識別していく。


「……これだ」


 指先に、自分の魂の鼓動と完全に一致する振動が伝わった。

 彼女は一つの小さな、歪な形をした歯車を拾い上げ、広場の中央にある巨大な『基軸(ピボット)』の隙間へと、祈るように差し込んだ。


 キチ、キチ……ガチリ。


 完璧な噛み合わせ。

 その瞬間、迷宮全体を震わせる凄まじい地鳴りが響き渡った。

 狂ったように回っていた頭上の時計がピタリと停止し、霧散していた通路が一つの強固な『石の道』へと収束していく。


 ティックの気配が、初めて満足げに、そして深く愉悦に満ちたため息をつくように揺れた。


「お見事。一つの『真実』を回し、世界を確定させたわけだ」


 一本の道を走り抜けると、ついにその場所へ辿り着いた。

 光を鈍く反射する、黒金(くろがね)の扉。

 その表面には、精巧な時計の機構が彫り込まれ、中央にはアリスが持っている砂時計と全く同じ形状の、空虚な鍵穴が穿たれている。


「……ここが、第一層の核心」


 扉に手をかけると、それは鉄であるはずなのに、生き物の肌のような湿った温もりを持って震えた。

 ティックが、アリスを包み込むように囁く。


「その扉を開けたら、もう『ここに来る前の自分』は死ぬ。魂は、この迷宮の色に染まる。それでも、開けるかい?」


 アリスは、二つの箱を自らの血肉の一部であるかのように抱き直した。


「うん…。空っぽのまま、名前のない影として消えるより、化け物に変わってでも、私は私の最後を見届けたい」


 扉を押し開けると、そこは『時間の核(コア)』であった。

 部屋の中央に浮遊する、重力を無視して逆回転する巨大な砂時計。

 砂は落ちるのではなく上へと昇り、周囲の空気には金属と古紙、そして『誰かの涙』のような塩辛い匂いが濃厚に溶け込んでいる。


 アリスは職人の『沈黙の箱』から、予備の歯車を取り出し、核心の時計機構へと組み込んだ。


 カチリ。


 砂の昇る音が止まり、迷宮全体の時間がアリスの支配下にあるかのような、全能感と恐怖が混ざった感覚が彼女を襲った。


「影が、こんなに……」


 鏡を覗くと、中の影が以前よりも鮮明になり、不気味なほど慈愛に満ちた姿で映っていた。

 アリスの選択が現実を確定させるたび、彼女の『影』は肉体を得て、現実の彼女を侵食し、融合し始めている。


 ティックの黄金色の瞳が、その様子をじっと見つめている。

 アリスという少女の消失を惜しむ心など、微塵も存在しない。

 そこにあるのは、ただひたすらに『純粋な変貌』を愛でる、観測者の冷徹な愛だけだった。


「この時間を、私の選択として受け止める」


 決意が砂時計の光に染み込み、世界が白く爆ぜた。

 光と影が激しく渦巻き、迷宮のすべての針が、新たな、そして後戻りのできない残酷な運命のリズムを刻み始める。

 アリスの前には、さらなる深淵へと続く階段が伸びていた。

 彼女はもう、この迷宮を動かす『意志』そのものへと変貌しつつあった。



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