第十四話『選ばなかった道の器と自己の終焉』
時計職人の街は、昼も夜も、厚く重層的な『時間の匂い』に包まれていた。
それは剥き出しになった心臓が放つ生々しい熱気と、古びた大樹を数百年かけて燻し続けたような焦げた残香が混ざり合った、この世界独自の芳香だ。
石畳の隙間からは、凍てつくような冷たい空気が霧となって静かに湧き上がり、アリスの足首を、かつて切り捨ててきた未練のように、あるいは地底に潜む巨大な歯車の吐息のように絡め取る。
一歩、石を踏みしめるたびに、その振動が街の地下に血管のごとく張り巡らされた無数の歯車と共鳴し、微かな針の音がアリスの骨を伝って指先まで響く。
アリスは胸元の砂時計を握りしめた。
この見知らぬ、不条理なルールに支配された世界に墜ちて以来、彼女を唯一『私』という輪郭に繋ぎ止めているのは、掌の中で絶え間なく流れる砂の重みだけだ。
「……時間の厚みが、指から染み込んでくるみたい」
砂の粒が落ちる音。
それはアリスの心臓の拍動と重なり、三位一体となって、アリスという『形を失いかけた個体』をこの狂った世界の現実に繋ぎ止めていた。
街を歩く人々は、いつも通りだった。
しかしアリスの目には、彼らの動きがどこか遠く、まるで透明な膜の向こう側に映し出された不鮮明な幻灯のように見えた。
ある者は、まるで粘度の高い蜂蜜の中を泳ぐようにスローモーションで腕を上げ、またある者は、瞬きをする間に数メートル先へ、断絶した映画のフィルムのように移動する。
彼らの時間は、工房で目にした真鍮の歯車のように、不均一なピッチで回転している。
アリスがその傍らを通り過ぎても、彼らは視線一つ向けない。
まるで見えている波長が異なっているかのように。
「…私って、いったい誰なんだろう…」
石畳に吸い込まれたその声は、街灯の揺れる鈍い光に反射して、足元に細長く、不自然に折れ曲がった影を落とした。
彼女には、名乗るべき言葉がない。
奈落の底で、重力に引き裂かれるようにして奪われたその響きは、今や喉の奥で冷たく固まった、形をなさない化石のようだった。
遠くの時計塔が、物理的な衝撃波を伴うほどの重厚な低音で時を告げた。
カチリ、カチリ、カチリ。
音が耳ではなく、脳の髄に直接刻まれる。
その支配的なリズムの裏側で、微かに別の、もっと低い、湿った土のような鼓動が重なった。
――ティックの気配だ。
姿は見えない。
けれど、建物の影や、明滅する街灯の死角に、黄金色の火花が散ったような気がして、アリスは立ち止まる。
工房で影を膨張させ、存在感を増した彼は、今やこの街の影そのものとなって彼女を包囲し、その『決意』が熟し、崩れ落ちる瞬間を、飢えた猛獣のような忍耐強さで待ち構えているようだった。
街の角を曲がると、霧の中に、まるでそこだけが世界の裂け目であるかのように、小さな広場が浮かび上がった。
中央には、看板も、客を招く言葉も持たない古びた時計屋が佇んでいる。
扉は建物の自重に耐えかねたように微かに傾き、湿った木枠が軋む音は、遠い過去に置き去りにされた誰かの啜り泣きに似ていた。
鞄の中に忍ばせた、職人から譲り受けた『影を映す鏡』が、彼女の不安に呼応するように微かな熱を帯び、心臓の近くで疼き始める。
アリスは吸い寄せられるように、その店の扉をそっと押し開けた。
店内に流れ込んだ空気は、工房のそれよりもさらに濃縮された、金属の冷たさと焦げた木の匂いに満ちていた。
それは呼吸を阻害するほどに重たく、肺胞の一つ一つを銀色の粉末で埋め尽くしていくような感覚だ。
壁一面、天井の梁にいたるまで、隙間なく掛けられた無数の時計。
それらはすべて異なる時刻を指し、異なる周期で、狂った心臓のように不揃いな鼓動を奏でている。
ある時計は、狂おしい速さで針を回し、ある時計は、一分を刻むのに永遠を費やすかのように沈黙していた。
「ここは……選ばれなかった時間の墓場?」
店の奥、磨り減ったカウンターの向こう側に、一人の少女が立っていた。
アリスと同じ年頃。
同じ背丈。
だけど、少し波打った髪のライン。
だが、その表情は絶対零度の氷の下に閉じ込められた死者のように冷たく、双眸には鋭い、刺すような金色の光が宿っている。
それは、アリスが持っているはずの『温もり』を鏡写しに反転させ、冷酷な真理として固定したかのような姿だった。
「……あなた、誰?」
アリスは、震える声を絞り出した。
自分の名さえ持たぬ者が、他者の名を問うことの空虚さが、胸を鋭い棘で刺す。
少女は、アリスの戸惑いを透かして見るような視線で、残酷なほどに滑らかな声で答えた。
「私は、貴女が捨ててきた『名』の残響。そして、貴女が選ばなかった可能性の死骸よ。貴女がこちらへ来るために殺してきた、無数の『私』たちの声を聞きなさい」
少女の言葉が、物理的な重圧となってアリスの肩にのしかかる。
「私の、名前……。あなたが、それを持っているの?」
「いいえ。貴女はそれを、あの最初の奈落で、恐怖と引き換えに放り投げた。ここは時計屋の国。貴女が捨てた道、殺した未来、選ばなかった全ての時間が、精密な部品として精製され、組み上げられる場所。私は、その残骸の集大成。あったかもしれない記憶の、冷えた抜け殻なのよ」
少女は静かに、カウンターの下から一つの『箱』を取り出し、アリスの前に置いた。
それは職人から手渡された、あの絶対零度の『沈黙の箱』とは対極にあるような、ざらついた古い木の質感を持ち、表面には血管のような細い溝が彫られた、どこか呪術的な佇まいの箱だった。
「これは、貴女が迷宮で『選ばなかった道』を閉じ込めておくための器。これを持って、迷宮へ行きなさい」
アリスは、その箱から漏れ出す微かな振動に、吐き気にも似た眩暈を覚えた。
「……私の影を、この中に閉じ込めて連れていけというの?」
「そう。迷宮は、貴女が選ぶたびに、その裏側に『選ばなかった道』を排出し続ける。道が増えるほど、迷宮はより巨大に、より複雑に、貴女を食い尽くすために成長する。その重みに耐えられなくなった時、貴女は迷宮そのものの一部へと堕ちる。これは、貴女の自由を縛る重りであり、貴女の存在を証明する唯一の遺産よ」
アリスの指先が砂時計の上で激しく震えた。
視界の端で、黄金の瞳がほんの一瞬、期待と飢餓に満ちた揺らぎを見せる。
ティックだ。
彼は今、アリスが自分自身の『影』という呪いを自ら抱え込み、その過重な選択によって崩壊していく瞬間を、特等席で見物しているのだ。
「ねぇ…あなたは、私が迷宮へ行くのを止めたがっている?」
「いいえ。私は、貴女が今のまま『空っぽ』でいることを望んでいるだけ。迷うことをやめ、選ぶことをやめれば、貴女は痛みを知らずに済む。けれど迷宮は、貴女を変えるわ。それは、名前を奪われた貴女という脆い器を一度粉々に打ち砕き、全く別の、人間ではない何かへと作り変えるということ。貴女は、その変容を――今の自分を殺すことを、許せるの?」
アリスは沈黙した。
かつて名前を持ち、親しい人々の声に包まれていた、あの日の自分。
『迷うことが貴女を強くする』と詩を紡ぐ者に告げられ、光と影の境界線に立たされた、今の自分。
迷宮の奥深くへと進むことは、それら全ての、過去の『私』の断片を、一つずつ切り捨てていく儀式に他ならない。
「……私は、空っぽのままではいたくない。名前を奪われ、誰にも認識されず、ただの透明な影としてこの街に溶けて消えるくらいなら。たとえ変貌して、二度と元の私に戻れなくなったとしても。その結果、鏡に映る自分が、自分ではない恐ろしい姿に変わっていたとしても構わない」
震える声の奥底に、結晶化したような鋭い意志が混じった。
アリスは少女からその箱を、奪い取るようにして受け取った。
手のひらに刺さるような冷たさと、箱の奥底でうごめく無数の『選ばれなかった人生』の怨嗟にも似た振動。
「……私は、私を探しに行く。今の私を跡形もなく消し去るような残酷な真実だったとしても。私は、この歩みを止めない」
少女は悲しげに、あるいは冷徹な満足感を込めて、ゆっくりと目を細めた。
「じゃあ、行きなさい。その二つの箱と、四つの道具を抱えて。扉の先には、もう『昨日までと同じ貴女』はいないわ。貴女が跨ぐのは、自己の終焉と、迷宮の誕生を告げる敷居よ」
アリスは、職人の箱と少女の箱、そして授かった全ての道具を抱え、逃げるように時計屋を後にした。
出口の扉を蹴り開けるようにして外へ出ると、そこには迷宮の深淵が、星のない宇宙のような巨大な口を開けて待っていた。
肺の奥深くまで広がる冷たい息。
それは胸を刺し、同時に彼女の感覚を、神経が剥き出しになったかのように鋭敏に研ぎ澄ませていた。
「…………いこう」
一歩、闇へと踏み出す。
その瞬間、視界の端でティックの黄金の瞳が、かつてないほど強く、脈打つように激しく明滅した。
それは、凄惨な悲劇の幕が上がるのを待つ観客のような、残酷で、あまりにも美しい輝きだった。
迷宮は、彼女の最初の一歩に呼応し、地鳴りのような歯車の回転音を立てて、その姿を不気味に変容させ始めた。
アリスが選ぶたびに、迷宮は広がり、彼女自身もまた、迷宮を回す巨大な機構の歯車の一部へと、静かに、確実に堕ちていく。
砂の音。
歯車の音。
そして背後で揺れる黄金の影。
すべてを連れて、アリスは『自分』という迷路の奥底へと姿を消した。




