第十三話『五つの重りと未来を縫うための針』
アリスは絶対零度の冷気を湛えた『箱』を抱え、工房の扉を抜けて街路へと踏み出していた。
肺を焼くような夜の冷たい空気。
胸元でカチカチと乾いた音を立てて落ちる砂時計。
背後には、以前よりも一歩、二歩と距離を置いて、形を乱したティックの影が従っている。
迷宮の深淵へ向かう。
その決意を固め、彼女が暗い石畳に最初の一歩を刻もうとしたその時だった。
背後の工房の中から、錆びたバネが弾け飛ぶような、耳を劈く狂った笑い声が街路にまで溢れ出した。
「おいおいおい! 裸足で砂漠を歩き、素手で嵐を掴むつもりかい? 実に勇敢で、実に無作法だ! まだ『お土産』が残っているよ、お嬢さん!」
アリスは思わず足を止め、肩越しに振り返った。
開け放たれた工房の入り口から漏れ出す光は、先ほどよりも不自然なほどに明るく、そして不気味に明滅している。
職人の叫び声に、石畳の地面が微かに振動していた。
アリスは迷った末、吸い寄せられるように、今出てきたばかりの工房の敷居を再び跨ぎ、中へと視線を戻した。
そこには、さっきまで何もなかったはずの作業机の上に、四つの奇妙な品々が、まるで数千年前からそこにあったかのような顔をして鎮座していた。
銀の鍵、鈍く光る真鍮の歯車、光を吸い込む手鏡、そして古びた羊皮紙の地図。
アリスは『箱』を抱え直したまま、吸い寄せられるように机へと歩み寄った。
工房の空気は、再び金属の冷たさと焦げた木の匂いで密度を増し、この奇妙な『追加の授与式』へと閉じ込めた。
「さて、迷宮の滴をすくう時間だよ、お嬢さん。砂も、影も、そして絶望さえも、君の手がかたちを変えるための粘土になるんだ。滴は落ちるのを嫌い、影は踊ることを好む――わかるかい?」
職人は、空中で見えない指揮棒を振り回し、狂った旋律を奏でるように指を動かした。
「砂も時も、君の思い出の重さ次第で、黄金にも泥水にも変わるのさ。扉は開き、道は曲がり、影は笑うこともあるし、泣くこともある。すべては君が『どう見ているか』という、たった一つのレンズで決まってしまうんだよ」
アリスはまず、銀の鍵を手に取った。
指先に伝わる金属の感触は、鋭い電気を帯びていた。
「これは……『選択の扉』を開けるためのもの?」
「そう、扉は君が価値ある選択をしたときだけ、その頑固な口を開く。だが鍵を刺すことが、必ずしも正解とは限らない。時には扉を叩き壊し、時には扉そのものを無視して壁を抜ける……そんな野蛮な選択が、時間を最も美味しく料理することもあるんだ」
次に手渡されたのは、重厚な真鍮の歯車だった。
「迷宮の時間をねじる道具だ。回す速さ、組み合わせる角度、触れ方一つで、道はわずかに、けれど決定的に変わる。歪んでいるのは道じゃない、君の心だ、お嬢さん!」
職人が次に差し出したのは、暗い鏡面を持つ小さな手鏡だった。
「影を見るための鏡だ。君が選ばなかった自分、捨ててきた未来……それらがすべて、そこに映る。鏡の中の影は、時として持ち主よりも饒舌に、そして残酷に真実を語り出すからね」
その時、アリスが背にしたままの、**『外の街路へ繋がる開かれた扉』**から、新たな風が吹き込んできた。
それは街の冷気ではなく、冬の湖の底を思わせる、静謐で凍てつくような空気だった。
ゆっくりと、その開いた扉を抜けて、外から銀色の長い髪と、深い海のような青い瞳を持つ女性が入ってきた。
「……遅くなりました。迷宮の糸が、少しばかり絡まっていましたので。解くのに時間がかかってしまいました」
彼女の声は柔らかく、けれど心の深淵に直接響いてきた。
職人は満足げに彼女を紹介した。
「この者は、迷宮の詩を紡ぐ者だ、お嬢さん。君の歩む道を詩で照らし、君の影を編み上げる。君が迷えば迷うほど、彼女の詩はより高く響くだろう」
アリスは、街の闇から現れたその女性を見つめた。
「歌を……紡ぐ? 詩で何が変わるというの?」
女性は質問には答えず無言のまま、テーブルの上に一枚の羊皮紙――地図を広げた。
「迷宮はね、貴女がこれまでに選ばなかった道、踏み損ねた影の累積でできているの。正しい道なんて、最初からどこにも存在しない。道は、貴女が『ここを歩く』と選ぶという行為によって、初めて暗闇の中から切り出されるのよ」
彼女の瞳がアリスを射抜いた。
「……私は、ただ帰りたいだけ。名前を取り戻して、この狂った世界の歯車を止めたいの」
「目的があるのは良いことだわ。でも、迷うことを恐れないで。道に迷うことだけが、貴女の中に眠る『真実の輪郭』を強くするのだから。貴女が手にしている道具は、世界を変えるためのものではなく、貴女という時間を繋ぎ止めるための楔なのよ」
アリスは、砂時計を握りしめる手に力を込めた。
「だったら、私は選ぶ。たとえその先に、どんなに不格好な結末が待っていたとしても。ここで立ち止まるよりはましだから」
凛とした声が工房の厚い時間を切り裂いた。
職人は狂った指揮者のように笑い、傍らの歯車の回転速度を上げる。
「いいとも!遊び続ける限り、時間は紡がれ、世界は崩壊を免れる。これは君と、この迷宮との、終わりなき鬼ごっこなんだ!」
銀髪の女性が、そっと地図をアリスに差し出した。
「この地図を。道が消えた時、貴女の鼓動が次の線を引くでしょう」
アリスは、今度こそすべての道具を抱え、開いたままの扉から、再び外の世界へ、迷宮の闇へと足を踏み出した。
銀の鍵、真鍮の歯車、影を映す鏡、生きている地図、そして砂時計。
さらに腕の中には、沈黙の箱がある。
敷居を二度目に跨いだ瞬間、背後のティックの影が不気味に膨張した。
歯車を回せば、街の景色が生き物のように歪み、遠くの時計の針が、狂ったように時間を駆け抜ける。
「怖いな……でも、行かなきゃ。私の名前は、この暗闇のどこかにあるはずだから」
アリスが呟くと、ティックの影が大きく揺れ、その金色の瞳が、歪んだ歓喜の光を宿した。
砂時計の砂が落ちる。
アリスは迷宮の深淵へと、最初の一歩を深く踏み込んだ。
一歩ごとに、空気の密度、地面の振動、影の囁き、光の反射が、アリスの『選択』に応答し、進路を書き換えていく。
遠ざかる工房から、職人と詩を紡ぐ者の声が重なり合って響いた。
「遊び続ける限り、時間は紡がれる」
「迷うことが、貴女を強くする」
アリスは前を見据えた。
地図の線はまだ絡まり、ゴールは見えない。
けれど、歩くたびに、道は彼女の意志によって一本の「線」として確定していく。
もう、ただの迷い子ではない。
アリス自身が、迷宮を織り成す唯一の「針」となっていた。




