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第十二話『無意識の修理と太りすぎた影』

 工房の扉を閉めた瞬間、世界から一切の風が消え失せた。

 アリスは、砂時計を握りしめたまま、その場に縫い付けられたような沈黙の中に立っていた。

 以前訪れた時よりも、工房内の空気は明らかに『重く』変質している。


 鼻腔の奥にまとわりつく金属の匂いは、研ぎ澄まされた刃物のように鋭く、一方で古紙の香りは、数世紀分の埃を砂糖で煮詰めたかのように、ねっとりと甘ったるい。

 油の匂いが層を成して重なり、吸い込むたびに肺が重金属で満たされていくような感覚に陥る。

 まるで時間そのものが、この狭い空間で煮沸され、逃げ場を失ってドロドロとした琥珀色の濃度を持って溜まっているかのようだった。


「空気が、動かない。喉に張り付くみたい」


 アリスの独白に、机の向こう側に座る職人が、錆びたバネのような音を立てて顔を上げた。


「それはそうだ、お嬢さん。当たり前じゃないか! 君が迷宮で選んだ『加速』は、ただ速く進むためのものじゃない。時間を極限まで圧縮し、密度を高め、この世界を『厚く』してしまったんだからね。薄っぺらな時間はすぐに霧散して消えるが、厚みを持った時間はこうして床に沈殿し、住人の足首を掴んで離さない。素晴らしい重力だと思わないかい?」


 職人が広げた巨大な設計図の上に、アリスの視線が滑り落ちる。

 それは、ただの時計の図面ではなかった。

 緻密に描かれた無数の歯車、毛髪よりも細い線、そして奇妙な記号。

 それらは重なり合い、アリスの瞳の奥で、かつて住んでいた街の境界線、通っていた学校の廊下、公園のベンチの配置図へと姿を変えていく。

 世界そのものの『断面図』が、そこに剥き出しにされていた。


 アリスは吐き気を堪えながら、その図面を凝視した。

 図面の中の歯車と歯車は、どれもが数ミクロン単位でわざと噛み合わないように設計されていた。

 その『ずれ』が、アリスの耳の奥で、あの迷宮の底流に流れる不快な軋みと同じリズムで脈打っている。


「ねぇ、どうして全部ずれているの?」


「直そうとすれば壊れる。壊そうとすれば直る。それが時間の意地悪な性質さ。パンもね、薄く切りすぎるとすぐに乾いてただのゴミになる。だが厚切りなら、噛むほどに味わいが出るだろう? 今のこの世界は、君の贅沢な選択のおかげで、最高に噛みごたえのある『厚切りな時間』に変わってしまったんだ。おめでとう、お嬢さん!」


 職人が大げさに手を叩くたびに、舞い上がった紙の粉が、窓から差し込む斜光の中で銀河のようにゆっくりと旋回し、時間の塵となってアリスの肩に降り積もった。


「つまり、私が選ばなければ、迷宮はもっと薄く、どこまでも広がっていたということ?」


「さあね! 広がったかもしれないし、縮んだかもしれない。迷宮はいつだって気分屋だ。昨日は砂糖、今日は塩。明日は君を溶かす胃酸かもしれない。だが、君は『厚み』を選んだ。その代償として、君はより深く、より重い場所へと潜らなければならない。潜水服もなしにね!」


 アリスは眉をひそめ、背後の影を振り返った。

 いつもなら、ティックがここで冷酷な補足や、自分を試すような皮肉を投げかけるはずだった。

 しかし、金色の瞳を持つ観測者は、設計図と職人の顔を交互に見つめたまま、いつになく形の定まらない影を激しく揺らしていた。

 その視線には、全知を気取っていたかつての確信が欠片も存在しない。


 職人が、いつの間にか机の下から、一つの『箱』を設計図の真ん中に置いた。

 それは、大人の掌に収まるほどの、黒ずんだ金属の箱だった。

 箱の表面からは、物理的な温度を通り越した『絶対的な静止』の冷気が立ち昇っている。

 中央には、アリスが持っている砂時計と寸分違わぬ形の、深い鍵穴が口を開けていた。


「これは『箱』だよ、お嬢さん」


「……見れば分かるよ」


「そう、見れば分かる。立派な目を持っているね! だがね、中身は見ても分からない。そしてこの不条理な世界では、分からないものほどよく壊れ、壊れたものほどよく喋るんだ」


 職人は指先を立て、空中に逆再生のような、ぎこちなく歪な円を描いた。


「これを運ぶんだ。迷宮の、いちばん『静かな場所』へ。あらゆる音が消え、時間が自らの足音を聞き忘れてしまうほどに深い場所だ。そこなら、このお喋りで騒々しい時間を、永遠に黙らせることができる」


「時間を…黙らせる?」


 アリスが驚いて振り返ると、彼の影は一瞬だけ霧散し、まるでノイズの走る映像のように不自然な形に再構成された。


「行くしか、ないね…」


 ティックの声は、いつもの艶と響きを失い、湿った砂が崩れるような低く曖昧な色を帯びていた。

 彼は何かを恐れているのか、あるいは職人の言葉が、彼の知る『脚本』を書き換えてしまったのか。


 アリスは震える指を伸ばし、箱の表面に触れた。

 指先から腕へ、そして心臓へと、感情を凍結させるような絶対零度の静寂が駆け抜けた。


「どうして……どうして、私なの? 私はただ、名前を取り戻して、元いた場所へ帰りたいだけの、何者でもない子供なのに」


 職人は、設計図の上に描かれた小さな歯車を一つ、指で愛おしそうに弾いた。

 カチリ、と硬質な音が冷たい工房に響き渡る。


「それはね、お嬢さん。君がもう『直してしまった』からだよ。君が迷宮を歩き、迷い、絶望しながらも選び続けるたびに、君の無意識が世界の小さな歪みを勝手に矯正してしまったんだ。本人が気づかないうちに、綻びを縫い合わせ、壊れたネジを締め直してしまった。君の存在そのものが、この壊れかけの時計への『修理』になっているのさ」


 アリスは絶句し、息を吸うのを忘れた。

 自分がこれまでに下してきた『帰りたい』という一心での選択が、自分をさらにこの世界に縛り付け、狂った理を補完していたという事実に、目眩がした。


「選ぶことは、生きることだ。だが、選ばなかった自分は『影』になる。影はね、放置すれば時間を食い散らかす不届き者だ。食べすぎればお腹を壊し、その嘔吐物が新たな迷宮になる。今の君の影は、少しばかり太りすぎているようだね? お嬢さんの影にしては、あまりに食欲が旺盛すぎる」


 職人は、アリスの足元でどろりと重たくうごめく影を、不気味な笑みを浮かべて指差した。

 そこには、左の道を選んだ時に捨て去った、右や真ん中の道へ進んだはずの『私』の残骸が、怨念のような静寂を保って息を潜めていた。


「怖い……。でも、選ばないと、この影に飲み込まれてしまうんだ」


 アリスは箱を抱え、逃げるように工房の出口へと向かった。

 扉を開けると、街の冷たい空気が肺を焼き、砂時計の砂が胸元でカチカチと乾いた音を立てる。

 ティックの影が、以前よりも一歩、二歩と遅れて、彼女の後ろをついてくる。

 その距離感には、修復不可能な『不均衡』が生じ始めていた。


「怖いか。いいことだ! 恐怖こそが、君を君たらしめる唯一の重りだ。だからこそ迷宮は君を愛し、君を離さないんだよ。」


 職人の壊れたレコードのような笑い声が、工房の奥でくるりと回り、時間を無慈悲に攪拌した。


 アリスは歩き続ける。

 それはもはや、誰かに命じられた任務でも、迷子を卒業するための試練でもなかった。

 自分の名前を、自分の時間を、たとえ世界がどれほど歪もうとも、自らの意志で強奪し、選び取るための、孤独な進軍だった。


「怖い……でも」


 アリスは小さく息を吐き、目の前に広がる歪んだ街の闇を睨み据えた。


「選ばなきゃ、私自身が消えてしまう」


 背後で揺れるティックの金色の瞳。

 抱えた箱の冷たさ。

 迷宮の核心はまだ見えない。

 けれど、一歩踏み出すたびに、アリスは確実に『時間の所有者』へと近づいていた。



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