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第十一話『別の絶望と一回転した秒針』

 迷宮の奥、重厚な沈黙が支配する空間を抜けた瞬間だった。

 壁に埋め込まれた無数の時計――その一つ一つが、まるで意思を持つ臓器のように痙攣し、目に見えない指揮者に操られたかのように、一斉に震えた。

 カチリ、という硬質な音が重なり合い、バラバラだった秒針たちが、鋭い刃を突きつけるように一点を指して揃う。


 その拍動が空気を激しく叩き、迷宮の出口から一条の風が吹き抜けた。

 それは、金属の冷たさと古木の温かさが矛盾したまま混ざり合った、この世界の『血』のような風だった。

 風はアリスの頬を撫で、肺の奥深くまで『異世界の生活』の匂いを流し込んでいく。

 微かな機械油の匂い。

 古い羊皮紙が風化していく乾燥した香り。

 そして――どこか懐かしく、胸を締め付けるほどに甘く、ほのかに焦げた砂糖の匂い。


「……時間の、味がする」


 アリスは無意識にそう呟いた。

 それは単なる嗅覚の錯覚ではなく、舌の上に『誰かがかつて過ごした日常』を直接乗せるような、抗いがたい重みを持った感覚だった。

 その風に誘われるように、空間の歪みから、見覚えのある木製の扉が、水面に浮かぶ死体のように静かに浮き上がった。


 扉を押し開けると、そこには以前歩いたはずの『時計職人の街』が広がっていた。

 だが、その景色はアリスの網膜を裏切るように変容していた。

 街灯の光は石畳の上で銀色の水銀のように波打ち、足元の小石を一つ踏むたびに、氷の針を刺すような冷たさが背筋を伝う。

 空気は冬の真夜中のように凛として冷え切っているが、街の奥から漂う焼き立てのパンの香ばしい匂いが、凍えそうな心を暴力的なほどの温かさで包み込む。

 軒先に吊るされた木製の看板が不規則に揺れ、滴る露の冷たさが指先に触れる。

 そのすべてが、迷宮の『概念的な恐怖』とは違う、逃げ場のない『現実』として迫ってきた。


「……戻れた。確かに、戻ってきたはずなのに」


 アリスの声は、濃密な空気に溶けて、街灯の影の中に吸い込まれるように消えた。


「戻れたね。もっとも、『戻る』という言葉が意味を成していればの話だけど」


 背後でティックの影が長く伸び、金色の瞳が暗闇の中で一際鋭く光を放った。

 その声は穏やかだったが、迷宮で増えた記憶の傷口を、指先で愛撫するようにかき回す不気味な響きを帯びていた。


 街の中心にそびえる時計塔を見上げ、息を呑んだ。

 巨大な真鍮の針は、以前よりもわずかに歪み、まるで何かに耐えかねるように、のたうち回りながら円を描いている。

 その歪みが空気を物理的にねじ曲げ、遠くで鳴る風鈴のような、あるいは凍った水たまりに亀裂が走る瞬間のささやきのような、微かな不協和音を街中に撒き散らしていた。


「……時間、ちゃんと戻ってない気がする。何かが、ずっとずれているような」


「戻ってはいないよ。時間は一方向にしか流れない。たとえ一周して同じ場所に戻ってきたとしても、それは一回転したあとの、別の絶望だ。君が迷宮で選んだ『加速』が、この街の歯車の油となって染み込んでいる。君は街を救ったんじゃない。君の色に塗り替えたんだよ」


 ティックの影は、嘲笑うわけでもなく、ただ標本を分類する学者のように冷徹に事実を告げた。

 アリスは胸元の砂時計をぎゅっと握りしめた。

 ガラスの中の砂粒は、不規則な心臓の鼓動と完全に同期して震え、一粒が落ちるたびに、命が削り取られていくような感覚に陥る。


 吸い寄せられるように、アリスは以前訪れた工房の扉を開けた。

 一歩踏み込むと、空気の比重が一段と増した。

 木と油の濃厚な匂い。

 工房内の棚には、大小さまざまな時計が、死んだ小動物を剥製にしたかのように並んでいる。

 時計の文字盤の奥には、あまりに精密で、あまりに不気味な『小さな世界』が閉じ込められていた。

 そこには米粒ほどの大きさの人々が暮らしており、ぎこちない、カクカクとした動きで生活を営んでいる。

 彼らの動きは、時計の針の刻みと一分一秒の狂いもなく一致していた。

 針が飛べば彼らも一瞬で移動し、針が止まれば彼らもまた、食事の最中のスプーンを掲げたまま、石像のように固まる。

 その光景は、もはや生きた人間への侮辱のようにも見え、アリスは指先に走る震えを抑えることができなかった。


「おや……帰ってきたのかい、お嬢さん! 素晴らしい、実に素晴らしい。間に合わなかったが、早すぎたというわけでもないな!」


 奥から現れた時計職人は、以前よりもさらに『壊れて』見えた。

 顎髭はほうきのように逆立ち、白髪交じりの髪は静電気を帯びたように揺れている。

 深い藍色の瞳は、光の角度によってティックと同じ、燃えるような金色の狂気を宿していた。


「あなたは……本当は何を作っている人なの? この時計の中の人たちは、一体……」


 アリスの問いに、老職人は大げさに肩をすくめ、自分の帽子を叩くようにして笑った。

 その笑い声は、錆びた歯車が噛み合うような、甲高い響きだった。


「作っている? いやいや、お嬢さん。わしは何も作っちゃいない。時間は、道端に生える雑草のように勝手に増えるものさ。わしはただ、こぼれて腐らないように、銀の受け皿を置いて整理しているだけなんだよ。整列! 右向け右! 左は迷宮! さあ、行進だ!」


「受け皿……?」


「そうさ、時間は砂だ。それも、まだ乾いていない、ねっとりした湿った砂さ。ぎゅっと握ればお望みのケーキの形になるが、お喋りに夢中になって力を抜けば、あっという間に指の間から泥になって逃げていく。無作法なことだ!」


 職人は棚に並んだ一つ、不気味に笑うピエロの振り子時計を指先で弾いた。


「いいかい、厚い時間は、頑丈な椅子のようなものだ。どっしりと座って、お茶を楽しめる。だが、薄い時間は紅茶の湯気と同じさ。あると思った瞬間、もう鼻の奥の記憶にしか残っていない。

 君が今飲んでいるのは、湯気か? それとも椅子か?どちらにせよ、お代は頂くよ!」


 職人の瞳が、ぐるりと回ってアリスの足元を指した。


「おっと。……困ったことだ。お嬢さん、君の靴底はもう、迷宮の砂だらけじゃないか。掃除夫を呼ぶか、それとも君の足を切り落とすべきか。どちらがより『時間通り』かな?」


 その言葉を聞いた瞬間、背後のティックの影が鋭く、攻撃的なまでに跳ねた。


「……それを、君が言うとは思わなかったな。領域を侵犯しすぎじゃないか?」


 ティックの声には、隠しきれない不快感――あるいは、自分だけが知るべき秘密を暴露された者の苛立ちが混じっていた。

 職人はそれを気にする様子もなく、空中で目に見えないティーカップを回すような仕草をした。


「選ばれなくなった時間はね、夜中に勝手に歩き出して、迷宮になるだけなのさ。君が引き連れているその影も、元を正せば『君が選ばなかった時間』の食べ残し。放置すれば、この街もすぐに迷宮の腹の中に収まってしまうだろう。実においしいご馳走さ!」


 アリスは砂時計を、壊れるほどの力で握りしめた。


「……じゃあ、私は。選び続けないといけないの?そのたびに、影を増やして、自分を削って……」


 職人は一拍置いて、狂った指揮者のように、楽しそうに手を叩き、足を踏み鳴らした。


「いいとも!お嬢さんが迷い、血を流し、選び続ける限り、新しい時間はわんさかと作られる。君はこの世界の心臓、止まらない振り子、そして……永遠に終わらない茶会の主賓なんだよ!」


 工房を出ると、街の空気は先ほどよりもわずかに軽くなっていた。

 だが、それは自由の軽さではなく、何かが決定的に欠落したことによる、虚無の軽さだった。

 金属と木の香りがやわらかく混ざり合い、雨上がりの石畳に街灯の光が優しく揺れている。

 水たまりの波紋、夜風の冷たさ、そのすべてが『私が選んだ、歪んだ時間』としての重みを持って、アリスの身体にのしかかってくる。


 ティックの影が、再び背後にぴったりと寄り添った。

 金色の瞳が、獲物を定めるようにアリスのうなじを見つめる。


「次は、もっと難しい選択が来る。君が自分の手で、あの暖かな過去の扉を閉じた、その残酷な報いのような選択だ。甘くて、そして君の喉を焼き切るほど苦い選択がね」


 その声は、心底から楽しげで、それでいてアリスが絶望に染まる瞬間を、涎を垂らして待ちわびているような響きだった。

 アリスは、砂が落ちる静かな音に耳を澄ませた。

 立ち止まることも、迷うことも、この不条理な街の鼓動を加速させる。

 選ばなかった自分という影を、鎖のように引きずって。

 靴底にこびりついた迷宮の砂の感触を噛み締めながら、新たな街の闇へと足を踏み出した。


 自分の時間を、アリス自身の意志で、この世の誰よりも無慈悲に作り上げるための旅は、まだ始まったばかりだった。



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