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第十話『未来への処刑台と名もなき探索者』

 街の光が、まるで潮が引くように音もなく薄れていく。

 時計職人の街が奏でていた規則正しくも重厚な鼓動が遠ざかり、世界の輪郭が、墨汁を垂らした水面のように曖昧に、そして残酷に溶け出していく。

 その『世界の外れ』――あるいは、現実と非現実がもっとも薄く重なり合った場所に、ひっそりと迷宮の入口が現れた。


 それは、唐突にそこに出現したというより、最初からそこに存在していたものが、アリスの『決意』という波長に合致した瞬間に、ようやく視認できるようになっただけのようでもあった。


 目の前にそびえるのは、年月を吸い込み、黒ずんだ古い木製の扉だった。

 しかし、その木目は奇妙なことに、鈍い真鍮のような冷たい光を放っている。

 表面には、まるで夜空の星々を撒き散らしたかのように無数の鍵穴が並んでいた。

 穴の形は円形、三角形、あるいは歪な多角形と、どれも微妙に異なり、それぞれが独立した『眼』のようにアリスを値踏みし、冷酷に観察している。


 扉の全面に刻まれた巨大な時計のレリーフでは、針がカチ、カチと絶え間なく回っていた。

 この場所だけが、世界全体の流動から切り離され、永遠という名の釘でここに縫い留められていることを示している。


 ティックの影が、アリスの背後で音もなく、まるで生き物のように揺れた。


「ここは『選択の扉』だよ。僕が思うに、何を選ぶかで、開く鍵そのものが形を変えてしまう場所だ。……もっとも、君自身がこの扉に適合する鍵にならなければ、これはただの壁と同じ、冷たい障害物でしかないけれどね」


 ティックの声は、説明というより、ただ動かしようのない事実をそこに置いただけのような、平坦な響きだった。

 アリスは、自分の名前が欠落しているという事実を、胸の奥の冷たい空洞として再認識した。

 ティックは決して彼女を名前で呼ばない。

 呼べるはずがないのだ。

 名前というアイデンティティを奪われた事実は、この国において、彼女に『存在する権利』がないことを残酷に突きつけていた。


「……ここに入ったら、もう戻れない気がする」


 アリスは、震える指先を扉の表面へ伸ばした。

 指が木目に触れた瞬間、ひやりとした冷たさが脳漿を揺らし、同時に扉の微かな隙間から、澱んだ暗い空気が流れ出してきた。

 その空気には、湿った土や錆びた鉄の匂いだけでなく、捨ててきたはずの、あるいは無理やり引き剥がされた『過ぎ去った時間の腐臭』が混じっていた。


 それは問いというより、自分自身に向けた、か細い生存確認のような独白だった。

 ティックの影は、その言葉を否定も肯定もしなかった。

 ただ、静かに首を縦に振り、金色の瞳でアリスの背中を見つめ続ける。


「進むことも、引き返すこともできる。でもね、どちらも平等に『選択』なんだよ。そして、どちらを選んでも、選ばなかったという事実だけは消えず、この国の泥となって、君の足元に永遠に溜まり続けるのさ」


 ティックの一人称である「僕」という響きには、少年の無邪気さと、老人の冷酷さが同居していた。

 アリスは唇を噛み、その扉を、自らの体重を預けるようにして押し開けた。


 軋む音とともに、世界の内側へと足を踏み入れる。

 迷宮の中は、思いのほか静かだった。

 石造りの壁には無数の時計模様が彫り込まれ、それぞれの文字盤が、海底に沈む燐光のように淡い光を放っている。

 チクタク、カチカチ、サラサラ。

 精緻な歯車の音に混じって、どこかで砂が落ちる音が、雨垂れのように絶え間なく響いている。

 それは、この迷宮そのものが、巨大な砂時計の内部であることを示唆しているようだった。


 歩くたび、壁の時計たちがアリスの存在に反応した。

 針が狂ったように加速し、かと思えば死を待つ病人の最期の鼓動のように、重たく遅くなる。

 ときには、完全に沈黙し、次に息を吸うまで、世界そのものを静止させる。

 まるで迷宮がアリスの心拍を覗き込み、その不安を気まぐれに模倣して遊んでいるかのようだった。


 迷宮の道は、同じ形をしているようで、決して同じではない。

 角を曲がるたび、空気の比重が変わり、影の形が揺れ、胸の奥に小さな『痛み』が増えていく。

 その痛みは、記憶が、あるいは欠落した記憶の端々が、再びアリスの内側で脈打ち始めている証拠でもあった。


 やがて、道は三つの巨大な空洞へと分かれた。


 左、真ん中、右。

 三つの道はどれも似通った石造りのアーチだが、近づけばその本質的な違いが、皮膚を刺すような違和感として伝わってくる。


 左の道からは、猛烈な風が吹き荒れていた。

 時間は押し寄せる津波のように加速し、壁の針はもはや視認できないほどの速さで回転している。

 変化と消耗の道。

 真ん中の道は、不気味なほどに静かだった。

 空気が重く沈殿し、針は一分進むのに永遠を要するかのようだ。

 停滞と安息の道。

 右の道は、死そのものの静寂だった。

 針は微動だにせず、ただ影だけが不安定に揺らぎ、存在の不確かさを嘲笑っている。

 虚無と停止の道。


 アリスは足を止めた。

 それと同時に、迷宮全体もアリスの迷いに合わせて息を潜め、一粒の砂が落ちる音さえも重厚な意味を持ち始める。


 肩に乗った影が、耳元に口を寄せるようにして、甘く、懐かしい響きで囁いた。


『こっちだよ』


『もう、頑張らなくていい。戻れるよ、あの温かな場所へ』


 目を閉じると、不意に、封印されていたはずの鮮明な記憶が浮かび上がった。

 夕暮れ時。

 幼い自分が、誰かに手を引かれ、知らない場所へ連れて行かれる光景。

 その相手の顔は見えない。

 だが、その大きく温かい手が、アリスの掌にそっと砂時計を握らせた瞬間の、確かな重みと温度。


「この手は……誰の手だったんだろう。……ティックが、私をここへ連れてきたの?」


 思わず声に出した問いに、ティックは影を揺らして答える。


「さあね。君の記憶を並べ替えたのは僕じゃない。その砂時計をどう使うかを決めたのも、君自身だ。今見えている景色は、君の過去という材料で作られた、君だけの迷宮なんだよ」


 影が誘うようにアリスの手を取る。

 触れた瞬間、胸に鋭い痛みが走った。

 それは後悔でも恐怖でもなく、一つの『可能性』を殺し、別の『現実』を選ぶという行為そのものが持つ、残酷な重さだった。


 アリスは、砂時計を砕かんばかりの力で握りしめた。

 砂が落ちる音が迷宮全体に広がり、不揃いだった三つの道の鼓動を、無理やり一つに束ねていく。


「……行こう」


 選んだのは、左の道だった。


 時間の薄い道を進むにつれ、肩の影は少しずつ淡く透けていき、選ばなかった世界の記憶が遠ざかっていく。

 胸の重みは消えていくが、その分、自分の足元が心許なくなる。

 確かさを得るほどに、不安もまた増幅していく――それが『選択』の正体なのだと、アリスはようやく魂で理解した。


 やがて、道の突き当たりに壁一面を覆うほどの巨大な時計が現れた。

 その針が、アリスの影を正確に、一本の杭を打つように指し示した瞬間、迷宮全体を震わせる鐘の音が鳴り響いた。

 石壁が激しく軋み、隙間から眩いばかりの、それでいて優しい『光』が漏れ出す。


 その先に見えるのは、雨上がりの街角だった。

 自分の家の、見慣れた古びた木製の扉。

 玄関に飾られた、少しだけ狂った時計の絵。

 雨上がりのアスファルトが放つ特有の匂いと、夕食を告げる誰かの家の台所から漂う香り。

 すべてが、本当の帰る場所を、極上の誘惑とともに示していた。


「戻れる……今なら、まだ戻れる……」


 心が激しく揺れ、瞳に涙が浮かぶ。

 扉に手をかけさえすれば、この奇妙な迷宮も、金色の瞳の観測者も、すべてはただの一時的な悪夢として霧散するだろう。


 けれど。

 アリスは、扉を『押さなかった』。

 代わりに、その開かれた光の隙間に指をかけ、指先が白くなるほどの力を込めて、扉を力一杯『閉じた』のである。


「……決めた。私は進む。名前を取り戻すまで、私が戻る場所なんて、どこにもないから」


 カチリ、と逃げ道を完全に断つ決定的な音が迷宮に響き渡った。

 その瞬間、迷宮を支配していた重圧は驚くほど軽くなり、アリスの胸の奥に、痛みではない確かな『熱』が差し込んだ。


 自らの意志で、かつての日常への安易な帰還を拒む。

 それは、名前を奪われた『名もなき少女』が、この不条理な世界の真の探索者として、初めて自分の足で大地を踏み締めた瞬間だった。


 ティックの影が背後で満足げに、そして歪に揺れ、その瞳が闇の中で鋭く光る。


「素晴らしいよ。君は今、自分自身の手で、未来への処刑台を組み上げたんだ。……さあ、行こう。砂時計の砂は、まだ少しだけ残っている。次のステージが、君の到着を待っているよ」


 アリスは、もう振り返ることなく歩き出した。

 迷宮の石畳は微かに震え、時計の針は回り続ける。

 彼女は――未来を選ぶ旅を、ようやく自分自身の『時間』として歩き始めたのだった。



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