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第一話『三時十五分の停滞』

 雨上がりの街角は、まるで現像に失敗した古い写真のように色褪せて見えた。

 アリスは、慣れない手つきで傘をたたんだ。

 指先に残る雨滴の冷たさは、体温を奪うというより、皮膚の境界線を曖昧にしていくような不快感がある。

 手にしているのは、くすんだネイビーの折りたたみ傘だ。

 中学に上がる前、母が『汚れが目立たないし、制服にも合うから』という理由だけで買ってきたもの。

 アリス自身は、もっと透明な、雨空を透かして見ることができるようなビニール傘が欲しかった。

 けれど、その小さな望みを口にすることはなかった。

 文句を言うために必要なエネルギーは、今の彼女の中には一滴も残っていなかったから。


「……冷たい」


 独り言さえ、湿った空気に吸い込まれて消える。

 革の持ち手は水分を吸ってわずかに重みを増し、掌にじっとりとした感触を刻みつけている。

 視線を落とすと、アスファルトの窪みにできた水たまりがあった。

 そこには、灰色の雲の切れ間から覗いた『裂けた空』が揺れている。

 街のどの景色よりも、その水底にある空の方が明るく見えるのは皮肉なことだと、アリスは思った。


 その時だった。

 波紋が静まり、鏡のようになった水面に映る自分の姿を見つめていたアリスは、心臓の奥が跳ねるような感覚に襲われた。

 水の中の『自分』――その影が、アリス本体が動いていないにもかかわらず、一瞬だけ、前のめりに揺れたのだ。

 まるで、立ち止まっている本体を急かすように。

 あるいは、水底にあるあの明るい空へ、今すぐ飛び込もうとしているかのように。


「気のせい……だよね」


 アリスは慌てて視線を上げた。

 周囲を見渡すが、そこにはいつもの、退屈で灰色の街並みが広がっているだけだ。

 しかし、何かが決定的に欠落していた。


 ――音が、足りない。


 さっきまで聞こえていたはずの、遠くを走る車の走行音。

 誰かの話し声。

 濡れた路面を跳ねる自転車の音。

 それらすべてが、分厚いカーテンで仕切られたかのように遠ざかっていた。

 聞こえるのは、自分の肺が空気を出し入れする、ひゅ、という心許ない呼吸音だけ。

 時間そのものが、巨大な生き物の肺胞の中でひそやかに息を潜めている。

 そんな錯覚に陥る。


 ぽきり。

 不意に、傘の骨が閉じる音が静寂を切り裂いた。

 その乾いた音を合図にするように、胸の奥に冷たい影が落ちる。

 孤独と名づけるにはまだ早く、けれど無視するにはあまりに確かな、黒いシミのような違和感。


「もう雨、やんだのかな」


 誰に向けたわけでもない言葉は、霧のように散っていく。

 この街は、言葉を拾わない。

 ただ無機質に飲み込み、何事もなかったかのように日常を流していく。

 アリスは、いつものように周囲の空気に、その停滞した時間に身を任せて歩き出そうとした。

 だが、彼女の足は、意思とは無関係に凍りついた。


 見慣れたはずの通りの一角に、『それ』はあった。


 木製の、古びた扉。

 看板はなく、真鍮の取っ手はくすんでいる。

 アリスはこの道を、三年間毎日通ってきた。

 昨日の帰り道も、今朝の登校時も、ここにはただの灰色のコンクリート壁があったはずだ。

 それなのに、今、そこには古色蒼然とした店構えが、まるで何百年も前からそこに根を張っていたかのような顔をして鎮座している。


 扉のガラスは白く曇り、中の様子は伺えない。

 ただ、扉の中央に彫られた精巧な『時計』のレリーフだけが、奇妙に鮮明だった。

 針も数字も、職人の執念がこもったかのように細密に彫り込まれている。

 驚くべきことに、その彫刻の針が、微かに揺れていた。


 チク。

 チク。


 音は聞こえない。

 だが、光の反射が、針の震えが、まるで心臓の鼓動のようにアリスの視覚を刺激する。

 そのリズムは、先ほど水たまりの中で見た『影』の揺らぎと、完璧に同期していた。


「……こんな店、あったっけ」


 喉の奥が、焼けるように熱い。

 思い出そうとすればするほど、記憶のパズルが崩れていく。

 知らないはずなのに、指先が、その扉の取っ手の冷たさと、回す時の重さを知っている。

 そんな馬鹿げた既視感(デジャヴ)が、全身の毛羽を立たせる。


 ――ここに来たら、帰れなくなる。


 深い場所から、誰かが警告している。

 引き返せ。

 いつものように、目を伏せて。

 見なかったことにすれば、世界はまた『いつも通り』の退屈な優しさで君を包んでくれる。


 けれど、アリスにはその一歩が踏み出せなかった。

 アリスという少女の人生は、常に選択の放棄で成り立っていた。

 夕食の献立、進路の希望、友人との付き合い。

 すべては他人が用意した選択肢の中から、最も波風の立たないものを選び取るだけ。

 あるいは、選ぶことすら他人に委ねてきた。


 今、目の前の扉は、アリスに沈黙を突きつけている。

 誰も『入れ』と言わない。

 誰も『入るな』と叱ってくれない。

 その、人生で初めて味わう『完全な空白』が、彼女を耐え難い不安に陥れた。


 逃げ出したかった。

 この沈黙から。

 自分に突きつけられた『決断』という重圧から。

 彼女は、まるで何かに吸い寄せられるように、あるいはその沈黙を破壊するために、震える手を扉へと伸ばした。

 それは勇気などではない。

 選ぶことから逃げるために、目の前の『異常』に身を投じるという、逆説的な逃避だった。


 指先が真鍮に触れた瞬間、古い木のざらつきと、鼻を突くような油と紙の匂いが押し寄せた。

 雨の匂いが混じり、アリスは息を止める。


 静かだ、と思った。

 だが、直後、その認識は粉々に砕かれる。


 音が、世界に回帰した。

 それも、暴力的すぎるほどの音量で。


 ギィ、ギィ、ギィ……。

 それは巨大な歯車が、錆びついた身体を無理やり引き摺り回すような軋み。

 気づけば、アリスの手の中には、扉のレリーフであったはずの『砂時計』が握りしめられていた。

 いつ、どうやって手に入れたのか。

 離そうとしても、指が皮膚ごと癒着したかのように動かない。


 光が爆発した。

 視界が水飴のように歪み、店の壁が、床が、天井が、幾何学的な模様を描きながら反転していく。

 上下の感覚が消え、重力の鎖が断ち切られた。


「怖い……でも」


 声にならない叫びが、鼓動に書き消される。

 アリスは、ただ強く、その砂時計を胸に抱いた。

 確かめられない現実を、せめてこの掌の痛みだけで繋ぎ止めようとするかのように。


 ――チク、タク。

 ――チク、タク。


 鼓動よりも正確なその音が、アリスの意識を新しい世界へと叩きつけた。



 意識が浮上したとき、最初に感じたのは、肺を刺すような冷気だった。

 現実世界の雨上がりの湿り気とは違う。

 それは、古い図書館の奥底で何百年も眠っていた紙の束や、機械油が固まったような、乾いて硬質な匂いのする空気だった。


 アリスが目を開けると、そこには『灰色の光』に支配された街があった。

 空には太陽も月も見当たらない。

 代わりに、巨大な時計の文字盤を思わせる幾何学的な模様が、薄い雲の向こう側にうっすらと浮かび上がっている。

 足元は、不揃いな石畳。

 それも、よく見ると石のひとつひとつに数字が刻まれていた。

 建物はどれも細長く、天を突くようにそびえ立っているが、その輪郭は陽炎のように絶えずゆらゆらと揺れている。

 窓枠は歪み、レンガの隙間からは、植物の代わりに細かな真鍮の歯車が芽を出し、カチカチと音を立てて回転していた。


「……うそ、でしょ」


 アリスは、自分が通ってきたはずの扉を探して振り返った。

 しかし、そこには扉などなかった。

 ただ、古びたレンガの壁が冷然と立っているだけだ。

 壁を叩き、爪で掻いてみるが、指先に伝わるのは無機質な石の感触だけ。

 あんなに鮮明だった真鍮の取っ手の重みも、木製の扉の温もりも、すべては幻だったと言わんばかりの拒絶。


「戻らなきゃ。お母さんが……お母さんが心配する」


 口にした途端、その言葉の空虚さに胸が痛んだ。

 母は心配するだろう。

 でも、それは『決まった時間に娘が帰宅しない』という不手際を嘆くのであって、アリスという少女の心がどこにあるかを案じているわけではない。

 そんな冷めた確信が、アリスの足をさらにすくませた。


 その時だった。

 右の肩に、ふっと、雪の結晶が止まったような、微かな重みが加わった。


「母親という存在は、往々にして『昨日と同じ今日』を愛するものだよ、アリス」


 耳元で、鐘の音を細く引き絞ったような声が響いた。

 アリスは悲鳴を上げそうになりながら、その場にうずくまった。

 視線を向けると、そこには『影』があった。

 実体があるのかさえ疑わしい、光の粒が寄り集まって人の輪郭を形作ったような、曖昧な存在。

 ただ、その顔があるべき場所にある『金色の瞳』だけが、凍てついた街の中で唯一、生命の灯火のように輝いていた。


「……誰? 幽霊……なの?」


「失礼な言い方だね。私はティック。この国の案内人であり、君が捨ててきた時間の残滓(ざんし)さ」


 影――ティックは、重力を無視してアリスの周りを滑るように移動した。

 彼が通った後の空気には、一瞬だけ金色の軌跡が残り、火花のように散って消える。


「ここは時計屋の国。あるいは、可能性の墓場。どちらで呼んでも構わないけれど、君にとっては『来るべき場所』だったというだけのことさ」


「来るべき場所……? 私はただ、雨宿りをする店を探して……」


「いいや。君は選んだんだ」


 ティックの金色の瞳が、アリスの掌を指した。

 そこには、いつの間にか握りしめていた砂時計があった。

 ガラスの球体の中で、砂はまだ動いていない。

 まるで、時間の始まりを待つ心臓のように。


「君は、その扉に触れることで、自分自身で時計のゼンマイを巻いたんだよ。無意識という、最も言い訳が効かない残酷な方法でね」


 ティックは、アリスの視界を遮るようにその場に立ち尽くした。

 輪郭は相変わらず揺れているが、その言葉には、抗い難い重みがある。


「アリス。君はこの国の『針』になる」


「針、って……何のこと?」


「そのままの意味さ。文字盤のない時計の針が、何を指すか知っているかい?」


 アリスは首を振った。

 ティックは楽しげに、しかしどこか悲しげに瞳を細める。


「正解は『どこでもない場所』だ。そして、どこを指すかは君が決める。君が進めば、この国の時間は動き出す。君が立ち止まれば、世界は腐敗し、止まった水のように濁っていく。君が迷えば――時間は、醜くねじれ、君自身の首を絞めるだろう」


 ティックの言葉に、アリスは自分の指先を見つめた。

 白く、細い、何の力もなさそうな指。

 今までずっと、誰かに引かれるのを待っていた指。

 その指が、この狂った世界の時間を支配しているというのか。


「……そんなの、無理だよ。私にできるわけない。だって、私はいつも……」


「『流されてきた』。そうだろう?」


 ティックが言葉を奪った。


「でもね、アリス。流れに乗るということ自体、実は抵抗することをやめるという『選択』なんだ。君が今まで選んできた『選ばない』という道が、君をここへ連れてきた」


 ティックの姿が、一瞬だけアリスと同じ背格好の少女のシルエットに重なったように見えた。

 だが、瞬きをすると、それはまた実体のない影に戻っている。


「時間は川のようなものだ。本流は常に前へと流れる。けれど、ここは迷宮だ。本流から分かれ、絡みつき、入り込んだ者を二度と放さない支流。戻りたいと思うなら、力がいるよ。自分が何者であるかを思い出し、運命を逆流させるだけの、鋭い覚悟がね」


 遠くで、巨大な鐘の音が響いた。

 それは教会が告げる祈りの時間ではなく、何かが終わり、何かが始まることを告げる、冷徹な機械音だった。

 音の振動に合わせて、街の建物が少しずつその配置を変えていく。

 石畳がせり上がり、さっきまであった道が、深い裂け目へと変わっていく。


「選ぶんだ、アリス。ここで石のように動かなくなるか。それとも、針として刻むか」


 ティックはそれだけ言うと、ふっとアリスの肩から飛び降り、数メートル先の空中に浮かんだ。

 彼は助けてはくれない。

 かといって、邪魔をすることもない。

 ただ、アリスという少女がどう動くのかを、冷徹な観測者として見守っている。


 アリスは、砂時計を強く握り直した。

 掌に伝わる硬い感触が、ここが夢ではないことを証明している。

 逃げ道はない。

 けれど、不思議と、恐怖の裏側に小さな熱が宿っていた。

 誰の指示でもない。

 母の期待でもない。

 今、自分が動かなければ、世界は止まったままなのだ。


 アリスは震える足を上げ、最初の一歩を、石畳に刻まれた『I』の数字の上に踏み出した。


 サラリ、と小さな音がした。

 手の中の砂時計。

 そのくびれた細い管を、最初の砂粒が通り抜け、底へと落ちた。


 時間は動き出した。

 アリスの鼓動と同期して、街の歯車がいっせいに歌い始める。

 霧の向こうに、歪んだ時計塔の影が見えた。

 あそこへ行けば、何かが変わる。

 あるいは、すべてを失う。


 未来はまだ、深い霧の中にある。

 けれどアリスは、もう目を伏せることをやめていた。



 

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