第3話 傾国のエルフ
二十四歳だった玄倉涼女が入社したてのユリの部下に下ったのは本人の意思である。
当時、実戦部隊として第一線で活躍していた涼女が、社長令嬢とは言え――入社半年かそこらの新人の下に付くなんてと、同僚からも、それ以外からも言われた。
キャリアをドブに捨てるのか、とか。
年下の人間に頭を下げるなんてプライドは無いのか、とか。
将来の社長に今から媚びを売るのか、なんて陰口を叩かれたこともあった。
しかし、涼女本人はそんな声を一切気にすることもなく、元の上司に異動を願い出て、正式な手続きを経てユリの下に着任した。
玄倉涼女の思考は実にシンプルだ。
従うならより優秀な人間に。
別に元上司が無能だったわけではない。
むしろ能力主義の企業内において彼は十分優秀だったし、社会に出たての新人に劣っていたこともない。
しかし、負けたのだ。
地の利が相手にあったとは言え。
武器が制限されていたとは言え。
多対一という圧倒的有利な状況で、十分な作戦を立てて、挑んで、そして負けたのだ。
それも死者ゼロという、完璧な手心を加えられた上で。
最終的にエルフはその新人に保護され、結果だけ見れば死者ゼロで作戦は完璧に遂行されたと言えるけれど、涼女が離反する動機としては十分だった。
よりよい人生のためによりよい環境を。
トーナメントの優勝者こそが最強、みたいな理屈ではあるけれど。
ともあれ、彼女の中で――彼女の手が届く範囲で、最も優秀な人間が彼津ユリだった。
「そ、その話を聞くと、本当なら私の下に就きたかったみたいだな……」
「当時はそうでしたね。今は主任の下で正解だと思いますが、結果論です」
「……スズメ、お前もユリに毒されてるんじゃないか……?」
「そうですか?」
涼女の相槌みたいな返答に「そうだぞ」と、少しだけ嫌そうに返した。悪い部分まで踏襲してほしくないという、キャナディの本音が垣間見える発言だった。
「あ、元上司とも関係は良好ですよ。今回、こうして研修の担当になったのもその人のおかげですし」
快活に笑う涼女を呆れた目で見てから、キャナディは涼女から渡されたミルクキャンディの袋から飴を取り出し、口へ放り込んだ。
アパートを出てから一時間、飴のおかげで比較的早く心を開いたこともあって、涼女の運転するオフロード車の中は穏やかな空気が流れていた。ラジオから流れるボサノバや、山中の程よい緑の光が心地よく過ぎていく。
飴を舐めるキャナディをミラー越しにちらりと覗いて、すぐに前方に目を戻す。
(最初くらい同行してくれてもいいだろうに……)
涼女は心の中で毒づいた。
車内にユリはいない。
キャナディと二人きりである。
車中の雰囲気と裏腹に、涼女の内心は落ち着かなかった。
かつて三十人をたった一人――それもただの弓矢で返り討ちにしたバケモノが助手席にいるからというのもあるが、エルフが助手席にいる事実がなによりもメンタルを揺さぶった。
エルフの存在が世間に露呈したらどうなるか、考えるだけでも恐ろしい。
獲得に動き出す国も一つや二つじゃない――エルフ一人を巡って戦争が起こることも容易に想像できる。
平和のためにいっそ事故を装って絶滅させた方がいいんじゃないかとさえ思えてくる。
もちろんそんなことはできないが。
世界の損失だ。
核弾頭のスイッチでも運んでいる気分のまま更に二十分ほど走り、山中を抜けたところで車は目的地に到着した。
風光明媚な山中には似つかわしくない、巨大で無機質なドームだった。コンクリート剥き出しで装飾の無い、ドーム一面を覆う高い壁が山林との不調和を際立たせ、ただでさえ大きいドームの存在感を際立たせる。
広大な駐車場には、アクセスの悪さを加味してもそこそこの車が停まっていて、まばらながら、自撮り棒を使って配信している派手な格好の人間も見えた。
「ななななあ! これ、私、配信で見たことあるぞ! あれだろ! あれ!」
きらきらと子供のように目を輝かせながらキャナディは言う。
興奮のあまり口調が更にカタコトだ。
「い一度来てみたかったんだ! なんだ、ここに来るんならもっと早く言ってくれればいいのに!」
テンションのままにドアを開け、そのまま下りようとして、すっかり忘れていたシートベルトに阻まれた。ボタンを押して外すだけなのにそれさえもテンションに邪魔されてままならない。最終的に見かねた涼女が手を貸して、キャナディは無事車から脱出できた。
(子犬みたいな人だな……いや、エルフか)
なるべく心中を読まれないようポーカーフェイスを維持しながら、涼女も車を降りた。
キャレットグループ保有のサバゲ―フィールド――ファーストケイブ。
元々はダンジョンに参加を希望する配信者や調査員希望者が、自身の能力適性を測るために訪れる検査会場の一つだったが、サバイバルゲーマーにも門戸を広げるため名称を現在の名前に変更、現在ではダンジョンをモチーフにしたアトラクション施設として人気を博している。
「さ、最初は二人に騙し討たれたっ! って思ったけど、スズメ、いい奴だな! 見直したぞ!」
「恐縮です」
キャナディの心証を崩さないように、涼女は言葉と態度を慎重に選びながら返す。道具を持っていないとはいえ、このエルフに本気で暴れられては一人で押さえられる自信は無い。任された手前、任務は可能な限り遂行するが、駄目な時は諦めよう。
手の負える範囲で責任は負う。
涼女はどこまでも現実的で堅実的な女だった。
はしゃぎながら涼女の手を引いて中へ入ったところで、キャナディはぎょっと目を丸くした。
そこまで広くないエントランスに多数のコスプレイヤーがいたからだ。配信者がいるかもくらいには思っていても、これはさすがに不意打ちだったらしく、舞い上がっていたキャナディも少しだけ硬直した。
このタイミングを逃す事無く、涼女が主導権を握る。
「今日はイベントデーでコスプレイヤーの方が多くいらしてるんですよ」
「そっ、そうなのか……普段見ないから、少しビックリしたぞ……」
「普段からイベントしてたら特別感が無くなりますから」
「そ、それもそうだな……」
「こちらですよ」
涼女はスタッフ用カードを使い、キャナディと共に関係者用通路を進んでいく。
このイベント自体は集客のために元々行われていたが、キャナディの研修にぶつけたのはユリの発案によるものである。
「主任から聞いてますよ」
スタッフ用ロッカールームでキャナディのプロテクター装着を手伝いながら涼女は言う。
「キャナディさん、全然動いてないそうですね」
「ぜ、全然って、そんなことはないぞ。そ……掃除とか洗濯、料理は私がしてるし」
「運動してないって意味ですよ」
煽るように涼女は言う。もちろんこれはユリの指示によるものだ。そうでなければ自ら危ない橋を渡ったりはしない。
「もしかしたら身体鈍っちゃってるんじゃないんですか? ちゃんと動けるって証明できないと調査員にはなれませんよ」
「そ、その時は家に篭るさ」
筋金入りの引き篭りはそう嘯く。
その時が来ては困るのだけれど。
どこまで本気なのか涼女には理解できなかった。
「そっそんなことより、何をするんだ? き、期待していいんだよな?」
自分の発言がまずいと感じたのか、キャナディは無理矢理話題を逸らした。涼女は深追いすることなく、素直に「まずは射撃練習――分かりやすく言えば的当てですよ」と言うと、
「的当て!」
キャナディは叫んだ。
「知ってるぞ! 弓矢で射るあれだな!」
再び期待を膨らませ興奮するキャナディ。
五百年を生きた狩猟者としての本能が目覚めつつあるのかもしれない――実際には倍以上生きているが――涼女の目にはそう見えた。
「よくご存じですね」
「新人のダンジョン配信もかかさず見てたからな!」
そう言って胸を張るが、褒められるべきは新人の配信者達であって、キャナディは何もしていない。ただ閲覧して楽しんでいただけだ。
「わ、私はエルフだからな、筋の良し悪しは見てればすぐわかるんだ。この間見た新人は筋は良かったんだ。……ただ、私が推そうとした矢先に『弓よりも剣が格好いい』とか言って、剣に持ち替えてな……、結構悲しかった……」
「なら、今日は弓のイメージを覆すくらい活躍しましょう!」
「そ……そうだな! 弓は遠くからチクチク攻撃するだけでダサいなんて風潮、今日ここで、私が吹っ飛ばしてやる!」
萎れかけていたやる気を涼女の言葉で一気に取り戻した。
とことん気難しいエルフである。
着替え終えた二人はロッカールームを出て、背中の矢立てに矢を補充し、屋内射撃場へ向かう。彼女のみなぎるやる気に早速心を焼かれそうになりながらも、涼女は任された仕事を冷静にこなす。
(……無事に終わったら何か奢ってもらわなければ割に合わないな)
射撃場に着いた時、キャナディは意外にも大人しかった。てっきりテンションを爆発させるものかと涼女は身構えていたのだが、それも杞憂だったらしい。
むしろ、どちらかといえば緊張している風にも見える。
キョロキョロと首を僅かに動かし、視線が定まっていない。
(――ああ、なるほど)
その原因はすぐに分かった。
キャナディは同性から見ても憧れる程のプロポーションを持つ美人。
多種多様なコスプレイヤーがどれだけいようと、頭一つ抜けた彼女に目が向けられるのは必然で、結果として、それが盛り上がり過ぎたキャナディのメンタルを押さえつけていた。
これだけ目を向けられても、誰一人本物のエルフだと気付いていないのは環境の妙と言うべきか。
(ここまでも含めて主任の御膳立てだったんだろうか……)
だとすれば主任の才は侮れない。
ただのコネ入社ではないということか。
……だとしても、少々効果があり過ぎだが。
大人しいをすっかり通り越して自販機の影に縮こまってしまっている。長身美人のこの姿は余計に目立つ。
「大丈夫ですよ」
言って、キャナディの肩をポン、と軽く叩く。
「周りの視線もそのうち慣れます」
「……わ私に……そんな難しいことは……」
蚊の鳴くような声でよくわからないことを言うキャナディ。
さっきまでの声とやる気はどこで落としたのか、まるで別人だ。
こんな人間に返り討ちに遭ったなんて思いたくもないけれど、しかし、涼女の脳裏に焼き付いたあの日の光景が、何よりも如実に真実を訴えていた。
だからこそ。
今のこの弱々しい姿は腹立たしく映る。
「……ふぅ」
涼女は短く息を吐いてから低くない天井を一度仰ぎ見て、キャナディの側に立て掛けてある金属製のリカーブボウを握った。それから精気を失ったエルフの目を一瞥し、射位に立つ。
(敵に塩を送るみたいで嫌だけれど、これも仕事。割り切らないと)
矢立てから三本矢を抜き取り、弓を握る左手で矢を掴む。
それから一本目を弦に掛け、人型の的を狙ってゆっくりと引き絞る。
そして――
「ふっ――」
一瞬の静寂の後、会場が一気にどよめいた。
静寂の瞬前に放った三本の矢は、それぞれ異なる的の中心を射抜いていた。
思わぬ離れ業を目撃した観衆は拍手をしたり動画を見直したり、思い思いの反応を見せている。今ばかりはキャナディ以上に涼女が目立っていた。
涼女はこれ見よがしに手を挙げて騒めくオーディエンスへ応えると、後ろへ振り返り、未だ縮こまっているキャナディへ向かって言った。
「キャナディさん。勝負です」
会場が更に沸き上がった。