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第4話 見解

「お巡りさん!すぐ来てください!お巡りさんっ!」


私は、恥も外聞もなくに交番のドアを握り、飛び込んだ。


「どうしたんじゃ?」


デスクに座っていた中年の警官が、見開いたように振り返る。


「白骨…白骨化した死体を見つけたんです。何体も、です!」


顔色は悪く、声が戸惑う。


「ちょっと待ってろ。ここは小さな交番だから、まず応援を呼ぶ」


無線機に手をした警官の動きは速かった。


10分後、近くの警察署から二人の刑事が到着した。


「白骨死体が見つかったってことで…君が発見者か?」


「はい、そうです」


「パトカーで案内してくれるか?」


「…はい、私も一緒に行きます」


パトカーの後部座席。 ヘッドライトの光が路地を照らす。


私は、なぜか手をぎゅっと握りしめていた。


「その信号まっすぐ行って、次の交差を左です」


「…こんな道とかあったのか?」


乗っていた刑事が、輪軌を見やりながら呪いのように周囲を見わたした。


「君、よくこんな獣道みたいなとこのマンションに住んでたね」


補補されていないぼこぼこの道。周囲に人家はない。


夜の闇は深く、天候より、その場に潰む空気が重かった。


「すいません、こちらです……」


「どこ行くんだ?」


「貯水槽がおかしいんです。

私はここに住んで三ヶ月なんですが、毎晩毎晩、水の音が聞こえて、他の住人にも会ったことがなくて……それで、貯水槽が原因じゃないかな?っと、このタンクを確かめに行ったら……」


私は、吐き気をこらえながら、その場に案内した。


「ここです……あ、すみません。その汚れは私が…吐いてしまって……」


警察は、私に案内されるまま、貯水槽に登って見てみると?


刑事たちが懐中電灯で中を照らした瞬間、そこに潰む「何か」の実態を前にして、空気が止まった。


「うわ…本当だ。こんなに骨があるなんて……」


「……君はいったん家に戻って待機してくれるかな?あとで事情聴取のために、改めて連絡させてもらう」


「はい……」


「この件は、僕らだけじゃ手に負えない。応援を呼ぶ」


 その言葉を最後に、私はその場を離れた。


 本当は、戻りたくなかった。


 だが――

 刑事から「職場か自宅以外の場所には行かないように」と釘を刺された。

 勝手に別の場所へ避難すれば、逃げたと誤解されかねない。


 私には、もう帰るしかなかった。



203号室。 カギのシリンダーを回し、おそるおそる部屋の電気をつけた。


握る手が振るえていた。


本当は、もう確認したくなかった。


だけど、ここまで来たら見なければならない。


――じぶんが何を飲んでたのか。


それを、この目で見なければならない。


私はそっと口の内に気を吹き込み、戦くような手つきで、水道に指をかけて、


思い切って蛇口をひねることにした。


「……ふぅー……ふぅー……」


大きく深呼吸し、心を落ち着ける。


「よし……回すぞ」


ギー……ギー……


ゆっくりと、蛇口をひねる。


だが、何も出なかった。


「……なんだ、出ない……」


肩の力が抜け、ほっと息をついた――その瞬間。


ザーーーーーッ!!


突然、赤い液体が勢いよく飛び出した。

血のように濃く、ドロッとした赤い水。


「いやだ……なんなんだよ、これ……!」


まともに見ていられなかった。

理屈も理解も追いつかない。

ただ、恐怖だけが全身を支配していた。


――逃げなきゃ。


本能がそう叫ぶより先に、身体が動いていた。


私はキッチンから飛び出し、玄関のドアノブに手をかけた。


ガチャ、ガチャッ!


必死に何度も回す。

だが、ドアは開かない。

鍵はかかっていないはずなのに、まるで内側から何かが押しつけているかのようにビクともしない。


「ふざけんなよっ……!」


汗と恐怖で濡れた手のひらを拭い、今度はベランダに通じるドアへと向かう。


ガンッ!


勢いよく体当たりするも、音だけが虚しく跳ね返る。

ドアは壁のようにびくともしなかった。

まるでそこには、最初から出口など存在していなかったかのように。


――逃げられない。


足がすくみ、呼吸が乱れ、視界が揺れた。

思考は混濁し、喉が焼けつくように渇いていく。

あの水音が、部屋中に響いていた。


ヌチュ、グチャ、ボト……

水だけではない、“肉が流れる”音が。


「いやだ……もう、やめてくれ……!」


私は、最後の逃げ場へと身を投げ込んだ。

部屋の隅の布団に飛び込み、頭までぐいと引きかぶる。

耳を塞ぎ、目を固く閉じ、全身を震わせながら、必死でその音から身を守ろうとする。


布団の中は、狭く、暗く、息苦しかった。


だが、それでも――

あの音が、視線が、液体の気配が、部屋を這いずり回っているようで、

今にもすぐそばで何かが自分を覗き込んでいる気がして、気が狂いそうだった。


「やめろ……やめてくれ……もう……やめて……!」


子供のように、震えながら何度もつぶやく。

泣いているのか、汗をかいているのか、自分でも分からなかった。


音が止むのを――

ただそれだけを祈って、祈って、祈り続けた。



いつの間にか、意識を手放していた。


そして――朝。


目を覚ました私は、恐る恐るシンクへと足を向けた。


……何もなかった。


赤く染まっていたはずのシンクも、

蛇口も、水も、痕跡すら残っていなかった。


すべてが、まるで“最初からなかったこと”のように。


結局、あの貯水槽から見つかった白骨死体の身元は、ほとんど判明しなかった。


身元が分かったのは、わずかに皮膚が残り、蛆が湧いていた比較的新しいと思われる死体だけ。


警察が照合したところ、それは数ヶ月前から行方不明になっていた20代の男性だった。


死後、約3ヶ月――。


それは、私があの部屋に引っ越してから経った時間と、ぴたりと一致していた。


私はあれから、水道水を飲めなくなった。  自宅でも、外でも、ペットボトルの水以外は口にできない。


意識していなくても、水道の音がすれば体が強張る。  

無意識に耳を塞ぎ、蛇口を避けるように生活する日々。


なるべく考えないようにしている。


自分が、あそこで何を飲んでいたのか。  何を口にして、何を浴びていたのか。


考えたくない。  

けれど、ふとした瞬間に脳裏をよぎるのだ。


もしかして、あの行方不明だった人が、  

自分に助けを求めていたのではないかと。  

あの水音は、声にならなかった助けてだったのではないかと。


あの部屋を紹介してきた不動産会社に行こうとしたこともある。  

だが、地図上にその名前は残っていたのに、  

そこにあったのは、朽ち果てた古い空き家だった。  看板すらなく、建物自体も何年も前に使われていないようだった。


すべてが、嘘のようだった。  けれど、現に自分は、あの部屋で、あの水を……。


もう、何も考えたくなかった。


そして、もうひとつ――

どうしても、気づいてしまったことがある。




……あの水が、あまりにも、美味しかったということに。




それ以来、私は一度も、あれほど美味い水を飲んだことがない。

ペットボトルの水も、どこか物足りなくて。

知ってしまったのだ。

二度と忘れられない、あの味を。


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