第3話 そこで見たものは
私は、本能的に逃げなければいけないと感じた。
足が勝手に震え、背中に冷たい汗がじっとりと浮いていた。
息が荒い。胸が圧迫されているように苦しい。
ドクンドクンと心臓の音だけが、耳の奥で反響していた。
私は我に返るように、階段を駆け上がった。
203号室の前にたどり着くと、鍵をねじ込むように差し込み、靴を脱ぐ間も惜しむように、ドアを閉めた。
だが。
普段なら、閉めた瞬間に訪れるはずの安心は、どこにもなかった。
それどころか、この部屋――いや、この建物そのものが、
なにか、見えない何かで染まっている気がした。
誰もいないはずなのに、夜になると聞こえる水音。
絶対に誰か住んでいるはずなのに、一度も姿を見せない住人たち。
この建物だけでなく、この周辺一帯から感じる人の気配のなさ。
「……今日は、もう無理だ」
逃げるように私はスマホを取り出し、近くのネットカフェを検索した。
最低限の荷物をバッグに放り込み、早々に部屋を後にした。
ネットカフェの小さな個室。
硬い椅子に深く腰を沈め、コーヒーを飲みながら、
私はモニターの光に照らされながら、ぼんやりと考えていた。
「すごく安いのは……確かに助かるんだけどな」
けれど体調を崩したのは、あの部屋に住み始めてからだった。
あの不可解な水の音。
夜の寒気。
湿った部屋。
あらゆる異変が、すべてそれ以降だった。
「……あれ、そういえば」
ふと思い出したのは、コーポの裏手にある貯水槽だった。
銀色の大きなタンク。
錆びかけていて、管理されている気配がない。
近くを通ったとき、なんとなく気にはなっていた。
「……もしかしたら、あそこが漏れているのかも?」
身体の不調。異常な静けさ。そして水の音。異常に安い水道代。
それら全てが、水に繋がっているような気がした。
「……見てから決めよう。引っ越すかどうかは、それからでもいい」
私はそう決意し、翌朝、ネットカフェを出て再びコーポへと向かった。
コーポに戻ってきた私は、建物の裏手に回った。
思った通り、二階の端――210号室の横に、壁づたいのはしごが設置されていた。
「……これ、登ればいいのか」
足場の不安定なはしごを、慎重に上っていく。
登りきると、そこには例の貯水タンクが鎮座していた。
金属は黒ずみ、側面にうっすらと苔のようなものが張りついている。
取っ手に手をかけると――意外にも、あっさりと開いた。
「……おいおい、鍵もかけてないのかよ。管理、ガバガバかよ……」
軽口を叩きつつも、その先の異様な空気に、私は思わず言葉を飲み込んだ。
ジト……。
内部は蒸し風呂のように湿っていて、生ぬるい空気が肌にまとわりつく。
「……げ、くっさ」
異臭が鼻腔を突く。
私は鼻を覆いながら、配管にそってタンクの上部へと歩みを進めた。
途中、水の元栓らしきバルブがあったので、とりあえずそれをひねって閉じる。
「よし……」
そして、いよいよ――
タンクのフタに手をかける。
ごとっ。
フタは驚くほど軽く、拍子抜けするほど簡単に開いた。
「うわ、マジで中、見ちゃっていいのかな……?」
ゴクリと唾を飲み込みながら、私は中を覗き込んだ。
が――
「……あれ?」
水が、ない。
完全に乾いていたわけではない。
ところどころ濡れてはいるが、底が見えるほどに、ほとんど空だった。
「は? ……じゃあ、あの水の音、なんだったんだよ……」
ぞわり。
背筋が凍る。
何かがおかしい。
何かが――
異常だ。
震える手でスマホを取り出し、懐中電灯モードをオンにして、タンクの底を照らしてみる。
光の筋が、黒い影を切り裂くようにして沈んでいく。
すると、そこには――
白い、物体。
……いや、
人骨だった。
それも、何本も。
一つや二つじゃない。
薄暗いタンクの底。
そこには――折り重なるように、無数の白く乾いた骨があった。
長く湾曲したもの、丸みを帯びた小さな破片、明らかに人の足のように太いもの……
素人目にも、それが人間のものであると、すぐにわかった。
いくつかの骨はまだ関節のような形で繋がっていて、中には……
白骨化しきっておらず、黒く崩れかけた肉の名残が絡みついているものもあった。
バラバラになった無数の白骨が、タンクの底に折り重なっていた。
しかも、黒ずんだ皮膚がわずかに残った腐乱死体が――
今もそこで、じっと水を待っているかのように沈んでいた。
「……っっっ」
吐き気が込み上げ、私はその場で嘔吐した。
「うぇっ……おえっ……」
足をもつれさせながら、タンクから転がるように逃げ出し、はしごを滑り降りた。
「っあ、あ、あ、やばい、やばい、やばい……!」
――やばい。
――やばすぎる。
コーポの中ではなく、コーポの水そのものが、呪われている。
震える足を無理やり動かし、私はそのまま、最寄りの交番へと駆け込んだ。