第2話 音
最近、体調がおかしい。
この家に住んで三ヶ月が経った頃。
ある夜、布団に入ろうとした私は、ふと違和感に気づいた。
寒い。けど、変に熱っぽい。
体の奥に熱がこもっているようで、でも手足はひんやりと冷えている。
体温計で測ってみても、平熱だった。
微熱どころか、36.2℃とむしろ低め。
「……コロナかな?」
不安になって、翌日病院へ行った。
だが検査結果はすべて陰性。
血液検査でも異常はなく、医者には「ストレスや気候の変化じゃないですか」と言われた。
だが、そんなはずはない。
仕事は忙しくないし、趣味も充実している。
今の暮らしはむしろ快適なはずだった。
それなのに、
夜になると寒気が背中を這うように忍び寄り、
朝になると枕が微かに湿っている。
風邪ではない。
でも確かに、体が、何かに晒されている気がした。
さらに最近、気になることがある。
このコーポに住み始めて、もう三ヶ月。
にもかかわらず、まだ一度も住人に会ったことがないのだ。
二階建て、全10室。
私の部屋は203号室。
洗濯物が干されている様子もなく、郵便受けもほとんどが空。
ただ、夜になると、水の音はいつもどこかの部屋から聞こえてくる。
風呂の排水音や、台所の蛇口の音。
誰もいないはずの建物で、どこかの部屋では必ず、水が流れている――そんな違和感が、私の中でじわじわと広がっていた。
気になった私は、ある休日、手土産の菓子折りを持って、
1階の部屋に引っ越しの挨拶に回ることにした。
最初の部屋、101号室の前で、私は拳を握りしめた。
静かに、しかし確かに音を立てて――
コン、コン、コン……。
まるで、誰かを起こしてしまわないようにと気遣うような、その音は、空気をわずかに震わせただけだった。
「最近引っ越してきたものですけど、ご挨拶に来ましたー」
しかし返事はない。
もう一度、少し強めに叩く。
ドン、……ドン。
張り詰めた沈黙だけが返ってきた。
インターホンも押してみたが、無反応だった。
私は、玄関横の小さな窓から、そっと中を覗いてみた。
家具らしき影もなく、カーテンもない。
埃っぽく、生活感のない空間。
「……空き家、かな?」
私はそう呟いて肩をすくめた。
「まあ、築年数古いし……そりゃ空いてる部屋もあるかな」
そう言って立ち去ろうとした、その時だった。
──ポタ……ポタ……。
水音。
玄関の扉の内側から、確かに聞こえた気がした。
ぞくりと、背筋に寒気が走る。
次に、私は102号室に向かった。
しかし、そこも101号室とほとんど変わらなかった。
ノックしても返事はなく、郵便受けには何も入っておらず、
窓の奥には、やはり生活感の欠片もなかった。
「……また?」
私は小さく舌打ちして、今度は103号室に足を向けた。
だがここも、まったく同じだった。
無反応。無人。静寂。
徐々に胸の奥に、不安と苛立ちが積もっていく。
「……もういいや。怒られても。」
そう呟いた私は、104号室の前に立ち、拳を握った。
ドン、ドン、ドンッ! ドン、ドン、ドンッ!
続けて105、106、107、108……。
すべての部屋を、次々に、
私は力任せにノックしていった。
普通なら、こんなことをすれば、どこかの部屋から怒鳴り声のひとつくらい飛んできてもおかしくない。
だが。
どの部屋からも、何の音もしなかった。
返事もなく、足音もなく、誰かが近付いてくる気配すらない。
ただ。
ただ、どこかの部屋から。
いつもの――
ポタ……ポタ……。
水の音だけが、聞こえていた。
そのとき、ふと、私はもうひとつのことに気がついた。
「そういえば……この家のまわりで……誰とも会ってない」
会社では普通に人と話す。
昼休みにコンビニに行けば、レジには店員がいる。
でも、家に帰るまでの道で。
建物の前の道で。
ゴミ捨て場の前でも。
人とすれ違った記憶が、ない。
「……なんでだろ?」
今、自分は声を出している。
少し大きめに呟いた。
けれど、その声さえも、どこかに吸い込まれていくように、空気に溶けていく。
耳を澄ませてみた。
鳥の声も、車の音も、木々のざわめきも、
犬の鳴き声も、カラスの羽ばたきも――
何ひとつ、聞こえなかった。