第1話 引っ越し
私は28歳。悩みはお金がないこと。
休日はゲーム、映画、キャンプ、カフェ巡り……。楽しみは多く、仕事にも支障は出ていない。だがそのせいで、財布の中は常にすっからかん。
「貯金しなきゃな……」と、何度思ったことか。
それでも、趣味はやめられなかった。
ある日、会社からの帰り道で、偶然通った路地に、ふと目を引く不動産屋があった。
張り出されたチラシに、こうあった。
築20年/2DK/風呂トイレ別/駅徒歩8分――35,000円
相場の半額以下。部屋の間取りも悪くない。会社までの距離も今と変わらない。
「ここ、最高じゃん……」
私は即決した。
数日後、引っ越し完了。
築年数のわりに内装も綺麗で、特に問題はなかった。
ただ――初日の夜から、気になることがあった。
ベッドに入り、うとうとしていた頃。
──ポタッ。
──ポタ……ポタ……。
水の音が、聞こえた。
最初は「隣の部屋の生活音かな」と思った。
あるいは気のせいかもしれない。築年数の古いアパートにはよくあることだ。
だが、それは翌晩も聞こえた。
そのまた次の晩も。
気づけば毎晩、私が寝ようとする時刻に決まって、
──ポタ……ポタ……。
風呂場から水音がするのだった。
気になって風呂場を確認する。蛇口はしっかり閉まっている。
シャワーヘッドからも、どこからも、水は漏れていない。
けれど、明かりを消して寝室に戻ると、
また、ポタ……ポタ……。
私は首を傾げた。
「……なんだろ。気のせい、だよね?」
そう自分に言い聞かせて、その夜は眠った。
私は音は気になったが、「壁が薄いからどこかから聞こえてんだろう」と、あまり深く考えなかった。
もともと大雑把な性格で、細かいことは気にしない。
そんな調子で新居生活にも慣れ、月日は流れた。
そして、住んで2ヶ月が経った頃。
ポストに届いた水道料金の請求書を見て、目を疑った。
金額が……おかしい。
380円。
私は一瞬、目を擦った。
「……は? 380円? いや、シャワー毎日使ってるし、風呂も沸かしてるのに……」
紙をめくり直しても、金額は変わらない。
普通なら月3000円〜5000円はかかる。半額どころじゃない。桁が違う。
だが、安い分にはありがたい。
私は「ラッキー」と笑って、紙をゴミ箱に放った。
生活は至って快適だった。
朝はインスタントのコーヒーを淹れて、夜はコンビニの弁当。
休日には、録り溜めたアニメや映画を観ながらポテチとカップ麺でダラダラ過ごす。
ただ、ひとつだけ引っかかることがあった。
水が、妙にうまいのだ。
ある晩、カップ麺にお湯を注ぎながら、そのまま蛇口の水をコップに汲んで飲んでみた。
普段はミネラルウォーター派だったが、ふと節約も兼ねて水道水を飲む気になった。
キンと冷たく、クセがなく、まるで天然水のような口当たりだった。
「うま……」
意外すぎて、思わず独りごと。
だがそのとき、舌の奥にほんのわずかな甘味のようなものが残った気がした。
カルキ臭さは一切ない。むしろ、やけにスッと体に染み込んでいく感じ。
なんとなく、それ以来、ペットボトルの水は買わなくなった。