その心、貰いましょう
紫陽花、桔梗、金盞花、秋桜、石楠花、椿、薔薇、牡丹、百合。色とりどりの花が咲き乱れる庭園の中央には白いドームの形をしたガゼボ。そこにあるベンチに座った青年──ツヴァイはリュートを抱えて細く長い指先で弦を弾き優雅に音を紡ぎ出した。
汚れ一つない真っ白なフードから飛び出た絹糸のような美しい黒髪は首元で緩く結われ、身体が動く度に僅かに靡く。
リュートが生み出す音に呼応するかのように花たちが揺れた。穏やかな時間が緩やかに続く。
「はあ」
ツヴァイの口から僅かに吐息が漏れる。一曲弾き終わり、睫毛を震わせながら目を開けた。ラピスラズリの双眸に色彩豊かな花たちが映る。弦から褐色の指を離してリュートをベンチに置いた。
代わりに白いテーブルに置かれた瓶を手に取る。それにはカラフルな飴が入っており、そのうちの一つ、チェリー色のものを取り出した。そして、口に含んだ瞬間に鼓動が早くなり、熱い想いが、身を焦がすような強い想いが身体を駆け巡る。
最後は飴をかみ砕いて失くした。次に瓶からアクアマリン色の飴を出し、口内に放り込む。瞬く間に胸の絞られるような悲しみに襲われた。愛する者との死別、友の裏切り、失恋、大きなミスなど大小様々な悲しい出来事が脳裏に映し出される。
「本当に外の世界の者たちは心が豊かだなあ」
物言わぬ花しかいない庭園では言葉が返ってくることはない。此処は時の狭間と呼ばれる場所。この地には姉のアインスと二人で住んでいるが、彼女は外の世界に行っているから今はいない。二人は人と呼べる代物ではなく、人の心を食べて動く人形と称するのが一番近しいであろう。
「嗚呼、また奴らが現れた」
何処かの世界に言の刃という化け物が現れた。奴らは人の感情を増幅させて暴走させる。そうすると人は狂い落ちて意図せずに多くを傷つけ、その自責の念で自ら死を選んでしまうのだ。
人の心を食べる姉弟にとって、人の心は何よりも愛おしいもの。それを壊すものは認めない、許せない。
「さあ、行こう」
立ち上がると同時に空間が歪む。奴らの元へ飛んで、殺して、人の心を集めよう。大丈夫、心を集めても人が心を失うわけではない。ただその増幅してしまった心だけを抜き取って、集めるのだ。
今宵は幾つ心を集められるだろうか。
***
眼前に広がるのは闇雲に刃物を振り回す男と、その周りで逃げ惑う者や腰を抜かして動けぬ者。幸い死傷者はまだ出ていないようだが、恐怖で満ち溢れている。
ツヴァイの足が地についた途端に波紋状に空気が揺らいで、男以外の者たちの時間が止まった。時の狭間に住まう者は時に干渉ができるのだ。尤も過度に干渉すれば、その世界の時間が狂ってしまうので言の刃を倒すまでしか干渉しない。
「あああアア! なんで、俺をフッたぁ。俺よりあいつのが優れていたのか! なあ、俺はお前をこんなにも愛してたのに!」
男の叫び声で鼓膜が震えた。血走った眼で、なんでだと叫び続ける。男の周りにはねっとりとした黒い靄がへばり付いていた。
あれが言の刃と呼ばれる化け物。
取り乱す男は刃物を投げ捨ててただ叫び狂う。
ツヴァイは男に近づき、その瘦せこけた頬に触れる。
「大丈夫、落ち着いて。君の彼女は君をちゃんと愛しているよ」
靄が苦しそうにユラユラと揺らいだ。ツヴァイの声音には人の心を落ち着かせる効果がある。大丈夫と繰り返し、繰り返し紡ぎ続けると、ついに靄が男から離れた。そして、正気を取り戻した男はそのまま気を失う。
「さて、お前には消えて貰おうか」
冷たい眼差しで揺蕩う靄を睨みつける。言の刃は悪しき存在ではあるものの直接的な殺傷能力はない。生き物に憑りついて感情を暴走させる以外の力は持たないのだ。その上、意識無きものにも憑りつけない奴は、時が止まったこの空間では無力に等しい。
「人形風情が我らの邪魔をするなあ!」
嗚呼、珍しい。言葉を交わせるタイプの言の刃か。稀にそういう奴もいるが、だから何だという。どんな奴であろうと消すだけ。
リュートを奏でて奴を倒そうとした瞬間、靄が滑らかな動きで向かってくる。人形であるこの身に憑りつけることなど不可能だというのに愚かなものだ。
靄がツヴァイの身体に触れると、何かに弾かれるように靄が跳ぶ。
本当に愚かだなと目を細めて冷徹な視線を浴びさせた。
抱えたリュートの弦に指を添えた時、何処からか笛の音が聞こえる。
「う、が、ガガガア」
醜い雄叫びを上げ、靄が霧散する。
「ツヴァイ」
「姉さん」
振り返れば、スカートの裾を翻しながらアインスが此方に向かってきた。彼女が歩く度に踝に巻かれたアンクレットの鈴が鳴る。
「二つの場所で同時に言の刃が現れるなんて珍しいわね」
「そうですね」
アインスもまた、ツヴァイのように此処ではない他の世界に現れた言の刃を倒しに行っていたのだ。結局此方の言の刃も彼女が倒してしまったけど。お淑やかそうな見た目とは裏腹に、彼女は弟よりも手が早く、さっさと奴らを消してしまうのだ。
「早く集めて帰りましょう」
アインスが気絶した男に手を翳すと、アッシュグレーの飴が男から出てくる。人の心は飴玉となって現れるのだ。ツヴァイは懐にある瓶を取り出して彼女に差し出す。彼女は瓶の中に飴玉を仕舞ってから彼に返した。
そして、瞼を閉じ、再び目を開ければ見慣れた庭園が映し出される。ベンチに座ると寄り添うようにアインスが隣に腰掛けた。
「ねえ、ツヴァイ。いつものように歌って」
リュートを抱えて弦に指を添える。
「さあ、集めましょう」
ツヴァイが紡ぎ出す歌を子守唄に彼女は眠りに落ちた。それを見た彼は奏でる指を止める。
アインスはもうお疲れだから、今宵の心集めは終わり。