第三章17 『見せて』
この状況を打開する方法。それは、少女の持ち得る唯一の『武器』を発現させることに他ならない。
呼吸を静かに整えて……その覚悟を……
「――お待ちくださいっ!」
その呼びかけによって、少女の剥離していた意識が急激に現実へと引き戻される。
気がつけば、既に少女の眼前までエルミナが迫っていた。
「彼女にフードを脱がせることは……少々心の苦しい話です」
諦念したと思われたリビカが、二人の間に割って入るように言葉を紡いでいた。
そんなリビカの突然の言動には、エルミナも多少なりとも戸惑っている様子だった。
「……? なんで?」
「それは……ですね……」
その時、少女は確かな違和感を覚えた。見上げて伺ったリビカの表情は、動揺でも低迷でもない。
言葉にするなら、『どこか申し訳なさそう』といった表情で……
「……か、彼女は少々、特殊な奇病を患っていまして……その……頭頂部の毛がありません……」
――はえぇっ!?
と、思わず漏れそうになった声を、必死に胸の中で押し殺した功績は、どうやら大きかったらしい。
「そー……なの?」
「え、ええ! 彼女も身嗜みを気にする年頃ですから……そのような姿を他者に見せるのは、相手が誰であろうと忌避したいと思うのは当然でしょう?」
そのエルミナの反応を掴んだ藁と見なし、リビカは怒涛に言葉を連ねる。しかし、内容が内容なだけに虚言が後ろめたかったのか、その間リビカの瞳は一度も少女へ向くことは無かった。
「そ、そもそも先程も申しましたように、彼女が本当に人間ならば、獣人の私が何もしないはずもありません。ですから……」
「――見たい」
「えっ?」
リビカの呼吸の間隙を縫ったその一言で、またも状況が一変するのを感じた。
しかし、先程までと唯一違う点がある。それは、何故か空気に緊迫感を感じなかったということ。
それは、何よりエルミナ自身の態度を見れば一目瞭然であった。
「どんなアタマ? 見たい。見せて」
依然として、少女へ迫っていたことには変わりない。
だが少女を見つめていたのは、目新しい物を発見した幼年の如く真っ直ぐな瞳。興味に満ちた、純粋無垢な眼差しであった。
「……えっ? あ、いや……えっ?」
「見せて。早く。見せて」
「エ、エルミナ様!? 聞いておられましたか!?」
窮地を逃れた、というにはあまりにも近すぎる距離。されど、危機が迫っている、というにはあまりにも皆無な緊張感。
このどっちつかずな空気感で戸惑わないことは不可能であり、口から出るのは疑問符ばかり。
掴んだ藁が思わぬ崩れ方をしたせいで、リビカも対応に困っている様子だった。
「ねえ。早く見せ――ぐぇっ」
瞬間、迫っていたエルミナの声が押し潰れるように途切れた。
エルミナの足が地から離れている。加えてよく見ると、エルミナの背後には、リビカではない別の人物が立っている。
「……どこで油を売っているのかと探してみれば……こんな所で何をしているのですか? エルミナ」
落ち着き払った低い声質や、少女が見上げるほどの背丈から、男だということだけは認識できた。
エルミナが突如浮いた原因は、その男がエルミナの襟を掴み上げているためであった。エルミナは無抵抗ではあるものの、不服そうな顔をしている。
「アブラなんて持ってない。売ってない」
「そういう慣用句です。意味を尋ねるなら私以外でお願いします」
呻くようなエルミナの発声を、男は軽くあしらう。
その後、男はそのままエルミナを小脇に抱えると、少女とリビカに向かって軽く会釈をした。
「王国近衛師団団長、デイルスと申します。私の部下が、お二方にご迷惑をおかけしたこと、深くお詫び申し上げます。本来であれば、何らかの償いをすべきところですが、我々はなにぶん多忙を極めておりましてね。誠に勝手ながら、またの機会とさせていただきます。では、我々はこれで――」
エルミナも所属している『王国近衛師団』という組織――男はその団長という肩書きとともに、デイルスと名乗った。
しかし、名乗られずともその厳格な雰囲気はいとも容易く伝わってくる。
灰と砂色の淡白な頭髪。その下にある双眸は、虚空さえも睨みつけるかのように鋭い。
エルミナを小脇に抱えたまま歩く姿勢に一切の乱れはなく、細い長身にそぐわない怪力と体幹が備わっていることがよく理解できる。
デイルスとエルミナの背中を何事も無く見送ると、リビカは肺に溜まっている全ての空気を吐き出さんばかりの勢いで喘鳴を漏らした。
「……はぁっ……ようやく行ったか。『王国近衛師団』の最上位二人が、揃いも揃ってなぜこんな裏路地を彷徨いている!?」
リビカは声を最小限に押し殺しつつも、堪えていた本音を吐き出した。
少女と違って、リビカはあの二人に関する情報を多く持っているが故に、生きた心地がしていなかった。
「……エルミナという人……大丈夫なんでしょうか? ……偶然、有耶無耶になってくれて助かりましたけど……」
「あ、ああ……そうだな……。考えれば考える程、懸念が絶えないぞ全く……」
リビカは大きなため息を漏らし、頭を抱えた。
しかし、本来であれば、リビカにとっては他人事で済んだはずの問題である。
そう考えた瞬間、少女の中の悔やむ思いが湧いて出てきた。
「……すみません……リビカさん。……私のせいで……こんな……」
「……はぁ……。お前は分かってないな。私がこうして頭を抱えているのは、お前がそんな顔をせずに済むようにするためだ。そして、そうしたいと望んだのは、誰でもない私自身だ」
憔悴しているはずのリビカは、少女にそっと不器用な微笑みを投げかけた。
優しい。そんな言葉では言い表せないほどのリビカの気遣いは、少女の心を縛る紐をまた一つ解いてみせた。
「……そ、それにだなミズカ。謝るならば私の方だ」
「……リビカさんが……?」
「ああ。咄嗟の出来事だったとはいえ……だ」
リビカが謝りたいと思う、咄嗟の出来事。思い当たる節は、一つしかなかった。
「その……君の髪は……」
「――な〜んだ、普通に髪あるじゃん。あんまりリビカっちが緊迫した顔で言うもんだから、本当なのかと思っちゃったよ〜」
音も、視線も、気配も、その瞬間まで何も感じなかった。
だが、突如として背後から響いた、聞き覚えのある声。
そして何より、遅れてやってきた突風に静かに冷やされた、少女の汗ばんだ項。
ようやく理解した。少女が頑なに守り抜いていたフードが、機能していないことを。
「……今……何が……起きて……!?」
「な、なぜ貴様がッ――」
そう口にするやいなや、リビカは驚嘆の表情を作ったまま、静かにその場に倒れ伏せた。
血などは流れていない。だが、それが気絶なのだと思い込むのが早かったのには、また別の要因がある。
「ごめんね〜、リビカっち。今から割と大事な話するから、口挟まれると面倒なんだよね〜」
先刻少女の背後で響いた声が、今度は倒れたリビカの背後から現れた。
当然、その正体にも見覚えがある。
「……ファタリス……さん……!?」
「さっきぶりだね〜、ミズカっち。獣化のこと、ちゃんと教わった〜?」
別人ではないかという疑いは、思いつくと同時に晴れた。言動の節々が、少女の知るファタリス本人と相違ないのである。
だからこそ、分からなかった。このファタリスが一体何を目的にして、何を考えているのか。
「ま、聞いたくせに雑談する気も暇もあんまりないんだけどね〜。そういうわけで、手短に話すよ〜」
いつもと変わらない、おっとりとした雰囲気。それが、刹那の瞬きと共に急変し――
「――死んでくれる?」




