第三章11 『覚悟の宣誓』
「……この二人を助けます……!」
少女の声が、やけに広い地下にこだました。
そこに居合わせた少女とリビカ以外の人物は皆、同様に目を見開き静まり返っている。
「……そうだ。それでいい。礼を言う、ミズカ」
「な、何言ってんだよ姉ちゃん! それじゃ、あの助けてくれた姉ちゃんが……!」
ある者は自身の命を憂うこともなく受け入れる。しかし、またある者は自身の救われた命を却って憂う。
三者三葉に少女の言葉に応じる中、ただ一人それを笑う者がいた。
「こいつぁ驚いた! まさか身内を切る度胸があるたぁ思ってなかったぜ! とんだ臆病者だと思ってたが、案外肝の据わった嬢ちゃんだったってわけだぁ!?」
一種の賞賛のように、ブルネアは少女の言動について復唱する。弟の肩を撃たれても平気でいられる自分自身と、似たものを感じているからだろうか。
「そうまでして助けるほどそのガキ共には何かあんのか? なあ兄貴、やっぱりあのガキ共は取り返しといた方が……」
「ただの餓死寸前だったガキ共だ。ねぇよ、そんなもん! ほら、交渉は決裂したんだ。さっさと逃げろ。それとも、この女の最期に居合わせたいってか?」
少女の選択を奇妙に感じているクロクータに対し、ブルネアは終始ご機嫌な様子で捲し立てている。
だが、少女の決意はそんな煽りに動じず、背後の二人に避難を命じていた。
「……お、おねえちゃん……いいの? ヴィディたち、にげても……ほんとにいいの……?」
「な、なんでおれたちにそこまでするんだよ!? 姉ちゃんたちはおれたちを助けに来たんじゃないんだろ!? だったら何で……」
「――これ以上……二人に苦しんでほしくなかったから……かな」
何となく、そんな言葉が出た。
本心はもっと複雑だ。だから、今この場で全てを言葉にするには時間がない。
「……また会えた時、ちゃんとお話したい。……だから今は、リビカさんのためにも、二人で逃げて……?」
「……イミ……わかんねえよ……!」
勇ましくあろうとしていたルプスは、その勇敢さを握りこぶしの中に押し殺した。
そして、不安ではなく安堵の涙を流していたヴィディの手を握り、階段を一段ずつ踏みしめる。
「ま、まって! おねえちゃんは……おねえちゃんはにげないの……?」
「……うん。……私はまだ……やることがあるから……」
足を止め顔だけを振り向かせたルプスに、少女は視線を送る。そして、再度不安を表情に浮かべるヴィディに、少女はぎこちない笑みを返した。
二人はそれ以降、歩みを止めなかった。この短時間で培った信頼において、その厚みを考慮してなどいられない。
「何故だミズカ……。君も……早く逃げろ……!」
「自分の最期に立ち会ってくれるヤツが増えて良かったじゃねえか! なんやかんやで、やっぱりお前さんのことも好きだったらしいぜ? ま、見捨てたけどな」
腹の底から笑うブルネアに、リビカは汚物を見るような視線を浴びせる。だが、それは当然のように無意味だった。
ブルネアは刃をリビカの首筋に当て、そのまま静止させた。出血により荒くなったリビカの呼吸の乱れが、徐々に自らの首の傷を開いていく。
「おい、クロクータ。逃げたガキ共を追え」
「なッ……貴様ッ――!!」
直後、リビカの首の裂傷が深まった。リビカの本能がそれ以上の傷を抑制したが、それでも彼女は今にも飛びかかりそうな勢いで、唇を噛み締めブルネアを睨んでいる。
「……へっ、なるほどな。あくまで交渉は決裂した。だから、あのガキ共も逃げた。だが、逃げたガキ共をもう一度捕まえるかどうかはその範疇じゃねぇってわけだな? 相っ変わらず、兄貴は性格悪ぃぜ!」
それはまさしく悪人の思考。きっと交渉に応じていたとしても、似たような理由で抜け穴を探していたことだろう。
「……待ってください……!」
しかし、それは少女にも織り込み済みの発想だった。
クロクータが踏み出したと同時に、再度慣れない大声で場を静止する。
そう、あの二人を逃がしたここからが本番なのだ――
「……私は……リビカさんを見捨てるつもりもありません……!」
「……ミズカ……っ!? 何を言ってる……!」
「オイオイオイ……そいつぁ肝が据わってる通り越して、強欲ってやつだぜ? 第一、貴重な交渉材料はテメェがもう逃がしただろうが?」
動揺するリビカと、嘲笑するクロクータ。二人はこの状況を打開できるはずもないと思い込んで、そう発言したのだろう。
それはきっとブルネアも同じであった。しかし、少女の真っ直ぐな瞳から何を感じ取ったか、依然として沈黙を貫いていた。
「……交渉材料なら……あります……!」
そう、少女は持っている。命を売買する彼らが少なくとも欲しがるに違いない、決定的なモノを。
この世界においての希少価値としても、獣人の本能への刺激としても申し分ない、少女しか持ち得ないモノ――
「……絶滅した……人間の命です……!」
少女はその覚悟に誓って、握り締めていたフードを脱ぎ捨てた。
今度は三者三葉ではなく、少女以外の全員が同じ驚愕を示していた。
「……ニン……ゲン……? オイ兄貴……今コイツ……ニンゲンって……」
「……ミズカが……人間……?」
誰一人として、状況の理解に追いついていない様子だったが、それを傍観して待っていられる余裕は少女にはない。
「……リビカさんとあの二人を、金輪際危険に曝さない。……それを約束していただけるなら、私の……人間の命を……渡します……」
この世界に転生してから、まだ一度も『黒蜘蛛』は顕現していない。それどころか、顕現しなかった結果、少女は重傷を負っている。
それでいてこの決断に至った少女の迷いの重さは、もはや計り知れない。
だが、それこそ少女の中で今まで不変だったものの正体。
『助けたい人を助けたい』――ただそれだけなのだ。
そんな単純な『願い』が、無力で弱気な少女のただ一つの強い覚悟だった。
「……ニンゲン……ニンゲン……」
「オイ、兄貴……? どうしたんだ、兄貴……!?」
黙していたブルネアは、突如気が抜けたようにリビカの剣を落とし、その場に立ち尽くしていた。
だが、離れた距離にいた少女ですら、その真相に気づいた僅か数秒後。
ブルネアの肉体が、一回り、二回りと巨大化していた。
ブルネアは剣を落としたのではなく、その剛腕で掴むことが不可能になっていたのだ――
「ニンゲン、ニンゲン、ニンゲンニンゲンンンッッ!! ヨコセェェェエエエエエ!!」
リビカとクロクータをその初速の風圧で跳ね除け、一目散に少女の元へと獣が迫る。
先刻まで余裕を貫いていたブルネアが、確認しただけで忽ち理性を失ってしまうような存在――それがこの世界の人間なのだ。
「――ミズカッ!!」
かつてブルネアだった獣は、少女を丸呑みにせんとばかりにその大口を裂け開く。
少女がこの獣から身を守る術は、たった一つ。
だが、獣の巨大な体躯で隠された背後には、リビカがいる。今すぐに、賭けに出るわけにはいかない。
少女は全身の力をその細い足に集中し、左方へ勢いよく踏み込んだ。余る勢いは少女の上体を転がし、地面に強く背中を打つ。同時に小さな砕石で手足を切り、砂に汚れた掌に少量の血が滲んだ。
「……やっぱり……そうだ……!」
怪我という概念は、今までの少女にとってかけ離れたものになっていた。それには、『黒蜘蛛』と命名した少女に巣食う異質が大きく関わっている。
しかしながら、この世界ではその『黒蜘蛛』が鈍い。『黒蜘蛛』の原因不明の喪失を代償に得たのは、『痛み』の想起である。
だが、少女はそれ故に確信を得ていた。
この窮地を脱する、唯一の方法に――




