柳は緑、花は君
それは、今にも雨が降りだしそうな日のことだった。
姉が未亡人となってこの家に戻ってきたとき、藍はまだ、まあるく大きな目をした八歳の少女だった。
高校生だった僕は、突然増えた家族に、どう接すればいいのか困惑した。
「あ、直樹、今日から有紀んとこと一緒に暮らすから」
予備校から帰宅した僕は、そう母から告げられた。
件の有紀は娘の藍とふたりで、飛行機移動の疲れで早々に床に就いているという。
「はい? それって、ねーちゃんちのこと?」
「そうよ。直樹の姉は、有紀よ。他に誰がいるの?」
有紀と僕は年の離れた姉弟きょうだいだ。年が離れすぎて、なんと十四歳違いであるのだが、通常でいう姉弟とはちょっと感覚が違う。しいて言えば、おばと甥のような感じだろうか?
だからといって仲が悪いわけでもなく、話せばジェネレーションギャップがあって、そこがちょっと困るかなぁというくらいであった。
そんな姉は三年前に、当時の僕は中学生だったのだが、結婚してシンガポールへいってしまった。
その相手は、仕事関係で知り合った隆信。姉は気ままに付き合っていたのだが、その彼が海外赴任することとなった。
国内であっても、遠距離恋愛には、ままならないことがある。それが海を越えた国際遠距離恋愛ともなれば、なおさらだ。つまりだ、カレシの海外赴任をきっかけに、姉のところは結婚に踏み切ったのである。
シンガポールに移住してからは、姉夫婦は娘の藍を交えて、順調に結婚生活を送っていた。
ところが、隆信が突然、事故死した。幸せの真っただ中で起こった非情な運命であった。
しばらく姉は『夫の忘れ形見』となった娘とふたりで、シンガポールで暮らしていた。
だが姉は帰国した。姉は現地で仕事をしているわけでもなかったし、娘の将来を考えて日本に戻ってきたのである。
「藍ちゃんと会うのははじめてで、言葉はどうかしらと心配だったけど、大丈夫だったわ。国籍は日本だから、一応日本人学校に通わせていたんだって。帰省したときのための言葉の練習だったのだけど、どこでどう転ぶかわからないわね」
母にすれば、藍は孫になる。
言葉の壁がなかったせいか、シンガポール居住だった初対面の孫に特に緊張している様子はない。孫と一緒に住めるのだと、父とふたりで年甲斐もなくはしゃいでいた。
「僕はいいとして……向こうの、その隆信にいさんのご両親は、なんていっているの? それこそ、藍ちゃんは『息子の忘れ形見』じゃないの?」
姉と隆信の結婚は海外移住というのもあれば、もうひとつ別の厄介ごとを抱えていた。
姉と付き合う前、隆信には妻がいた。姉は初婚だが、義兄は再婚なのである。
その義兄の先妻だが、彼女は藍を出産したときに亡くなったそうだ。そう姉からきいた。
これは、妻と引き換えに夫は娘を得たというやつである。義兄は先妻のことを深く愛していて、娘の藍はそれこそ『妻の忘れ形見』となったのである。
姉と義兄は仕事を通して知り合ったのだが、はじめは話のわかる同業他社の人であった。先妻とも面識のある一知人であったのである。
ふたりの付き合いがはじまったのは、藍が三歳ぐらいのとき。父娘の仲は悪くはないが、藍が自分に母親がいないことに気がつき、そのことを寂しく思うようになった頃であった。
「ああ、それね。実はね……」
藍の養育について、まず両家と姉で話し合った。次に藍の意向をきいて、再度、両家で話し合いが行われて、姉が藍を引き取ることになった。
義兄のご両親にすれば、藍は正真正銘『息子の忘れ形見』である。藍は息子と先妻との子であれば、普通は夫の家が引き取るのが妥当だ。
また、先方はこうもいう。姉と藍の間には血のつながりがないので、まだ若い姉に継母の役目を押し付けるようなことはしたくない。姉には次の新しい人生へ踏み出してほしいとのことだった。
「藍が有紀と一緒にいたいっていったのよ」
「ねーちゃんと?」
なんとなく、わかるような気もする。
あくまでも自分の推測の範囲なのだが、もの心ついたときに藍のそばにいた女性は、姉である。義兄と友人であったときから面識があり、藍は姉になついていた。もう姉に母親を重ねていたのだろう。
シンガポールへ移住して慣れない海外生活でも母娘で協力し、突然の夫と父親の死でもふたりで慰め合って乗り切ってきたに違いない。
「そう。まぁ、八歳の子にしたら、実の祖父母といえども一番長い時間を過ごしていた有紀と離れるのは不安なんだろうね。隆信さんの家が悪いってわけはないのだけれど」
さらに母はいう。定期的に隆信の家へ顔にみせにいくという約束を決めて、うちが藍を引き取ることになったのだと。
「僕は、どうしたらいい?」
「普通でいいんじゃない。戸籍の上では、叔父と姪だし。高校生に向かってオジサンはキツイか!」
「うん、ちょっと複雑。噓じゃないんだけど」
こちらは現役の高校生である。叔父さんだけど、オジサンという年齢ではない。
「じゃあ、お兄さんにしておきましょう! 藍ちゃん、素直でいい子だったわよ。直樹もいいお兄さんになるのよ」
思春期の男子高校生に、まるで拾ってきた猫の仔の世話をいい付けるように軽く母はいうのであった。
***
雨降りの午後のことである。いまにも降りだしそうな天気だなと思っていたが、本当に降ってきた。
「直樹~、悪いけど、藍を迎えにいってきてくれない?」
階下の店舗から、そう母が声をかける。自宅兼店舗の住宅ならではの騒音である。
「はい? 僕、テスト勉強中だけど」
「いいじゃない。気分転換でいってきて。うっかり雨予報を忘れていて、藍に傘を持たせるのを忘れちゃったから」
藍がこの家の一員となって、二ヶ月が経った。
はじめこそは緊張して、子供ながらに気を遣っているのが見え見えの藍であった。
だが、天性の陽気な気質とでもいおうか、すぐに屈託なく笑うようになった。父と母には、本当の孫のように適度に甘えて適度に従う。
藍はシンガポールでの暮らしが抜けず気が動転したときには英語が出てしまうが、日本人学校のおかげか、たまにつっかえるが日常会話は日本語である。
当初、帰国までの藍の生活考えると、インターナショナル・スクールへ通わすほうがいいのではと、うちの両親は懸念した。しかし、そこまで藍の日本語レベルが怪しいわけではない。
姉と離れるのは嫌だという藍の希望を第一にすれば、都会のインターナショナル・スクールの寄宿学校の選択肢は消えた。地元の公立小学校、残念ながら自分の地区には帰国子女を受け入れることができるシャレた私立小学校はないのだ、へ、藍は編入することとなった。
「直樹だって懐かしいでしょ、自分の母校なんだから」
と、五年前に卒業した小学校のOB訪問だと、母は理由をつける。
「えー、タルいよ。そんな思い出深い場所でもないし」
「まぁまぁ、もうすぐお客さんがくるから店から動けないのよ~。藍ちゃんが雨に濡れて、風邪ひいちゃうでしょ!」
息子の定期考査よりも、孫の体を心配する。自営業の家の主婦である母は、孫馬鹿でもあれば事業主でもあった。
「ヘイ、ヘイ」
扶養家族としては、家業の安定経営は大事である。
「あ、そうそう、ついでにこれも買ってきて!」
藍へ傘を届けるだけでなく、お使いまで頼まれてしまう。今晩のおかずの揚げ物に使う、パン粉だという。
繰り返す、扶養家族は養ってもらっているから、家のいいつけには従わざるを得ない。姉だって、いつまでも扶養家族のままでいるのはアレだからと、先月から隣町の契約仕事に出るようになったのだから。
かくて、黄色い子供用の傘を持ち、僕は小学校へ向かった。
懐かしの通学路を歩き、母校へ向かう。
藍は小学校二年生であれば、下校時間は早いほう。小学校までの道のりで、黄色い帽子の子供とは誰とも出会わない。
正面玄関で来校者手続きを済ませて、保護者のネームプレートをもらう。首にかけて、二年生の教室に向かった。
田舎の小学校であれば、ひと学年のクラスは三つ。ひとクラス三十人足らずで、学年で八十人超えるかどうか。少子高齢化の今は、これでも多いほうかもしれない。
ちょうど掃除が終わって、帰りの会となっていた。
あからさまに登場するのは小恥ずかしいものがあり、教室の様子を確認だけして、昇降口で待つことにした。
ざんざんと雨が降っている。
学校に入った途端、雨足が強くなった。母にいわれて傘を持ってきたのは、正解だった。
開けっ放しの昇降口は、湿っぽい空気が外から流れ込んでいて、独特の匂いがある。風通しが悪いわけではないが、靴や置き傘から生活臭が漂い出している。
一種のノスタルジーに浸りながら、昇降口付近を見て回る。高学年の習字が貼ってあれば、地区の陸上記録会の団体競技の表彰状、卒業記念で作成されたモザイクアートなど、自分が小学生であったときからあるもの、卒業後に飾られたものが、一緒くたになって展示されていた。
小学校ならではのカオスを堪能するうちに、子供らの高い声がきこえてきた。
藍は傘を持っていないから、すぐにはここに現れないだろう。そう思い、子供らの邪魔にならぬよう昇降口そばの廊下へ引っ込んだ。
自分のすぐそばを、胸元までしかない背の子供が通る。どの子も黄色いスクール帽子をかぶっていて、ワイワイとやってきては、バタバタと靴を履き替えて、さっさと傘をさして下校していった。
同じ帽子の一群だから、私服をみて藍を探した。
こちらが探すまでもなく、藍のほうだって自分のことに気がつくはずだ。傘を持って迎えにきていることは知らなくても、家族の顔をみれば察する。藍は、素直な子供であると同時に聡い子供だから。
「お前さぁ、ちょっと英語ができるからって、威張るじゃねーよ」
「シンガポール帰りらしいけど、本当に日本人? お前、かーちゃんとは血がつながっていないんだろ」
「この間の学級会、あれが世界標準とか先生はいっていたけど、俺は認めないからな!」
小学校の、しかも低学年の校舎の片隅で、なにやら穏やかでない会話がきこえてきた。
のんびり藍を待っていたら、いじめらしき現場に遭遇してしまった。しかも、シンガポールとか、日本人とか、血のつながりが、とかいう。そこから、その対象は藍だと思われた。
両親と姉が懸念していたことに、藍の日本語の問題があった。
それ以外にも、ここは田舎の小さな町で、不特定多数の人の出入りのある都会と違って閉鎖的なところがある。それゆえ海外での自己主張の仕方をそのまま持ち込めば、藍がトラブルに遭うかもしれないと危惧していた。
その予想は当たり、今まさに藍はそのことでやり玉にあげられている。
急な雨で一斉下校とならなかった今日は、ひと言いってやるにはちょうどいい。そんな感じの、クラスメートらの声であった。
「前の学校は英語で授業だったから、どうしても話せないとだめだったの」
「本当のお母さんは、私が生まれてすぐに死んじゃったの。血のつながりはないけど、有紀さんは私のお母さんよ」
「シンガポールでは意見を述べてから着席だったの。こっちは逆だから、今度から気をつける」
健気にも藍は、『従順』を約束する。
だが、クラスメートはその程度では腹の虫がおさまらないらしい。小学生さながらの暴言を、これでもかと藍に浴びせた。
このクラスメートの因縁は、それこそ典型的な田舎のもの。要は、集団の中で毛色の違う人間は、正しかろうがそうでなかろうが排除の対象となってしまうのである。
家の事業も、そんな田舎ならではのお付き合いの中で行っている。大人も子供もあまり変わりない。
両親は、そのあたりはうまく順応してやっているが、姉は馴染めず進学を機に出ていった。そんな姉に居心地の良さを感じ一緒に暮らすことを望んだ藍も、きっと姉と同じ気質だろう。
そして僕も、希望する職に就くために進学して出ていく予定である。
はてさて、どうしたものか?
ひとこと高校生の自分がもの申せば、場は収拾する。でも、それは一時的なもの。
子供には子供の社会がある。干渉の仕方を間違えれば、ややこしいことになる。この町の異分子である藍は、まだ八歳だ。自分で解決するには、まだまだ幼い。
こうするしかないなと僕は判断し、実行した。
「藍、迎えにきたぞー、らーん、どこだぁ~?」
と、いかにもいま到着したかのように子供たちの前に姿をみせ、余計なことは一切いわず、ただ藍をその場から連れ出したのだった。
***
ざんざんと、雨が降っている。
幾千もの雨粒がはじけては、周りの景色を白く煙らしていた。
「さっきの、今までにもあった?」
「…………」
それぞれが傘を差し、藍と並んで濡れた歩道を歩いていく。雨の勢いは変わらず、路面にはたくさんの水たまりができていた。それを避けながら、ふたりで歩いていく。
何気なく先の言いがかりについて訊いてみるも、藍は無言。水たまりに彼女の注意がいっているということにしよう。
お使いを頼まれたので、まっすぐ帰宅せず、藍とともにスーパーマーケットへ向かう。藍はランドセルを背負ったままだが、保護者、正確にはちょっと違うのだが、がいるから問題ないだろう。
「あまりひどいようだと、先生にお願いすることができる。来年のクラス替えで別クラスにしてもらうとか、ね。保健室登校という手もある」
「…………」
依然、藍は無言であるが、特に追及はしない。大人でも子供でも答えにくいことはある。
だけど、そのままにしておくのは酷かと思い、極力、先のクラスメートとの接触を少なくする方法を教えた。
そうこうするうちにスーパーマーケットに着いた。頼まれていたパン粉を買う。それとは別にプリンをふたつ買った。
まだまだ雨は本降りで、こんな中を急いで帰宅することもない。雨足が弱るまで藍とふたり、スーパーマーケットのイートインコーナーでプリンを食べながら雨宿りすることにした。
大きな窓ガラスが温度差で曇っている。外は白く煙ったまま、雨足と同様で変わっていない。
昼だけど暗い雨空の下、スーパーマーケットの駐車場の向こう側にぼんやりと公園を認めた。
初夏であれば公園の木々も葉が大きくなり、その色も濃くなっていた。でも雨の中では曖昧だ、輪郭も、葉色も。
こんな例で慰めになるかどうかはわからないが、藍のことを子供ではなく大人として、こう切り出した。
「藍、あそこの公園の木の葉っぱの色、何色にみえる?」
「?」
口の中のプリンをきちんと食べてから、藍は窓外をみた。
「青……色、ううん、水色かな?」
「今日は雨だからね、ガラスだって曇ってわかりにくいし。でも近くへいけば何色だと思う?」
「緑。枯れていないから緑のはず」
変な質問といわんばかりに藍は目をまあるくする。
これは、はじめて藍と顔を合わせたときの顔だ。彼女が目を大きくするのは興味深々のときなのだが、自分としてはひどく印象に残っている藍の顔である。
初対面のときにこんな顔をされて僕は戸惑うしかなかったが、今は違う。まだ二ヶ月やそこらというかもしれないが、藍はもううちの家族である。
藍の目が興味深々となるのは、相手に心許したときだけ。いいかえれば、これは家族にだけにみせる顔だ。そうとわかれば、藍に頼られていると自覚する。
気分はすっかり叔父さん、いや兄のつもりで先を続けた。
「日本には『柳は緑花は紅』ってことわざがあって、これはきれいな春の風景のことをいっているんだけど……」
迎えにいく前に勉強していたのは、ちょうど現代文だった。偶然にも、勉強の成果をお披露目することとなった。
「緑の葉は緑、赤い花は赤い。それぞれが自然な色をしているといっていて……まぁ、秋には木の葉は赤くなるけど……シンガポールでは、どうかな? まぁそれは別にして」
「…………」
「つまりだ、花や木にはそれぞれの色があって、ありのままの姿が違っているのは当然のことって言う意味だ。雨のせいでここからみえる公園の木が青だとしても、そばでみれば緑なんだよ」
ここまでいって、失敗したかなと思う。
要は、自然がそれぞれの色を持っているように人間だっていろいろな人がいる、そういいたかった。クラスメイトから生意気だといわれても、それはひとつの意見に過ぎないし、正しいとも誤っているともいえないのだと。
ありのままの藍でいいよといいたかったのだが、伝わっただろうか?
少し困ったような顔になって、藍はプリンをひと口、食べた。
じっくり味わって、またあのまあるい目で僕をみていう。
「直樹お兄ちゃん、プリン、美味しいね」
「そうか、僕の好きなメーカーのプリンだけど、藍の口に合ってよかったよ」
「うん、とっても美味しい」
ふたりでゆっくりと残りのプリンを食べてしまう。最後にごちそうさまのセリフでしめて、そこから先は今晩のおかずについていろいろ話した。
***
さらに時間が経過して、夏休みがやってきた。
雨の言いがかり事件からこっち、家での藍の様子に変わりはない。
一応、母に学校昇降口でのことを話しておいたが、そこから先はどう対応したのかは知らない。あまり根掘り葉掘りきくのもいけないような気がして、微妙な義理の叔父の立場を体感する。
世間が夏休みなので、藍は通信簿を持って帰ってきた。
藍と姉が縁日に出かけている間に、母からその内容を教えてもらう。
学力は三段階でほとんど三。小学二年生の通信簿だから、やる気を削ぐようなシビアなものはない。
気になるのは成績でなくて、総合所見である。学校生活での無難な記述が並んでいて、最後にこうあった。
――編入初期は日本の生活に慣れなくて落ち着かない様子でしたが、今では問題なく団体行動をとることができています。この調子でクラスメイトと交友を深めていけるよう支援していきます。
シンガポールにいたときの調子で発言したら、生意気だと藍はいわれた。
クラス担任のほうも藍の積極性を『世界標準』だといっていたくせに、所見では『日本の生活に慣れなくて落ち着かない様子』とある。
ここから、クラス担任も藍の個性の強さ、ひいては海外での自己主張の仕方に手を焼いていたのかなと思う。いまの学校教育だと個人の個性を伸ばすより、問題のないクラス運営のほうが大事なのかもしれない。
『問題なく団体行動をとることができています』――これにも、ちょっと納得いかない点がある。この『問題なく』のところで、藍が躾されていない子供のようにきこえてならない。
そもそも藍は団体行動ができない子供ではない。いわれたことに無条件に従うのではなく、彼女は疑問に思ったことを質問しているだけだと思う。でも田舎では、これが『和を乱す』ことになる。
家での顔しか知らない自分としては大人しすぎる学校の藍の姿に意外な気もするが、数ヶ月小学校へ通って藍は気づいたのだろう。とりあえず従順になる――子供なりの処世術なのかもしれない。
「藍ちゃん、今度お友達の家に遊びにいくのよ」
「へー、それってはじめてのことじゃない?」
「そうよ。英語を喋れるから生意気だっていわれて、それからは英語を忘れた振りをしているんだって。学校の英語の授業ではわざと間違えているみたい。それから話しかけられるようになったんだって。なんともはや、世渡り上手よ」
そう母にいわれて、再び通信簿に目を落とす。
母のいうとおり、ほとんど三の成績表のなかで英語の項目は二であった。シンガポールで暮らしていたのだ、絶対にありえないことだ。
なんとなく、こう思う。
自己主張すれば目立って叩かれる、ならば、今はしないほうがいい。遠くからみる分には『大人しくて従順な子供』だけど、そばでみれば『大人顔負けの自己主張できる芯のある子ども』に、藍は行動を切り替えたのかなと。
あの『柳は緑花は紅』とは、ありのままの姿が違っているのは当然のことということわざだ。
今までの生き方を否定されても、それを消すことはできない。できないのなら、隠せばいい。
そこから、自己主張はわかる人の前だけですればいいのではないか、ありのままの姿は人それぞれであるということを知っている人だけが自分を理解してくれるはず。
そんな結論を自分の力だけで引き出して実行しているのなら、藍はとてつもない強い精神力の持ち主である。
こうなれば、『柳は緑、花は藍』といった心境だ。叔父として誇らしい気持ちにもなれば、藍の支えになれたみたいで嬉しい。
「あら、有紀と藍ちゃん帰ってきたわね」
玄関先が騒がしくなって、件の親子が帰宅した。
トトトと、軽い足音がして藍が台所へ駆け込んでくる。藍が現れると、古い台所がぱぁっと明るくなったような感じがした。
「ただいまー、日本のフェスティバル、面白かった!」
「そう、よかったね」
「うん! これがスーベニア。おばあちゃんにはこれ! おじいちゃんにはこれ!」
と、遅れてやってきた姉から紙袋を受け取り、縁日土産を配りだす。何のことはない、大判焼きである。
「これが、直樹お兄ちゃんの分!」
自分にも大判焼きの土産があった。かわいい姪っ子である。
「お兄ちゃん、プリン好きでしょ! おばあちゃんとおじいちゃんにはスイート・ビーン・ペーストだけど、お兄ちゃんにはプリン味のオーバンヤキだよ」
手渡されたのは、カスタードクリームの大判焼きだ。目を大きくして自信満々の笑みとともに、藍から受け取った。
自然がそれぞれの色を持っているように人間だっていろいろな人がいる。
ありのままの藍でいいよといいたかったのだが、伝わっただろうか?
あの雨の帰り道で、好きなプリンメーカーのことはいったがプリンが好きだとはいっていない。でも、そんなこと、どうでもいいと思う。
自分が伝えたかったことが充分伝わっている、そう思われる夏休みの出来事だった。
スイート・ビーン・ペースト→あんこです(^^)
誤字報告、ありがとうございました <<(_ _)>>




