ソーダ味の甘いやつ
眩しい陽光に、掌をかざす。
寝不足で最悪な気分を裏切るように、今日は上天気だ。
空に浮かぶ綿菓子のような雲は頼りなく風に吹かれていくばかりで、窓越しでも日差しは容赦なく肌を焼く気がする。
さっきまで確かに起きていたはずなのに、いつの間にか意識が消えていたらしい。
頬には消しゴムの屑が貼り付き、指先で触れる度にポロポロと落ちる。
確かに見ていたはずの書類は、いつの間にか回収されたらしく手元にない。
「三浦さん、起きたんだったらそこの書類、署名して」
パチパチと電卓をはじく音が絶え間なく響き、書類から顔も上げずに話し掛ける相棒に、今更ながら意識を向ける。
彼がわずかに視線を動かした先にある机の上に、確かに寝落ちする直前まで見ていたはずの書類が鎮座している。
「ご……」
「あ、謝らなくていいから。効率上がらないんで、今日は帰ったら?」
音と共に手が止まり、今度は流れるような仕草で広げてあった書類を片付け始めた彼の、やっと向けられた視線と視線が合う。
聞きようによっては冷たく聞こえる言葉に込められた気遣いに、表情には出さずに心の中でため息をつく。
しゃれっ気のないメタルフレームの眼鏡、紋切り型の口調、にこりともしない愛想のない顔。
それなりに整った知的な雰囲気と、すらりと高い身長、着崩されることなくキッチリ絞められたタイ。
生真面目を体現したような、お堅い雰囲気を擬人化したような優等生の典型、それがこの有馬君という人だ。
しかも、その見た目に反さず彼はとても、有能だ。
「後は俺がやっとくから、大丈夫なんで」
眼鏡を直しながら淡々と告げられる内容は、何度も繰り返すが、聞きようによっては邪魔だと追い返されているように感じるだろう。
せめてちょっとぐらい微笑むというオプションを追加できないのか、と常々思う。
某ファストフード店でも、ゼロ円で追加可能なオプションだというのに、少々サービス精神がマイナス方向に振り切れ過ぎではないだろうか。
仕事の正確性、処理能力どこを取っても完璧なのに、致命的に対人能力が低い。
そのせいでロボット扱いされているのを、本人が意に介さないから余計にどうにもならない。
「有馬君、言い方」
「……でも伝わってるでしょ?」
「私は分かってるけど、そういう問題じゃないって分かってるでしょ?」
じっと見つめれば、心底面倒そうに無駄に大きなため息を、これ見よがしに吐かれる。
相変わらず態度が悪い。
む、と思わず眉が寄ったのを、有馬君は視線をついっと逸らして見ないふりをする。
「メンドイ。別に、俺が分かって欲しい人間にだけ伝わればいいでしょ」
窓から強い光を受けた瞳が、光を含んで澄んだ光を放つ。
それだけで、何か言い返せなくなるからイケメンという部類の人間はズルいと思う。
それに、外面を脱ぎ捨てた有馬君を知っているのは正直、ちょっと気分が良い。
皆表面面に騙されて、コイツが実は面倒臭がりであることを知らない。
どうでも良い相手に対して笑顔を作るのはトラブル回避のためだし、普段あまり口を開かないのは無益なことに無駄なリソースを割きたくないからと言われた日には、コイツの優等生の仮面に騙されている人間たちに本気で同情したぐらいだ。
「それより、この予算案今日中だから監査の署名」
「検算してないよ?」
「俺がミスるとでも?」
「それこそ、ないわー」
「そういうこと」
うちの高校は妙に生徒の自主性を尊重したがるから、実行委員会で毎回行事の度に予算配分の調整を生徒側で折衝し、予算案の準備を行い関係する先生方の承認を貰って歩くとか、本当に仕事量が多い。
本当なら、会計とか会計監査とか、そういう数字に関することは苦手なのだ。
それでも、気が付いたら他の人たちが面倒だからと避けたポストに押し込まれていた。
たまたまセットで相棒になった会計の有馬君が、数字にも書類にもめっぽう強かったから助かった。
そうじゃなかったら、昨日までに交渉とか調整とか全部終わらせていたからといっても、今日は名前を書くだけの簡単なお仕事だけで終わるはずなんてなかった。
「今日の提出は俺だけで大丈夫だけど、明後日の予算発表会での説明とか、必要そうな事前の根回しは資料まとめといたからよろしく」
わざわざ文書作成ソフトまで駆使してしっかりした体裁の書類に作られている紙の小束をめくって、几帳面な書き込み付きで重要ポイントまで解説されていることに思わず笑みが浮かぶ。
本当に、完璧だ。これがあれば、私みたいな見た目詐欺のぼんやりのんびり女子にも、ベストなパフォーマンスが発揮できること間違いなしだ。
小さく笑いを漏らした私に、怪訝そうな表情が返って来る。
「何でもない。……じゃあ、今日は任せた」
スッと拳を突き出した私に、コツンと控えめな仕草で拳が合わされる。
その瞬間、有馬君の唇がわずかに弧を描いたのを見逃さなかった私を全力で褒めたいと思う。
「任された。……だから、ちゃんと帰ってご飯を食べて、寝ること」
男女の友情は存在しないというけれど、背中を預け合えるこういう安心感っていうものは存在するのはありなんじゃないかと思う。
だから、私も気の抜けた笑みで応じる。
「うん、よろしくね~」
後ろも見ずに適当に手を振って教室を後にした私は、有馬君がじっと私のことを見ていたことも、その視線の意味も思いっきりスルーしたことに気が付かなかった。
「……まったく、鈍いのはどっちなんだか」
しみじみと呟いたその人は、困ったように微笑んだ。
彼女を初めて見掛けたのは、図書室の窓際の席だった。
何の本なのか、分厚い古めかしい装丁のハードカバーを、相当な集中力で見ていたのが印象的だった。
その次も同じ席で同じような本を読んでいて、雨の中傘を差そうとしてた手を止めて、思わず見てしまったのを覚えている。
とにかく、没入しているという表現が相応しい集中力に、変わった人だと思った。
黒っぽいセルフレームの眼鏡に、頬に影が落ちそうな睫毛、一度も染めたことがなさそうな黒髪、血色のいい頬に引き結ばれていてもふっくらした唇。
そこまで辿って、適当に結んだ髪を煩わしそうに払う手の動きに、我に返った。
今、一体何を見ていたんだろう。
心臓の音がうるさい。
視線を外し、傘を持ち直そうとして身じろぎした瞬間、その動きに引き寄せられたかのように伏せられていた目と目が、合った。
ゆっくりと焦点が合わせられ、視線が合っていることに気付いた彼女が微笑むまでの間、セルフレームの奥の睫毛の長さとか、瞳の意外なほどの黒さとか、まるでコマ落としのようにくっきりと心に焼き付いたのを覚えている。
付き合いが長くなって、あの時の微笑みに何かしらの意味もないことが分かったけれど、それでも、息が出来ないぐらい衝撃的だった。
世界の色合いが意味を変えるほど。
今となっては、彼女がいる世界は、笑えるほどに色鮮やかだ。
「そういうところは、俺も人並みってことか」
鈍い彼女がいつ気付いてくれるのかということも含めて、今の日常はなかなかに刺激的で、悪くないと思っていた。
「三浦さんってさ、有馬君とどういう関係なの?」
「ん? 会計と、会計監査だよ?」
「そういうのじゃなくてさぁ。あの人、三浦さんの前でだけは笑うじゃない?」
それは、他愛のないはずの会話だった。
よくある多大なる誤解に基づくコイバナの一種かと思って軽く返した私に、その子たちは眉を寄せ、表情を険しくして詰め寄ってきた。
「あー。私が数字苦手だから、仕事の相方としては放っておけなくて世話焼いてくれるだけだと思うよ」
「でも、私は聞いた話では、有馬君本当は書記になるはずだったのに三浦さんが会計に決まったとたん、自分を会計に自推して三浦さんを会計監査に就けたって噂だったけど」
「あ、それ、私も聞いた」
「あの有馬君が、珍しく強い調子で押し切ったって噂になってたよねぇ」
「で、どうなの?」
相手の女子たちは3人、私は1人。
もちろん、相手は私よりも小柄でゆるふわな女子たちで、それでも、3人で集まってグイグイ来られたら普通に圧は凄い訳で。
この状況でも、言葉選びとか口調に失敗して泣かせると、大抵私が悪いことにされるから不思議だ。
だから本当は、私は同年代の女子っていう生き物があまり好きじゃない。
正直苦手だが、性別が同じ以上、どうしても接点が増えてしまう部分はいかんともしがたい。
今だって、選択授業の後に流しで手を洗っていたらこうやって絡まれたんだから、どう考えたって被害者は私だと思う。
「係決めがあった日、実は欠席していてよく分からないんだ。ごめんね」
意識して、緊張感のない笑顔を浮かべ、なるべく軽く答える。
口にしたことは、事実。
でも、それ以上に、私は有馬君に特別待遇してもらう理由なんてないから。
だって、業務上の相棒みたいなものだけど、それ以上でも以下でもないはずだから。
勘違いなんて、しちゃだめなんだ。
「……それ、事実だよ」
「え」
「だって三浦さん、本気で文系に偏り過ぎてて数字弱いからどうにもならないし。それに、俺が誰かに贔屓しちゃいけない理由なんてないでしょ」
背後から突然、さらりと告げられた内容に言葉が出て来なくなる。
何よりこの、感情の薄い淡々としたしゃべり方になじみがあり過ぎる。
「あ…有馬、君」
感情のこもらない視線が彼女たちを順番にひと撫でしただけなのに、まるでゴルゴンにでも出会ったかのように石化した彼女たちに、ちょびっとだけ、ほんの爪の先ぐらい同情する。
まぁ、吹けば飛ぶ埃よりも軽い同情心だけど。
「説明するから、来て」
後を付いて来ると微塵も疑わない様子でさっさと歩き出す有馬君の後を、慌てて小走りに歩き出す。
その背中を追い掛けながら、ほどなく始まるホームルームのことを思い浮かべる。
授業じゃないからあまり問題ないにしても、仮にも生徒会の役員がそろって2人もさぼりとか、間違いなくなくてもまずい状態なのは間違いないだろう。
スタスタと迷いのない速足で校舎の端までやってきた有馬君は、これまた迷いのない様子で階段を上り始める。
1階分上ると、元々何のために作ったのかよく分からない、四畳半ぐらいの踊り場があって行き止まりになった。
「あまり長く話す気はないけど、とりあえずこっちに来て座って」
古い体操マットらしい、灰色がかった布の塊を背もたれにして床に座り込んだ有馬君の向かい側に、そろそろと腰を下ろす。
何となく、真剣な空気に正座して、姿勢を正す。
正直、この状況には困惑しかない。
一体何を考えているのだか。
「あの…さっき、本当のことって……」
「うん、言った」
信じられずに尻すぼみに消えていく私の言葉の端を捕まえるかのように、いつになく性急に言葉を重ねて来る有馬君に、目を見張る。
「だって、俺には三浦さんのことを特別扱いしたい理由があるから」
まっすぐに向けられる視線に、目が逸らせなくなる。
この状況でこういう言葉を口にして、照れも迷いもなさそうな有馬君に、一周回って心から感心する。
この人、将来大物になるに違いない。
そうでも思っていなければ表情すら作りようがなくて、私はただじっと彼の目を見ていた。
陽の光を受けて少しだけ色が浅くなる瞳が、僅かに揺らいでいる。
「本当は気付くまで待ちたかったけど、自分の口で言うって決めてたから」
揺らぐ瞳の中に、驚いた表情の私が映り込んでいる。
見慣れた顔が彼にはこんな風に見えているのかと、変な方向に感動しながら言われた言葉の意味を、必死に咀嚼する。
もしかして、もしかしなくても。
「俺に、相棒じゃなくなっても隣にいる権利がほしい」
私の反応を見逃さないように、答えを探すように揺れる瞳が、変わらないように見える表情の中で言葉よりも雄弁で。
私は、私の前でだけ彼が笑う理由を見つけた気がした。
「それは、私の方がお願いしなきゃいけない気がする」
正座した状態から、少しだけ腰を浮かしてにじり寄る。
「私、結構抜けてるから有馬君の想定以上に、リソース喰うけど大丈夫?」
「は」
いつか不用意に言い放った言葉が返って来るとは思いもしなかった有馬君の、気の抜けた表情に意地の悪い笑みを浮かべる。
次の瞬間、弾かれたように笑い出した有馬君に、今度はこちらが面食らう。
天窓のように高い位置から射しこんでいた夕焼けの光が逸れて、ずっと普段通りだと思っていた有馬君の頬から耳、首までほんのりと赤く染まっていることに気が付いて却ってこちらがドキッとする。
ああ、やっぱり適わない。
本当に、予想外ばかりだ。
「大丈夫だよ、俺、結構スペック高いから」
「うん。いつもお世話になってます」
「むしろご褒美です」
お互いに頭を下げ合って、余波のように有馬君は小さく笑いをこぼす。
「あー。やっと言えた。言ったら、なんか気が軽くなっちゃったよ」
大きく伸びをして晴れ晴れとした表情になる彼に、何だか理由もなく罪悪感を感じる。
でも、今まで窮屈な思いをさせて申し訳ないと謝るのも何だか違う気がして、うろうろと意味もなく視線を彷徨わせる。
「有馬君って、私の前では割と表情筋が仕事してるよね」
「ああ。三浦さんって、勘違いしない人だからさ」
無言で首を傾げる私に、有馬君はちょっと困ったように言いよどむ。
「ええとね、感じ悪いと思われないために笑顔を浮かべたら一定水準以上の好意を抱いていると勘違いされるとか、煩わしくてさ。あと、疲れている時とか他に集中したいことがある時にはヘラヘラしてられないし。それを不機嫌と勝手に判断して泣くとか、ホントないわーって思うからさ。主に俺の外聞が死ぬって意味で」
有馬君の言葉に、思わずポンと拳を打つ。
「ああ、それはないわね。それ私も本気で嫌なヤツだわ」
「分かってくれて嬉しいよ」
思わず真顔で頷く私に、有馬君も深く頷き返す。
この気の置けない距離感が、ずっと好きだった。
相棒として培ってきた感覚が、ふわふわとした得体の知れない恋愛感情に塗りつぶされたりしたらどうしようと心配したのはただの杞憂だったと、変わらない様子の有馬君を見て思う。
視線が合って見つめる瞳に、今まで見慣れた親しみ以上の感情が存在しているのを感じるだけで。
ちょっと胸が苦しくなるぐらいで、何の問題も、ない、はず、だ。たぶん。
「あ、ホームルーム終わった」
「……先生に、なんて言い訳しよう?」
気付いていなかっただけで意外と近い位置にあったスピーカーから流れるチャイムに、チラッと時計を確認した有馬君が呟く。
腕を組み、眉を寄せた私にポケットをゴソゴソ探っていた彼が手を伸ばす。
何気なく顔を上げた私の口元に硬いものが押し付けられ、思わず口を開ければそのまま押し込まれる。
「好きだったよね」
確信犯の笑みに、目を奪われる。
ちょっとだけ意地悪な笑みを浮かべながら、自分もポケットから出した小さな包みを破いて、ポンと口の中に放り込む。
「「ソーダ味の、甘いやつ」」
想定外にハモった声にパチクリと瞬きをする私とは対照的に、いたずらが成功したと言わんばかりの満足そうな笑みを浮かべて、有馬君は口の中の飴を転がす。
怒涛の展開に少し疲れた体に、なんだかいつもよりも甘く染み込むような気がして。
シュワシュワとわずかに発砲しながら溶けていく飴の、その泡が胸の奥でもパチパチとはじけるような気がした。
その感覚は意外なほどに心躍るもので、私は遠いざわめきから隔離されたようなこの時間を、もう少しだけ味わうことにした。