後編A 愛しているは、もういらない。
「愛しているよ、エレナ」
「わっ……私も愛していますわ、エンリーコ様」
裏庭で声をかけられてから一ヶ月ほど経った学園の休日、私とガッロ侯爵家のエンリーコ様は馬車の中で愛の言葉を交わし合っていた。
あの後、私はアレッサンドロ様と婚約を解消して彼と婚約したのだ。
「エンリーコ様、挨拶の後で一度言い合うくらいで良いのではないですか?」
「駄目だよ。エレナはまだ僕のこと愛してないでしょう?」
「それは……申し訳ありません」
「もちろん政略的な婚約の場合、どんなに頑張っても愛し愛されないことはあると思う。でも愛し合おうとする努力は忘れちゃいけないと思うな。形だけの結婚になっても僕は浮気しないから、愛しいエレナも浮気しないでね」
「は、はい。私も浮気しませんわ、愛しいエンリーコ様」
「ふふっ」
私が愛の言葉を口にすると、彼は心底嬉しそうに笑う。
今回はフランコ伯爵家との婚約とは違う。
羽振りの良いガッロ侯爵家は爵位も財力もマルキ商会より遥かに格上だ。まさに玉の輿と言える。
エンリーコ様が独立して子爵となっても侯爵家からの影響力は変わらない。
浮気されても泣き寝入りするしかないくらい力の差があるのに、彼は浮気しないと、愛し合う努力をしようと言ってくれた。
それはこの婚約にガッロ侯爵家を利するものがあるからなのだけれど、それでも気持ちが嬉しかった。
やがて、フランコ伯爵家が王都に持つ館の前で馬車が停まった。
私をエスコートして降ろしてくれながら、エンリーコ様が微笑む。
「でもね、エレナ。実はね、僕はもう君を愛しているんだよ。そうじゃなきゃこんな計画立てるわけないだろ?」
「え?」
戸惑う私の手を取ったまま、エンリーコ様は伯爵家の人間の案内に従って中庭へ向かう。
中庭には立食パーティの用意がされている。
式場の中央には正装したアレッサンドロ様とリティージョ様がいる。今日、ふたりは結婚するのだ。身内だけのささやかな式に私はマルキ商会の、エンリーコ様はガッロ侯爵家の代表として参加する。
ガッロ侯爵家はフランコ伯爵家の寄り親ではないし、派閥が同じわけでもない。
なのにどうしてガッロ侯爵家の代表がフランコ伯爵家の身内の式に出席するのかというと──
「おめでとう! ああ、本当にリティージョ嬢はご自分の大叔母殿にそっくりだね。祖父が大事にしている肖像画に生き写しだよ。祖父は婚約者である祖母を選んだけれど、アレッサンドロ殿は君を選んでくれて良かったね!」
というわけである。
コンテ男爵家は借金塗れだった。フランコ伯爵家との縁でマルキ商会がおこなっていた援助も焼け石に水、生活費とちょっとしたお小遣いくらいにしかなっていなかった。
エンリーコ様の祖父であるガッロ侯爵様は、マルキ商会やほかの債権者からコンテ男爵家の債権を買い取り、リティージョ様を自分の愛人にしようとしていたのだ。
『冗談じゃないよ! お婆様はまだご存命だし、今の侯爵家の羽振りが良いのはお婆様の才覚があってこそなんだ。あの女を愛人にして子どもでも作った日には息子も孫も追い出しかねないよ、あの色ボケ爺!』
あのとき、お互いの利益になる計画があると言ったエンリーコ様は、現状を説明した後でそう毒づいた。
まあ確かに、家族からしたらたまったものではないだろう。
現侯爵様はリティージョ様を愛人に迎えたら息子──エンリーコ様のお父様に当主を譲ると言ったそうだが、とても信じられない。エンリーコ様のお婆様が持参金付きで嫁いで見事な才覚で領地を立て直す前、当時跡取りだった現侯爵様がリティージョ様の大叔母様に貢いだせいでガッロ侯爵家は傾きかけていたのだ。今回も同じように初恋の人の姪孫に貢ぎまくるかもしれない。
……そこまで貢がれていたのに今は借金塗れのコンテ男爵家は、どれだけお金の運用が下手なのか。
エンリーコ様の利は、大叔母様と同じように婚約者のいる男性を好きになってしまったリティージョ様の恋を応援することを美談に仕立て上げて、誇り高い現侯爵様の動きを封じること。さすがに本人も初恋の人の姪孫に色ボケ爺とは思われたくないらしい。
私の利は、アレッサンドロ様と別れられること。
彼に恋する気持ちが消えたわけではない。でも浮気相手のいる人を愛し続けるほど強い想いではなかった。愛しているという言葉を奪い取っても、アレッサンドロ様が追いかけていくのはリティージョ様だった。もういっそきっぱり別れたほうが気も楽だ。
ガッロ侯爵家は、フランコ伯爵家の債権もマルキ商会から買い取ってくれた。
私とアレッサンドロ様をつなぐものはもうなにもない。エンリーコ様は子爵になって独立するので、嫁いだ私が侯爵家の持つ債権に関係することもない。
それに、フランコ伯爵家のアレッサンドロ様との婚約を解消した後で格上のガッロ侯爵家のエンリーコ様と婚約するのは、ちょっとした意趣返しになる。将来的には子爵になるとはいえ、今のエンリーコ様は侯爵家令息だ。
「おめでとうございます。本当に愛する方と結ばれて、おふたりがお幸せになられることを祈っていますわ」
私も挨拶をして、エンリーコ様と移動した。
コンテ男爵家以外の寄り子貴族、付き合いのある商人や職人達の祝福を受けるアレッサンドロ様の表情は、少し強張っているように見えた。緊張なさっているのだろう。
疲れからか、リティージョ様の笑顔もどんどんと曇っていく。
「……愛しているよ、エレナ」
「ふぇっ!」
ぼんやりとアレッサンドロ様達を見つめていたら、エンリーコ様に耳元で囁かれてしまった。
「こんなところでまでおっしゃらなくても結構です!」
「そう? 僕はあの莫迦の代わりに、君が彼に言った分の愛しているを捧げるつもりなんだけどなー」
「どういうことですか?」
「馬車を降りるときに言った通りだよ。僕はもう君を愛している。教室では氷の人形みたいな君が、あの莫迦が迎えに来た途端に見せる蕩けるような笑みを奪いたかったから、この計画を立てたんだ。まあ色ボケ爺に吠え面かかせてやりたかったのもあるけど、爺は毒でも使えば……ごめん、なんでもない。聞かなかったことにして」
子どものように無邪気な笑みを浮かべたエンリーコ様は、アレッサンドロ様にだけ見せていた私の微笑みに恋していたのだと言う。
アレッサンドロ様やリティージョ様の同級生のお兄様にふたりが浮気していることを聞いて、どうしても私を奪いたいと考えたのだと。
「……エレナ、怒ってる? あのふたりが浮気しているだなんて知らないほうが良かった? 僕、余計なことしちゃったかなあ?」
「いいえ。エンリーコ様に教えていただく前に家族からも聞いていました。自分ひとりでは踏ん切りがつかなかっただけですわ。背中を押してくださってありがとうございます、エンリーコ様」
アレッサンドロ様とリティージョ様は愛を貫いて結ばれることになったけれど、なにひとつ傷を負わなかったわけではない。
ガッロ侯爵家が出てきたことで現侯爵様とリティージョ様の大叔母様の醜聞が掘り返されてしまったし、おふたり自体も不実から始まっていることが知れ渡ってしまった。
婚約者の家とその寄り子貴族だからと返済に甘かったマルキ商会ではなく、表面こそ取り繕ったものの今もリティージョ様に執着している現侯爵様が当主のガッロ侯爵家が債権者になってしまった。彼らの未来には暗雲が立ち込めている。
「愛しているよ、エレナ。いつか僕を愛してくれる可能性はあるかな?」
「そうですね。先ほども申し上げましたが、今日はもう愛しているとおっしゃっていただかなくても結構です。その代わり……エンリーコ様のことを教えてください。あなたの好きなことや好きなものが知りたいのです」
「僕が好きなのはエレナだよ」
「もう!」
心のない愛しているは、もういらない。
エンリーコ様の愛しているには、もう心が入っているのかもしれないけれど、今度聞くときは私の心にも彼への愛が宿ったときにして欲しい。
そして私も、心からの愛しているを彼に告げるのだ。そのときはもうすぐ……かもしれない。