9 神降ろし
宴の席に戻ると、李慧が珍しく既に大分酔っていた。
「アポロン様、紹介が遅れてしまいましたが、居候の幸士郎です。こちらの世界では珍しいでしょう。生身の人間なんですよ。」
僕は軽く会釈をしたが、アポロンがまじまじと観察してくるので、どぎまぎして落ち着かなかった。
「ふむ、確かにれっきとした人間だね。それよりも驚きなのは、君、李慧とそっくりじゃないか。雰囲気はまるで異なるが。」
僕は李慧と思わず顔を見合わせて笑ってしまった。そんなことは誰からも一度も言われたことはない。
「アポロン様、どこを見て似てるとおっしゃるんです?僕たち、見た目も中身も全然似てないと思いますよ。」
意外とこの神様はとんちんかんだな。きっと化粧が濃いせいだろう。それに結局は遠い西の彼方から来た人だ。東洋人なんか全部似たような顔に見えるのだろう。
「そうですか──。僕たちは似ていますか。」
李慧は何故かとても懐かしそうに、赤ら顔で僕の頬にそっと触れた。
「幸士郎、君が僕と似ているとしたら、それは嫌なことかい?」
「え?まあ、嫌ではないけどさ。そんなことあり得ないだろう?李慧みたいに色白じゃないし。」
「私の見間違いだったかな。いや、気を悪くしないでくれ。」
アポロンはばつが悪そうだった。この話題を早く変えたがっているようで、薬草の話をし始めた。
「いや、それにしてもこちらには植物の根を使った素晴らしい生薬がたくさんあると聞いて驚いたよ。西洋では草花がメインでね。香りが良いものが多いんだ。東洋の薬学には及ばないかもしれないが、いくつか君が好きそうな本を持ってきたんだ。あの素晴らしいと評判の書斎のコレクションに加えてくれるかい?テオプラストスの『植物誌』と、プリニウスの『博物誌』なんか持ってきたんだがね。」
おもむろに取り出したのは、年季の入っている、古ぼけた羊皮紙のずっしりとした分厚い本だった。
「とても古い本ですね。薬草の生態などはあまり詳しくないので、こんな本があればと方々探していたのです。ありがたく頂戴いたします。」
李慧は目を輝かせて、大事そうに背表紙を撫でた。
「他にも荷馬車にたくさん積んできているから、後でゆっくり読みなさい。気に入ったものはいくらでも差し上げよう。さて、そろそろ演奏が始まるようだ。」
ふと気がつくと、瑞鬼もいつの間にか席に戻ってきたようだが、いつもより口数が少ない。
「瑞鬼、お楽しみはどうだったかい?」
今日はこいつをいじめる良い機会だ。日頃の鬱憤を晴らしてやろうと嫌みったらしく挑発した。
「いいじゃねえかよ。こんなめでたい日なんだぜ。先生だってあんなに酔ってるじゃねえか。幸士郎ももっと楽しめよ。」
瑞鬼は僕の肩に腕を回すと、無理やり白酒を喉に押し込んできた。ここの酒はかなり強い。ただの人間には飲めないほどものなので、原液を流し込まれては喉が張り裂けそうになる。反射的に空瓶を掴むと、瑞鬼の後頭部めがけて思いっきり振り下ろした。辺りにはガラスの破片が飛び散った。さすがに瑞鬼も頭を庇い、僕を手放した。
「ゲホゲホ、なにするんだよ!瑞鬼と李慧とは違うんだから、一気飲みしたらぶっ倒れるだろ!」
「ったくこれだから人間は嫌いなんだ。そんなにむきになるなよ!お前のせいでこの獅子のかつらが台無しになるところだ! 」
お互い感情が高ぶり、つい立ち上がってああだこうだと胸ぐらをつかみもみくちゃになっってしまった。
「しーっ、静かに!。君たちは本当にうるさいね。ほら、私のムーサたちが、演奏を始めるぞ。少しは聴く耳を持ちなさい。」
アポロンが僕たちの肩を軽く叩いてなだめると、1階の舞台を誇らしげに見下ろした。そちらを振り向くと、テルプシコラとエラトーが竪琴を弾き歌い踊り、エウテルペのシュリンクス笛の調べが華月亭の高い天井を豊かにふるわせて、皆が深い喜びに導かれていった。どこか懐かしい、静かな音楽であった。華月亭にひしめく客たちも次第に無言になっていき、彼女達の周りには神聖な気が立ち込め、淡い光に満ちているようだった。
演奏が終わると、皆我先にと彼女たちと踊りたがった。だが残念なことに、ムーサたちは笑顔でそれをはっきりと断り、アポロンのもとへと戻った。
「アポロン様。女達の素晴らしい音楽、まことに私、感動いたしました。お返しに、私からも舞を奉納させていただきたく存じます。」
瑞鬼はそう言い残すと、席から立ち上がり、3階から颯爽と仰々しく舞台に飛び降りた。舞台にはどこからともなく三味線と太鼓を演奏する者が現れ、瑞鬼は獅子のかつらを振り回し、足を豪快に踏み鳴らした。先ほどとは正反対で、群衆は血がたぎり、大いに盛り上がった。訳のわからないことを叫ぶ輩もいて、皆酔いが回っていた。瑞鬼のあっぱれな舞に感極まり、紙吹雪をかける客もいる。僕は酒が効いてきてしまったのだろうか、心臓が肋骨を強く打ち始めた。喧騒の中、目に写る景色が揺らぎ始めた。ああ、耳から入る音が五月蝿くて頭がズキズキする。体が熱い。胸が切り刻まれるように疼いて息ができない。
突然杯が割れる音がした。振り向くと、幸士郎が真っ青な顔で、李慧の袖を震える手で強くつかんでいた。
「うっ、李慧、助けて…。熱い、体が焼ける──。」
幸士郎が胸を押さえて悶えていた。息が吸えないのか、不規則な荒い呼吸を繰り返し、だんだんと目が虚ろになっていった。おかしい。このところはずっと元気で、こんなことは一度もなかった。いくらここの酒が強かったとしても、こんなに苦しむはずがない。心拍が非常に高く、熱がある。しかし、それだけでここまで酷い状態になることはまずないはずだ。それに他にはどこも悪くないようにみえる。瑞鬼も心配して席に戻ると、幸士郎の名を呼び続けた。しばらくすると、黒髪が銀髪に変わり、見る見るうちに背中を覆いつくすほどの長さに伸びた。体つきも少し大きくなり、爪は鋭く尖っている。
「ふぅ、久しぶりじゃのう、山から降りて来たのは。我の棲処まで宴の盛り上がりが届いておったぞ。我も席に加えてくれるかの?」
幸士郎は何事も無かったかのように起き上がったが、中身は別人だった。誰かが幸士郎の声を通して話し、瞳孔は狐のように細く、金色に染まっていた。
「もしや飯綱様ではありませんか?このような下界にわざわざいらっしゃってくださったのですか。」
動揺を隠し、幸士郎にとり憑いた神に酒を注いだ。早く肉体から解き放たなければならないが、むやみに払えば幸士郎は魂を損なってしまうだろう。
「そうじゃ。それにこの体が良い拠り所だったものでな。」
飯綱様は杯を受けとると、自らが持参した甘酒を、李慧とアポロン、瑞鬼にも振る舞った。
「そこの鬼、素晴らしき舞じゃったぞ。誉めてつかわす。さて、今日という出会いの日に、改めて乾杯じゃ!」
ぐいっと皆で一思いに飲み干した。米の優しい甘さが口の中に芳香とともに残って、非常に美味な酒だ。
「李慧よ。我と一本、勝負でもしようかの?勝ち負けはどうでも良い。もし我を満足させることができれば、この体、すぐに持ち主に帰そうぞ。」
「どんな勝負でございましょう?何でもお受けしましょう。」
「一騎討ちはどうじゃ?どちらがより美しく、相手に技を決めたかを争うのじゃ。」
「承知しました。お受けいたしましょう。」
幸士郎を助けるためだ。早く方をつけなければならない。李慧は巾着袋から古い両刃の剣を取り出した。本当は弓の方が得意だが、一騎討ちなどの近距離では役に立たない。
「李慧、安心しなさい。どうしようもなくなれば、私が力を貸そう。」
アポロンは彼を案じて、懐に月桂樹の葉をお守り代わりにこっそり忍ばせてくれた。
「先生に何かあれば、俺があいつをぶっ飛ばしますよ。」
瑞鬼は飯綱が苦手な様子だ。無理もない。あそこまで清浄な気を持つ者は、鬼の瑞鬼とは元々相性が悪いのだ。
「あれは幸士郎の体なんだ。絶対に瑞鬼は手を出してはいけないよ。」
これ自分と飯綱様の問題なのだ。誰にも手出しをさせるつもりはない。
華月亭の盛り上がりは頂点に達していた。李慧と飯綱の一騎討ちという珍しい見せ物があるのだ。客達は舞台の周りに、押し合いへし合い集まってきていた。
李慧は肩慣らしのために、アポロンが生やした植物の葉を一枚取り、中に投げると目にも止まらぬ速さで剣を振るった。空を切る音がしたかと思うと、真っ二つになった葉が彼の手のひらに乗っていた。いつにも増して真剣で、普段の彼からは考えられないほど、鋭く敵意のこもった眼光を飯綱に向けていた。本気で勝負に出るつもりだ。一方飯綱の方は余裕綽々で、あくびをしながら相手の準備ができるのを待っていた。
勝負はあっという間だった。噴水のように優雅な曲線を描く水の線が見えたかと思うと、七色の火の粉が辺りに花びらのようにきらきらと舞い散った。わっと歓声が上がり、とめどなく拍手が起こる。そうしている間に、群衆は李慧が左手に火傷を負い、飯綱も頬に真っ赤な刀傷を受けていることにやっと気がつき、勝負が終わったことを悟った。
「はい、両者そこまで!いやいや、本当に美しい!!飯綱様も李慧も素晴らしい術で我らを魅了した。皆もそう思うだろう?」
アポロンの問いかけに、群衆は皆雄叫びをあげて同意した。
「李慧様、飯綱様相手に最高だぜ!しびれんなあ!あんなにきれいな剣技、初めて見るぜ!」
「飯綱様の狐火も最高だぜ!俺にも浴びせてくれよ!魔除けにならあ!」
結局勝負はつかなかったが、皆がそれに満足していた。
「飯綱様、この一騎討ちのご判断をお願い致します。 」
飯綱は勝負で乱れた髪をさっと整えながら、大満足した様子だ。
「ふふ、そうじゃな。ちょっと我も本気になりかけたわい。李慧、おぬし、こやつの体だからといって、手を抜いたり、隙を見せたりしななかったじゃろ。」
「ええ。飯綱様のようなお方が、幸士郎をむやみに傷つけるはずはないとわかっておりました。だから、本気で戦えたのです。飯綱様との命のやり取り、私は本当に面白うございました。」
「我もこんなに楽しい一騎打ちは久しくなかった。李慧のおかげじゃ。さて、そなたの望みどおり、我は山へ帰るとしよう。また違う形で会うこともあろうぞ。」
飯綱はなにやら古ぼけた大きな麻袋を取り出すと黄金の粒を大量に皆に撒き散らした。
「これは今日の宴の褒美ぞ!皆の者、好きなだけ持って帰るがよい!はーっはっはっは!愉快じゃ!愉快じゃ!」
黄金の粒は、よく見ると種籾であった。この珍しい稲の子どもたちは、豊かな実りをもたらす特別な種であり、神の恵みに養蓮の住人たちはただひたすらに感謝するばかりだった。
李慧は一騎打ちのせいで息が上がり、立っているのもやっとだった。幸士郎は元の人間の姿に戻ったが、一向に意識が戻らない。アポロンは李慧に看病を頼まれたので、幸士郎を個室に寝かし、薬草を焚いて処置を施した。瑞鬼は李慧に付き添って、左手の怪我の手当てをしていた。1時間ほどすると、幸士郎は目を開けたが、ひどく震えている。
「寒い……。体が痛い…。」
「起きたかね。さあ、このお茶を一杯きちんと飲みきりなさい。からだが暖まる。」
アポロンはカモミールの優しい香りがする紅茶を飲ませてくれた。幸士郎は段々と落ち着きを取り戻すと、ゆっくり起き上がった。
「僕、途中から全然記憶がないんですけど、酒を飲み過ぎてしまいましたか?」
あまりにも平穏な答えに、陽気な神は腹を抱えて大笑いするしかなかった。
「君、本当に全然なにもわかってないね。自分が神を降ろしたことにも気がつかないなんて。いや、幸士郎くん、君は優秀なシャーマンになれるよ。才能がある。無意識に神降ろしができる人はそうそういない。ま、今回は『場』が盛り上がっていたせいもあるだろう。神を寄せ付ける気が立ち込めていたんだ。それは元をたどれば原因は私にある。何かお詫びでもさせてはくれないか。何でも望みを言ってみなさい。」
これはまたとない機会だと直感した幸士郎は、考えるより先に言葉がついて出てきてしまった。
「では、私に現世や彼岸へ行く方法を教えてはもらえないでしょうか?どうしても知りたいのです。李慧や瑞鬼ですら、人間が行き来する方法がわからないと言うのです。」
アポロンは大層なお願いに眉をひそめたが、顎に手をあてしばらく思案すると、きちんと答えてくれた。
「私も直接はその方法を知らないが、そういうことに詳しい神と因縁があってね。ヘルメスというやつだ。そいつはどこにいるのか誰も知らないが、世界中を旅して、旅人や死者の案内人を勤めている。彼なら、何でも知っている。それを教えてくれるかどうかは別問題だがね。」
幸士郎は思いがけず、ついに有力な情報を得た。家に戻るとすぐに瑞鬼と李慧に詳細を伝えたが、李慧はそれに喜びもせず、すぐに寝室へ戻って寝てしまった。今日は色々なことがありすぎた。全ては明日以降だ。彼らの家は華月亭とは正反対に静寂に包まれた夜を迎えた。疲れ果てた住人たちは、何の物音にも邪魔をされることなく、深い夢の底にすぐに落ちていった。