7 来訪者
養蓮に来てから1ヶ月程が経とうとしていた。李慧は相変わらず書斎で調べものをしたり、患者の治療にあたっていたが、現世へ戻る手がかりが掴めたような素振りは全く無かった。瑞鬼とはあの事件から特に何事もなく平和に過ごしているが、相変わらず喧嘩をしてばかりの日々が続いていた。
今日は李慧が珍しく街に出たいと言うので瑞鬼が留守番をすることになり、二人で市場に出かけた。しかし、今日の市場はいつもより騒がしかった。動物たちがしきりと隣同士の露店商と世間話をしている。
「これはこれは、李慧殿!これは良いところにいらっしゃった!」
両替商の猿が耳障りな声で近寄ってきた。
「どうしたんです?そんなに慌てて?」
「聞いてくださいよ、旦那。西の彼方から、この養蓮にアポロン様がいらっしゃるそうですよ。こんなめでたいことはめったにありませんし、皆で宴を開き、お出迎えしたいと興奮しているのです。」
「なるほど。それは丁重にお出迎えしなければならないですね。私もできるだけの用意をいたしましょう。」
李慧はぱっと顔を輝かせ、非常に喜んでいる様子だった。
「え?どういうこと?神様も養蓮を訪れることがあるのかい?」
状況がよく飲み込めず、思わず彼に疑問を投げ掛けた。
「もちろんそういう時もあるよ。ただ、西の方からいらっしゃるのはかなり珍しいな。きっと何か大切な用事があるんだ。それに僕もアポロン様にお聞きしたいことがたくさんあるんだ。医学についてもお詳しいしね。」
ギリシャ神話の登場人物に本当に会えるなんて、嘘のような話であった。しかしこれは現実だ。僕は何だかここに来てから自分が浮世離れしてきているような気がしていた。こちらの世界に体が馴染んできているのがわかる。どんどん現世での出来事や記憶が遠ざかり、曖昧で不確かなものになっていた。しかしそれに焦る必要はない。どうせもう二度と元の場所には戻らないのだから。
「幸士郎とせっかくだから出かけようと思ってたんだけど、急用ができたから、買い出しが終わったら先に戻ってくれないかな。」
そう言い残すと、そのまま猿たちとどこかへ行ってしまたので、独りぼっちで何もすることがなくなってしまった。僕はふと思いつきで肉屋の狼のところへ立ち寄ることにした。
「おや、久しぶりだね。私になにか用でもあるのかい?」
「ああ。色々と聞きたいことがあるんだ。」
狼は何を聞きたいのか見透かしたように、
「そうかい。人に聞かれたらまずい話だろう?奥に入りな。」
と僕を家にいざなった。
「さて、それで、進展はあったかね? 」
「……。ハハ、進展があったように見えるかい?本当はわかっているくせに。」
狼は意地悪そうににやつきながら、黒い飲み物を出してきた。口をつけてみると、どうもお酒のようだ。
「現世で自殺したお前さんを、先生が偶然拾って命を助けてしまうなんてねえ。養蓮にお前さんのような人間が来るなんて、運が良いにも程がある。先生はお前さんが自殺をしたとは夢にも思っていないから、少し人助けが過ぎてしまったことに気がついていないのだよ。先生とお前さんの間で、均衡が崩れつつあるのだ。まだ実害は出ていないかもしれないがね。 」
「何だって?僕が養蓮にいるとなにか不都合なことでもあるのか?」
「大有りだよ。」
それでは早く彼岸に行く方法を探さなければならない。先生やここに住む動物達に、迷惑はかけたくない。この街での平穏な日常をぶち壊すことなど、絶対にしたくはなかった。
「今度アポロン様が来るらしいじゃないか。あの方なら何かしら助言をくださるかもしれないよ。ま、早めに手を打たないと、取り返しがつかなくなるからね。」
「取り返しがつかなくなるってどういう…。」
あれ…眠くなってきたな……。視界がぼやける――。狼が僕の耳に何かをささやいたが、もうその声も聞こえていなかった。
「閻魔様、聞こえますか。こいつが例の幸士郎というやつです。私ができることはここまでですからね。」
「狼よ。情報はしかと受け取ったぞよ。ふむ、わしが手を下さずとも事は勝手に進む。安心せよ。」
狼の部屋の暗がりから年寄りの声がした。幸士郎は幸せそうにすやすやと眠ったままだ。狼は満足そうにほっと胸を撫で下ろすと、ひたすらじっと黙ったまま、黒い薬の効能が切れ、彼が目を覚ますまで影のようにひっそりと側で待ち続けたのだった。