6 半端な3人
瑞鬼は幸士郎に対して妬ましい黒い感情が込み上げてきて、鬼の血がざわつき、破壊衝動に抗うことがどうしてもできなかった。この人間を痛めつける度に強い快感が光線のごとく走り、気持ちが良すぎて意識が飛びそうになった。ああ、いつまでもこうしていたい――。その瞬間、現実的でくっきりとした鋭い痛みを肩に感じた。
反射的に振り返ると、そこには息を切らして弓を引いている李慧がいた。2本目の矢先は瑞鬼をしっかりと捉えたままだ。
「葵。今すぐ幸士郎を離せ。でないとこの指が矢を放つのを自分でも止められない。」
葵と呼ばれた鬼は、熱い血が少しずつ冷めていくのと同時に頭がはっきりしきて、やっとこの惨状を正確に把握し始めた。そして自分のしでかしたことがわかると堪えきれずにはらはらと涙をこぼした。
「先生…。俺……。申し訳ありません。こいつにこっそり後をつけられて。ああ、やっぱり俺って鬼だから信用されてないんだって。それに、先生だって最近こいつにつきっきりだし、本当は俺よりも人間の幸士郎と一緒の方が楽しいのでしょう?」
ほっとしたように緊張をほどいて弓矢を筒にしまうと、李慧は泣いている彼の横に静かに座った。
「葵、確かに君が思っているとおり、幸士郎は僕にとってはかげかえのない存在なんだ。しかし、葵がいなければ今の僕のこの暮らしはない。君から養蓮で生きていく術を全て学んだんだ。幸士郎への気持ちとは違うかもしれないけれど、君は私の家族だ。それに、幸士郎は葵が鬼だからついて行ったのではないよ。ただ色々な世界を見たいという好奇心からさ。さあ、帰ってよく3人で話し合おう。僕は葵を十分人間らしいと思っているよ。ある意味で幸士郎よりもね。」
瑞鬼は彼の真意を理解できなかったが、その言葉に心底救われたような気持ちがした。李慧と過ごした二十数年は、人間であった頃の感情を思い出す上で非常に重要な時間であった。以前はただ人々への深い恨みから、鬼の血にまかせ、本能に従い現世で殺戮を繰り返していた。しかし、心の奥底では、人殺しなどしたくはなかった。それでも怒り・憎しみ・恨み・悲しみの負の感情はとめどなく湧いてきて、心を蝕むことを止めなかった。悠久の時の中それは繰り返され、瑞鬼は600年もの間孤独に放浪を続けることになったのだった。
気を失っている血だらけの幸士郎を大きな背中に担ぎ、食糧をもう一度丁寧に木の皮に包んで、彼は李慧とともに帰りの途についた。
誰かが僕の体を優しく慈しみを込めて拭いてくれている。白い華奢な腕がぼんやり見えるが、その腕は母とそっくりな形をしている。
「お母さん…。久しぶりだね。ずっと会いたかったよ。」
懐かしさのあまり無意識に手を掴んで引き寄せた。
「ちょっと、僕は幸士郎のお母さんじゃないよ。全く失礼だな。」
男の声がしたのでびっくりして飛び起きると、そこにはおかしさのあまり腹を抱えて笑っている李慧がいた。
「いやぁ、見事に瑞鬼にやられたね。出血がちょっと多かったけど、傷が浅くてよかったよ。」
森での出来事を思い出し、反射的に首に手をやったが、やはり少し傷がある。李慧はタオルを桶に浸すと、今度は紫色の軟膏を僕に塗りつけてきた。
「くっさ!何が入ってるんだよ、この軟膏は?もう最悪だよ…。そういえば、瑞鬼は?」
「ああ、もういつもどおりだ。今は食事中だから絶対に近寄ってはいけないよ。」
「ああ、わかってる。あいつが鬼だってこと、僕は本当の意味では少しもわかってなかったんだ。李慧はあいつが怖くはないのか?」
「普通、力のある鬼はむやみやたらにこの世界の者を食べたりはしないんだ。まあ、正直僕も人間ではないから食べられそうになったこともないし。それに半分は瑞鬼も人間だ。自分と瑞鬼は似た者同士でね。怖いと思ったことはないな。」
「李慧は人間じゃないのかい?」
「ああ、僕は人間の形をしているけれども、人ではない。私は何者でもないんだ。」
その意味がよく分からず、首を傾げるしかなかった。瑞鬼と彼が似た者同士だって?どこが?
そうこうしていると、トントンと襖をたたく音が聞こえ、瑞鬼が部屋に入ってきて、部屋の中に微妙な緊張感が走った。
「さて、2人には説教をしなくてはいけないね。まずは幸士郎、好奇心も大概にしてほしいね。瑞鬼の後をつけるなんて。」
「この世界がどうなっているのか知りたくなったんだ。あまり李慧からも詳しくは聞いていなかったし。悪かったと思っている。」
瑞鬼の目を直視することが出来ず、うつむいて畳の目ばかりに視線を落とした。本当に、鬼だからと疑って尾行をした訳ではなかったのだ。
「瑞鬼、これでわかったろう?お前が心配するようなことはなかったんだ。さあ、瑞鬼も謝らないと。」
彼は僕と李慧を交互に見ると、仕方なしに頭を下げた。
「こいつだけなら絶対に許しませんが、先生がお怒りですからね。俺としてもやり過ぎてしまったと思っています。幸士郎、今日の出来事は忘れてくれ。本当にすまなかった。自分でも理性がきかなくなってしまって。」
瑞鬼が僕に謝るなんてどういう風の吹き回しなのか不明であったが、本心から申し訳ない気持ちがむくむくとわいてきた。
こうして僕ら3人は日常に戻っていった。瑞鬼と僕は以前と変わらずお互いに文句ばかり言い合い、李慧が期待していたような関係にはならずに終わった。しかし彼もまた僕たちの仲の悪さに諦めもついたようで、喧嘩をし始めても、まるで空気のように面倒事に巻き込まれないよう避難を試みるようになっていった。