5 瑞鬼の秘密
仕事をし始めてから2日目、やることはたくさんある上に、まだ様々なことに慣れていないので、5時には起きて顔を洗おうと庭にある井戸へ向かった。水は冷たすぎず、気持ちのよい、清々しい朝だった。太陽が優しく全ての生き物たちを照らしている。青空に向かって背伸びをすると、自然とあくびがでた。信じられないほどのどかな早朝だなとぼんやりしながら、李慧に朝の挨拶をしようと思い、台所の戸を開けると、彼もいつも早起きのようで、既に薬を煎じていた。患者毎に薬の配合が異なるらしく、いくつかの土瓶をとろ火にかけ、うちわで火を調節しながら丁寧に作業をしていた。生薬の匂いが立ち込める中、李慧は額の汗を拭いながら一息ついた。
「おはよう、幸士郎。しばらくは薬棚の補充はいいから、先に掃除をお願いしてもいいかな。少し時間があれば、生薬の見分け方を教えよう。瑞鬼は全然説明をしなかっただろうからね。」
彼は申し訳なさそうに苦笑いして、またすぐに作業を再開した。
「よかった、種類が多くて入れ間違えたりしたら大変だと思ってたんだ。そうだ、後で買出しのリストをつくっておいてくれないかな。」
李慧の家はほとんど日本家屋と言っていいものであった。まずは厠や風呂等の水回り、廊下をはたきと箒をかけ、床を水拭きした。次は彼の部屋だ。昨日瑞鬼と回ったときは何故か立ち寄らなかったので、初めて中に入ってはみたが、そこは薄暗く、壁には北斗七星だろうか、墨で描かれた星座がいつくか飾られている。低い石造りの机には銀で縁取られた八卦鏡が置かれ、側には木で作られたいびつな三日月型のがらくたが何個か無造作に置かれていた。李慧はこういった占術とは無縁だと思っていたので、かなり意外だったし、占っているのを見かけたこともない。後で本人に直接きいてみようと心に決め、軽く床をを掃いて立ち去ることにした。
次は瑞鬼の部屋の掃除だったが、戸を開けると、部屋の主が腹を出して大口を開け、布団で爆睡していた。掛け布団はしわしわになって脇へ追いやられている。
「おい起きろ、朝だよ。おい瑞鬼!」
いくら揺らしても全く起きないので、はたきの柄で脇腹をピシャリと叩くと雷に打たれたようにやっと飛び起きた。
「痛ってえな!何すんだよ!俺は今日はまだ寝るから掃除は後にしてくれよ。出てけよ!ほら!」
僕は乱暴に背中を押されたが、瑞鬼の力が強すぎて廊下の壁に頭をぶつけてしまった。痛いのはこっちだ。くそ、どうしてこんなやつが李慧の小姓なんかやってるんだ。というか本当に600歳なのか?絶対に嘘だ。李慧のあの話はきっと冗談だったんだ。全然冗談に聞こえなかったよ。顔が涼しすぎるんだよ。
そんなこんなで、掃除が終わると朝食を食べに向かった。朝ごはんは普段李慧と瑞鬼は別々に食べているとは聞いていたが、今日は李慧の手作りの豪華な朝ごはんらしく、3人で珍しく一緒に食べることになっていた。食堂に行くと、先ほどとはうって変わって、瑞鬼が食事の準備を手伝っている。
「先生、今日は何のお茶にします?プーアルなんかどうですか?それか、イスラーム商人から品質の良い紅茶と香辛料を購入したのですよ。チャイにして砂糖をたっぷり入れるのはどうです?」
「普通のプーアル茶でいいよ。今日のメインは猪肉と椎茸の重ね蒸しなんだ。皆で分けよう。」
「先生、私が台所からお持ちしますから、座って楽にしててくださいよ。」
「そうかい?助かるよ。でも僕は自分が食べたい量だけ盛るから、先に幸士郎に取り分けてやってくれないか。早く元気になってもらわないとだからね。」
「あんなやつほっときましょうよ。もう先生の看病のおかげで十分元気です。なあ、幸士郎?」
「ああ、瑞鬼の言うとおりだ。だから、もう僕は明日からは1人で食事もとるし、とにかく瑞鬼とは別行動にさせてくれないかな、李慧?」
「幸士郎がそう言うなら好きにしていいよ。まあ、2人とも仲良くやってくれることに越したことはないんだ。僕はあまり心を乱したくないんだよ。わかったね。」
彼はため息をつきながら、僕に笹に包まれた猪肉の蒸し物と白きくらげ、鮭の入ったしょうが汁を持ってきてくれた。
「李慧、ごめん。助けてもらってばかりなのに、僕は君を困らせてばかりだね。」
「幸士郎、僕は君が僕のところで働いてくれるだけで十分なんだよ。ただ3人で何事もなく1日を終えることが僕の望みなんだ。」
李慧はどこか遠くを見つめながら、独り言のように呟いた。しかしすぐに我にかえると、
「そうそう、十全大補湯、買い出しに出かける前に飲んでおくんだよ。」
と、小さな黒い壺を3つ渡された。彼の薬は今まで飲んできた他のどの薬よりもよく効いたが、その反面、こんなに不味い薬は経験したことがなかった。
「またこの薄茶色の薬か。まだ飲まないとだめかい?調子はかなり元に戻ってきてるんだ。」
「体重が戻るまでは念のため飲んでおいた方がいい。それに、養蓮では何が起こるかわからないからね。」
「こんな平和な街で事件なんか起こりっこないだろう?何が危険なんだ?」
「もちろん普段はどこよりも平和さ。しかしだからこそとても危険な面もあるんだよ。いずれわかるさ。」
今日の市場での買い物は雑貨屋と八百屋くらいだった。八百屋で李慧から頼まれていた玉ねぎや白菜、菜の花を買った後、上品な白猫が営んでいる雑貨屋に入った。この店は常設店のようで、白い石壁と、屋根は日よけのテントが張り出し、正面の店先にはトルコランプがキラキラと光に反射して輝いていた。
「あーら、今日はお1人様なのねぇ。どんなご用かしら? 」
「ビューローみたいな本がおける机とか、椅子を探してるんです。あれば洋物の方をください。使い慣れてるので。」
「数は少ないけれど、もちろんビューローくらいならあるわよ。西洋のものは、この養蓮では珍しいのよ。あなた東洋人みたいだけど、変な人ねえ。」
「まあ、いいじゃないですか。お代はどうします?」
「薬酒2本でどうかしら?ローズマリーとシナモンをくださらない?美容にとても良いのよ。」
白猫は大層喜んで、ビューローと椅子は後で家まで届けてくれるとさえ言った。
用事も終わったので、市場を見物しようとふらっと歩いていたが、動物達が僕を見てひそひそ噂をしているのが嫌でも目についた。そんなに人間は珍しいのか。それか李慧は街で知らない者がいないくらい有名人のようだし、僕みたいな凡人が一緒に住んでいるのが動物達にとっては信じられないことなのかもしれない。と色々考えているうちに、ふと瑞鬼が街はずれの方に歩いて行くのを見かけた。僕は好奇心にかられると同時に李慧から聞いた話を思い出した。これからどこかに彼は出かけるのかもしれない。これはまたとないチャンスだ。何かわかるかもしれないので、こっそり後をつけることにした。瑞鬼は街はずれから続いている緩やかな下り坂をひたすら進み続けていた。うっそうとした茂みに隠れながら、彼を見失わない程度の距離を保って息を潜めた。辺りは次第に静けさを増し、動物達の気配すら消えていった。土は乾燥し砂が混じり始め、遂には風が吹き荒れ、砂塵が舞う不毛の土地にたどり着いた。草木は枯れかけた背の低い雑草しか生えていないので、岩陰に身をかがめて後をつけるしかない。辺りはかすかに硫黄の臭いがしていて、のどが痛くなってくる。布で鼻と口を覆い、咳をしないように浅く息をした。
半時ほど見つからないように必死でついていったが、硫黄の臭いは強くなるばかりで、地面からは蒸されているような暑さが襲ってきた。もうこれ以上は無理だ。しかし早く来た道を帰らないと、瑞鬼が戻ってきてしまうかもしれない。そっと、しかし最大限急いで養蓮へ踵を返した。上り坂が想像以上にきつかったが、やっとの思いで街はずれの森まで帰ってくると、心底ほっと安心し、大木の根に腰を下ろした途端、一気に睡魔に襲われた――。
「おい、お前ここでなにしてんだ?」
はっとして飛び起きると、瑞鬼がかすかに笑みを浮かべながら僕を見下ろしていた。
「こんなところで寝てたら危ねえよ。帰りが遅いと先生が心配するぜ。さあ、帰ろう。」
「ああ、ちょっと街を探索してたら疲れちゃって。そろそろ帰らないと。」
僕は内心どぎまぎしながら瑞鬼と一緒に歩いていたが、ふと気がつくといつもの道ではない。
「あれ?この道でも家まで行けるのかい?初めて通るな。」
「もちろん行けるさ。ただ少し寄り道させてもらうぜ。すぐに用事は終わる。」
しばらくすると道はほとんど無くなり獣道になってゆき、さらに進むと森の中の広い空き地に出た。いったい瑞鬼の用事とは何なのか?訝しく不審に思っていると、彼が振り返って急に僕の首に手をかけ、片手で持ち上げると、今まで見せたことのない、憤怒の形相で僕に詰め寄った。
「そなたは何故私の後をつけたのだ?そんなに私の本性を知りたいか?え?どうなのだ?」
瑞鬼の声は低く、地響きするような振動を感じた。
「違うっ。僕はただ養蓮の外がどこに繋がっているのか知りたかっただけなんだ!本当だよ!」
僕は目の前のよく知っているはずの同居人の変貌ぶりに怯えながら叫ぶしかなかった。彼の爪が首に食い込み血管が割けそうで、血が凍りそうなほど縮みあがった。
「嘘をつけ。そなたは私を詮索しに来たのだろう。人間ごときがつけ上がりおって。鬼とは何か、とくとお主の目に刻みつけるがよい。ほれ、私が何故今日地獄の淵まで訪れたか、この包みを開けて見るがいい。」
瑞鬼は僕を地面に放り捨てると、茶色い木の皮の包みを乱暴に投げつけてきた。震える指で機械的に紐をほどいたが、視界に飛び込んできたものに思わず顔を背けるしかなかった。心臓、腸、肺、腎臓、目、舌――。動物のバラバラの生の新鮮な内臓がそこにはあった。
「これが私が生きていくための食糧なのだ。人間の内臓は非常に美味でね。それに養蓮の生き物達は特別で、よほどのことがない限り襲ってはいけないことになっている。だからときどきこうして地獄の鬼どもから新鮮な肉を調達しているのだ。」
なんだって?今なんて言った?「人間の内臓」って言わなかったか?急に吐き気が襲ってきて、胃を落ち着かせるために僕は目を閉じた。
「幸士郎、お主のことなぞいつ食ろうてもよいのだ。」
瑞鬼は僕の首筋に爪をたて、プツリと静脈を切ると、溢れてくる血を舐め回した。このままでは殺される。とっさに鬼の化け物の腕から逃れ、全速力で走ったが、気づくと目の前に彼が待ち構えていて、思いっきり腹を蹴られた。あまりの痛さにうずくまったが、鬼の同居人は冷徹に高笑いするばかりだ。
「ハハハ、いい気味だ。そなたなぞ先生の側にいる資格もない。」
ああ、こいつに喰われて今度こそ本当に死ぬのかもしれない。鈍い痛みに耐えられず、口からうめき声が洩れる。僕は目の前が次第に暗くなって、意識が遠のいてゆくことに抗えなかった――。