3 李慧と養蓮
僕が李慧の家で目覚めた日から、幾日かが過ぎた。李慧が色々と世話をしてくれたおかげで熱も下がり、普通に起きられるようにはなったが、彼がしばらくは念のため安静にしておいた方が良いと言うので、この四畳半の部屋と厠くらいしか行き来出来なかった。そのせいとは口が裂けても言えないが、布団から動かずしばらく臥せっていたせいで、あまり体に力が入らなかった。そしてその何日間か、今の状況について頭の中で整理をしてみた。自殺するつもりがどうやら失敗をして李慧に拾われた。ここは養蓮という謎の地で、李慧はしばらくここにいていいと言っているが、僕を元いた場所へ返すつもりらしい。彼は自分が自殺したとは知らないから、きっと現世ではなく彼岸に行きたいと思っているなんて夢にも思っていないだろう。自身の身の上を考えること以外に何もする気力もなかったので、ただ天井を見つめて無駄に過ごすばかりだった。
「幸士郎、朝ごはんを食べるかい?」
李慧が今日は上機嫌な様子で部屋に入ってきたが、胡麻の香りが漂ってきて、初めてお腹が空いていることに気がついた。
「お腹が空かないからって、何日か少ししか食事をとっていないだろう。今日は流石に食べてもらわないと困るよ。牛の乳に帆立とくるみ入れて、お粥にしてみたんだ。白ごま油も入れたから、すごく食べやすいと思うんだ。」
「ああ、今日はすごく腹が減ってるよ。うわ、本当にうまそうだね。」
布団から起き上がると、久しぶりのきちんとした朝食をとった。養蓮の食材は何をとっても非常に新鮮で、帆立はプリプリで後味が甘く、お米ももち米のような美味しさがあった。彼は僕の食欲に心底ほっとした様子で、
「今日は山菜と薬草を採りに裏山にでも出かけようと思ったんだけど、幸士郎も一緒に行ってみないかい?」
と持ちかけてきた。
「もちろん行くよ。とにかくこの部屋からそろそろ出させていただきたいね。」
お粥をすすりながら、嫌みを込めてわざとにやにやしながら言った。
「いや、悪かったよ。でも本当に休んでいた方が良かったと思うよ。幸士郎は自分が思っているよりもずっと危険な状態だったことを知らないからそんなことが言えるんだ。最初に川で見た時は、本当に死んでいると思ったんだからね。さ、じゃあちょっと僕についてきてくれ。まずはとにかく着替えよう。」
起き上がって、李慧の後をついて廊下を少し進むと、古めかしい黒い蝶づかいと取手のついた箪笥や、水墨画が描かれている襖のある、少し大きめの部屋に案内された。
「今日からここが幸士郎の部屋だよ。家具は少ないけど、必要なものがあれば市場で買うといい。あと、幸士郎が着ていた洋服、そこの引き出しに入れておいたよ。養蓮ではその洋服だと目立つから、絶対に着ないようにね。ただ捨てずに取っておくんだ。」
僕は今まで着ていた白い寝間着を脱いで、美しい青龍の刺繍の入った外着を羽織りながら、ふと鏡を見た。そこには肉が削げ落ち、痩せこけた自分が映っていた。いや、映っているのは本当に僕だろうか?やはり僕だ。亡霊のような自分の姿を目の当たりにして、初めて死をこんなにも身近に感じた。自らそれを望んだのに、急にリアルな死の影に、震えを抑えきれないほど恐ろしさを感じた。相反する矛盾した感情が僕の中を駆け巡って、それに耐えきれず部屋を飛び出したが、足に力が入らず、まだ走ることが出来ない身体だということを思い知った。すぐに李慧に追いつかれ、乱暴に腕を捕まれた。振り返ると、珍しく彼が本気で怒っている。
「おい、どこに行くつもりなんだい?養蓮のこともよく知らないのに、勝手にうろうろされたらこちらが困るんだ。この街は幸士郎がいた世界とは違って、とても危険な所なんだよ。それに、この養蓮の食べ物を食べてゆっくり休めば、体つきだってしっかりしてくる。今だって見た目は病人にしか見えないけど、自力で立って普通に歩けるようになったじゃないか。」
背中を押されて部屋に戻り、無理やり僕は鏡の前に座らされた。李慧は頬紅や口紅を取り出して、僕の顔に化粧をし始めた。その行動が全く理解できなかったが、彼からまだ怒りの熱気が伝わってきたのでおとなしく従うことにした。そして目を開けて恐る恐る見ると、血の通った、むしろ漢服によく馴染んで自然なくらいの僕がいた。今まで化粧などしたことはなかったが、男でも少しは美しくなるものだなとじっくり自分の顔を観察してしまった。
「こうしておけば外を出歩いても病人には見えないから、心配ないよ。じゃあ、僕は玄関で待っているから、ゆっくり支度しなよ。」
日も高くなり、段々と気温も上がってきた頃、幸士郎と李慧の2人は早速採集に出かけた。李慧の家からなだらかな上り坂がずっと続いている。彼らは一言も話さず、湿った土の道をゆっくりと歩いた。遥か遠くには険しく切り立った山に緑がかった霞がぼんやりとかかっている。それは本当に仙境に迷い込んだかのように美しい景色だった。道の脇は木立が生い茂り、空気は濃く甘かった。李慧は日除けの笠をかぶり、背中には大きな篭を背負って、ときどき地面に顔を近づけ薬草をあちこち探し回っていた。幸士郎は養蓮の自然の豊かさに感心してばかりで、浅緑の景色ばかり眺めては、その美しさにため息をついていた。
「ほら、足元にヨモギがあるよ。小豆を煮てよもぎ餅にするのも良いかもしれないね。」
李慧が摘んだヨモギはとてもみずみずしく、強い芳香を放っていた。嗅いだことのある香りに、幸士郎は心底懐かしさを感じ、穏やかな気持ちになった。他にもキノコやセリなどの山菜を摘みながら、2人は再び先へ先へと山を登った。相変わらず幸士郎は一言も話さず、何かをずっと考えている様子だった。彼らを見下ろす森は、ウグイスやヒバリ、様々な鳥が鳴き、木漏れ日がときどき揺れた。養蓮の森はたくさんの生命で溢れていた。他にもスイカズラや、なかなか手に入らないオウレンという薬草も採集できたので、李慧は非常に満足した様子だったが、ずっと歩きづめだったので幸士郎はすっかり汗をかいてしまった。一方で李慧は全く顔色を変えず、疲れた様子が微塵も感じられない。息が上がってしまって、もうこれ以上は山を登れそうになかった。
「この辺りでそろそろ休もうか。今日はかなり収穫も多いし、お昼を食べたら早めに下山しよう。」
李慧は僕を肩で支え、どこからともなく蓆をだすと、木陰に広げて座って冷たい緑茶を出してくれた。
「こんな大荷物、どこに隠してたんだい?李慧は篭しか持ってなかったじゃないか。」
「ああ、この腰に下げている金の巾着袋に仕掛けがあってね。生き物でなければ何でも入るのさ。」
彼は巾着袋に手を入れ、笹の葉にくるんだお昼を取り出した。開けてみると、桜えびと卵、アスパラの入ったちらし寿司で、山で食べるお昼にしては非常に豪華だった。
「汗もかいたろうし、お酢がきいているものが良いと思ってね。蜂蜜も少し入れて、お腹にもやさしいから、幸士郎が食べてももたれないと思うよ。」
外で手作りのご飯を食べるのは最高に気持ちが良かった。元々彼の料理は美味しかったが、この山にいるだけで、自分の体に生命力が流れ込んでくるような感覚があった。長時間歩いた後の足の疲れも、すぐに抜けていってしまった。李慧は薄茶色の団子を少し頬張っただけで、もうお腹が一杯だと言って、僕が食べ終わるまで、薬草の塵を取る作業をしていた。
「なあ、やっぱり君のところにしばらく居させてほしいんだ。他に行くところもないし、落ち着いてゆっくり色々考えたいんだよ、今後のことをね。そして、現世に戻る手立ても見つけるつもりだ。」
その言葉を聞くと作業をふと止め、僕をじっと疑り深く見つめてきたが、ようやく何かを決心したようだった。
「やっとその気になってくれたかな。今後上手く事が運ぶかどうかは、幸士郎の気持ち次第で変わってくる。帰る方法が見つかるまでは、僕の家で働いてもらうよ、家賃の代わりにね。」
李慧は朱色の漆を塗った盃を取り出すと、僕に酒をついだ。
「さあ、僕と契約するんだ。僕は幸士郎のために最善を尽くそう。幸士郎、君は願いが成就するまで僕の家で働くと約束しておくれ。」
「ああ、約束しよう。僕は自分の願いが成就するまで君の家で働こう。」
僕は彼がついだ、冷たく澄みきったお酒をゆっくり飲み干した。契約の酒は体内を血と共にかけ巡って、少し熱を持って隅々までしみわたっていった。
この時僕は大きな嘘をついた。僕は元の世界に戻る気などさらさらなかったのだ。李慧を利用して、苦しみも悲しみもない死の世界、父と母に会える場所へ行く方法を探そうと決心したのだった。自殺をしようとして橋から飛び降りたということは、自分を助けてくれた彼にはどうしても言えなかった。それに、そんなことを知られたら、李慧がどんな態度に出るかわからなかった。と言うのは、どんなにか彼が優しく、信用できる人物かということは身に沁みてわかってはいたが、同時に畏れを抱いていたからだ。
こうして僕は李慧の家の住人の1人となり、養蓮での新しい生活が始まった。